四歳の夜明け前
公爵邸。深夜。
時刻は分からない。窓の外がまだ真っ暗だから、夜明け前だとは分かる。
セレスティアは目が覚めた。
夢を見ていた。断頭台。刃。群衆の目。前世の最後の記憶が、夢の中で繰り返された。夢の中では、それが夢だと分からない。だから毎回、死ぬ。毎回、首が落ちる寸前まで体験して、目が覚める。
三歳の胸が、速く鳴っていた。どくどくと。
前世でも同じ夢を見た。十八歳の身体では、目が覚めた瞬間に夢だと分かった。この三歳の身体は違う。夢の中でも夢だと分からない。三歳の感覚は——恐怖と現実を区別できない。夢が終わっても、身体はまだ夢の中にいる。
三歳の身体が震えていた。
布団の中でしばらくじっとしていた。震えが止まるのを待った。止まらなかった。
声を出したかった。泣きたかった。でも誰かを起こしたくなかった。マルガレーテを起こしたら心配させる。フェリクス兄様を起こしたら心配させる。お父様は起こせない。
声を出さなかった。
代わりに扉を開けた。廊下に出た。
ナターシャがいた。
◇
廊下の椅子に座っていた。夜着のまま。膝の上に何もない。手がふたつ、膝の上に置いてある。目は開いていた。
「……ナターシャ」
「お嬢様」ナターシャが立ち上がりかけた。「どうされましたか」
「なんでここにいるの」
「少し眠れなかったもので」
嘘だ。椅子が扉の真正面にある。扉が開いた瞬間にすぐ気づける場所だ。眠れなかったのではなく、待っていた。
「……こわいゆめみた」
「左様でございますか」
「こわかった」
「さようで」
セレスティアは少しの間、廊下に立っていた。追い返されなかった。でも来い、とも言われなかった。
「……いっしょにいてもいい?」
「もちろんです」
◇
椅子が一つしかない。
ナターシャが「床でよければ」と言った。セレスティアが「わたしも床でいい」と言った。
廊下の床に、二人で座った。ナターシャが壁に背を預けた。セレスティアがその隣に座った。
石の床は冷たかった。夜の廊下は、昼間よりずっと冷える。でも、ナターシャの肩が隣にある。
「お嬢様、寒くはございませんか」
「すこし」
「お部屋から毛布を」
「いい。ナターシャが動いたら、ひとりになる」
「……左様でございますか」
それきり、話さなかった。話さなくていい、と分かった。ナターシャも話しかけてこなかった。何があったのかも、夢の中身も、聞いてこなかった。
ただ、隣にいてくれた。
廊下は静かだった。夜の灯りが壁の燭台に一つ、揺れている。その光の中で、ナターシャの横顔が見えた。表情は変わらない。いつもと同じ顔。それが安心できる顔だった。
前世でこんな夜はなかった。暗い廊下に出て、誰かがいたことは。隣に座ってくれた人がいたことは。前世で夜中に廊下に出ても、石の床しかなかった。
◇
どのくらい時間が経ったか分からない。
窓の向こうが、少しずつ変わり始めた。真っ黒だった空が、紺になった。それからゆっくりと青になっていく。夜明けが来る。
「ナターシャ」
「はい」
「前世では……」
言いかけて、止めた。
前世では、廊下に出ても石の床しかなかった。どこに行っても誰もいなかった。朝まで一人だった。暗い部屋の中で、膝を抱えて夜明けを待った。何度もそうした。
それを言おうとした。言葉にしようとした。
「……なんでもない」
「はい」
ナターシャは聞かなかった。聞こうとしなかった。
聞いてくれなくて、よかった。聞かれたら泣いていたかもしれない。泣くとうまく話せない。三歳の身体は泣くとすぐ声が崩れる。
◇
少しずつ空が明るくなる。
公爵邸の庭から、鳥の声がした。一羽。それから少しして、また一羽。朝が来ると鳥が増える。
「どうして待っていてくれたの」
長い間の後、ナターシャが答えた。
「お嬢様が今日、辛いことをたくさん経験されたと思いましたので」
「……ディートリヒのこと」
「はい。お嬢様が柱の陰でずっと聞いていらしたのは、存じておりました。お一人で聞くのは、重かったと思いましたので」
知っていた。ナターシャは知っていて、何も言わなかった。昼間も、夕方も。セレスティアが一人でいることを選んでいると分かって、そっとしておいた。でも夜中に廊下で待っていた。
「ありがとう、ナターシャ」
「いいえ」
「ありがとう」
「いいえ」
「なんでいいえなの?」
ナターシャが少しだけ間を開けてから答えた。「ありがとうとおっしゃっていただくためにしたことではないので」
セレスティアはしばらく、その言葉を考えた。
ありがとうとおっしゃっていただくためにしたことではない。
ならば、何のために。
前世では、誰かが動く時は必ず理由があった。利益か、義務か、恩を売るためか。何かのためにするのではなく、ただそうする——そういう人間が隣にいる。
分からなかった。でも——怖くなかった。その「分からなさ」が、怖くなかった。
「……そっか」
「はい」
◇
夜明けが来た。
窓の向こうが白くなった。空の色が変わった。オレンジが入ってきた。庭の木の輪郭が見え始めた。
「お嬢様。お部屋に戻りましょう。朝食の前に少し眠れます」
「うん」
立ち上がった。足が冷えていた。石の床に長くいたせいだ。ナターシャも立ち上がった。少しよろめいた。「だいじょうぶ?」と聞いたら「足が痺れていたもので」と言った。
「しびれるまですわってたの?」
「はい」
「それはごめんなさい」
「何もおっしゃらなくて構いません」
ナターシャが先に立った。扉を開けた。
「ナターシャ」
「はい」
「こわいとき、またそこにいてくれる?」
ナターシャは振り返った。十三歳の少女が、三歳の少女を見ていた。
薄明かりの中の顔だった。真剣な顔だった。嘘のない顔だった。「いつでも」が本当だと分かる顔だった。
前世では誰かに「いつでも来い」と言われたことがなかった。前世で十八年間生きて、そういう顔をした人間は——一人もいなかった。
「はい。いつでも」
◇
扉を通る時、廊下を振り返った。
椅子が一つ。壁に寄せてある。夜の灯りに照らされた廊下。誰もいない。だが、さっきまでナターシャがいた。足が痺れるまで、そこにいた。
廊下が、ただの廊下ではなくなった気がした。誰かが待っていた場所になった。
部屋に戻った。毛布に包まった。
足の冷えがゆっくりと温まっていく。
目を閉じた。夢を見なかったことを、また見るかもしれないと思った。でも、廊下に出たらナターシャがいるという事実が、布団の中にある。
前世にはなかったものが、廊下にあった。
椅子一つと、そこに座っていた人。足が痺れるまで座っていた人。
それだけで、少し眠れた。




