帰還の日
ディートリヒが王都から戻る日が来た。
朝から屋敷の空気が変わっていた。使用人たちは何も知らないが、空気の変化は感じ取っている。主の表情が違う。ヘルマンの動きが鋭い。マルガレーテが奥方様の傍を離れない。
セレスティアは自室の窓から中庭を見下ろしていた。
八日前の夜、父の書斎で交わした約束。「お前を守る。母を守る。この家を守る」。あの言葉は公爵の宣誓だった。鷲の紋章を背負う男の、鉄の誓い。
だが宣誓だけでは人は守れない。行動が必要だ。
そしてその行動が、今日始まる。
◇
ディートリヒ・クラウスは昼過ぎに馬車で到着した。
セレスティアは二階の廊下の窓から、その到着を見ていた。馬車から降りたディートリヒは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。身なりは整い、髪は丁寧に整えられ、旅の疲れを微塵も見せない。
完璧な仮面だ。
だがセレスティアの目は騙せない。ディートリヒの右手が僅かに強張っている。旅装を解く仕草に、ほんの一瞬の硬さがある。緊張している。何かを持ち帰った男の緊張。
宰相からの新たな指令か。あるいは聖魔力に関する情報を売った見返りの密書か。
出迎えたのはヘルマンだった。
「ディートリヒ殿、お帰りなさい。ご旅程はいかがでしたか」
「ああ、ヘルマン殿。穀物取引は順調に進みましたよ。王都の商会とも良い条件で合意できました」
穀物取引。嘘だ。嘘であることを、この場にいる全員が知っている。だがヘルマンは表情一つ変えない。
「それは重畳。閣下がお待ちです。到着次第、書斎にお越し願いたいとのことです」
ディートリヒの笑顔が、一瞬だけ揺らいだ。
「書斎に? 急ぎの用でしょうか」
「領地運営に関するご相談と伺っています」
ヘルマンの声は完璧に平坦だった。三十年に及ぶ軍務で培った鉄面皮。老騎士の表情からは何も読み取れない。
「分かりました。荷を片付けてから参ります」
「いえ。閣下は『すぐに』と仰せです」
ディートリヒの目がわずかに動いた。セレスティアはそれを見逃さなかった。
不安。恐怖ではない。不安だ。何かがいつもと違うことに気づいている。だがまだ確信はない。状況を読もうとしている。
有能な男だ。だが有能さは、追い詰められた時に最も残酷な形で裏目に出る。自分の知性が全ての可能性を計算してしまうから。
ディートリヒは薄い笑みを浮かべたまま、ヘルマンに導かれて屋敷に入った。
セレスティアは廊下の窓から身を引いた。
罠が閉じ始めている。
◇
書斎の前で、セレスティアは柱の陰に身を隠した。いつもの場所。この数週間で何度も立った場所だ。
扉の向こうから声が聞こえる。
まず公爵の声。穏やかだ。いつもの冷静な口調。
「ディートリヒ、王都の様子はどうだった」
「はい、閣下。穀物取引は順調に――」
「取引の話はいい。王都の政治情勢を聞いている」
ディートリヒが一瞬言葉を止めた。公爵が話を遮るのは珍しい。
「政治情勢、ですか。特に大きな変動はございません。宰相閣下の施政は安定しておりますし――」
「宰相に会ったか」
直球。
沈黙が落ちた。短い沈黙だったが、その短さがむしろ不自然だった。考える間もなく答えるべき質問に、一瞬の間が生まれた。
「いえ、お会いしておりません。穀物商会との交渉のみで」
嘘だと、セレスティアには分かった。声の調子がわずかに上ずっている。嘘をつく時、人は無意識に声を変えることがある。
公爵も分かっている。だが追及しない。まだだ。
「そうか。ではリリアーナの件だが」
「奥方様の件、とは」
「お前の不在中、家宰室の印を使った指示札が台所に置かれた。『奥方様に毎晩ハーブティーを届けるように』とな」
空気が変わった。扉越しにも分かる。書斎の温度が下がった。
「……私の不在中に、ですか。家宰室の印は執務室で管理しておりますが、印影を写し取ることは不可能ではありません」
ディートリヒの声はまだ穏やかだった。だが声の底に、硬いものが混じり始めている。
「その茶葉から、灰銀草が検出された」
沈黙。
今度の沈黙は長かった。三秒。五秒。十秒。
セレスティアは柱の陰で息を殺していた。
「灰銀草、ですか。それは……」
「フェリクスが成分分析を行った。乾燥茶葉に粉末状の灰銀草が混ぜ込まれていた。見た目では判別できないが、煮出すと成分が溶出する。巧妙な手口だ」
公爵の声は冷静だった。感情を排した事実の提示。だがその冷静さこそが刃だ。怒声より恐ろしい。
「閣下、それを私の仕業とお考えですか。台所の定例納品日を知る者は私だけではありません。茶缶を誰が荷に紛れ込ませたのか、お調べになったのでしょうか」
「まだ特定できていない」
「でしたら、私が持ち込んだと断じることもできないはずです」
「その通りだ。茶缶だけならな。ヘルマン」
扉の奥でヘルマンの声がした。いつの間にか書斎にいたのだ。
「はい、閣下。ディートリヒ殿の施錠された机から、宰相家の蛇の封蝋を用いた暗号書簡と、返書の控えを押収しております。控えには台所の定例納品日、奥方様専用の棚、夜の配膳記録を置く場所まで記されていました」
扉の向こうで、ディートリヒが息をのんだ気配が伝わった。
逃げ道が一つ塞がった。
だがディートリヒは立て直した。有能な男だ。
「家宰として、食材管理上の懸念を外部の助言者に相談しただけです。宰相家の封蝋については、私には――」
「ならばもう一つ確認する。フェリクスが符牒を解いた。先方の書簡には『薬庫を封じられた場合は食卓への道を示せ』とある。お前の返書には、今ヘルマンが挙げた三つが記されている。公爵家の内部情報を、なぜ宰相家へ渡した」
空気が凍った。
「そして今回、まさにその経路で毒が届いた。それについて説明してもらおう」
長い長い沈黙が落ちた。
セレスティアは柱の陰で、自分の心臓の音を聞いていた。速い。だが恐怖ではない。これは緊張だ。勝負の瞬間の緊張。
ディートリヒの声が聞こえた。変わっていた。穏やかな仮面が剥がれ、下から現れたのは、冷たく乾いた声だった。
「……いつから気づいておられましたか」
認めた。弁明を放棄した。それは有能な男の判断だ。証拠が揃っている状況で嘘を重ねれば、状況は悪化するだけだと計算したのだ。
「薬材の規格偽装に気づいたのは一月前だ」
「左様ですか。フェリクス様の仕業でしょうな。あの方は聡明でいらっしゃる」
ディートリヒの声に感情はなかった。諦念でもない。ただ事実を確認しているだけだった。
「ディートリヒ。なぜだ」
公爵の声に、初めて感情が滲んだ。怒りではない。もっと深いもの。裏切りへの苦さ。
「お前は十四年この家に仕えた。私はお前を信頼していた」
「信頼。ええ、ありがたいことです」
ディートリヒの声が変わった。感情が戻ってきた。だがそれは悔恨ではなく、奇妙な苦笑だった。
「ですが閣下、この国で信頼が食べ物を買ってくれますか。信頼が家族を守ってくれますか。宰相閣下は明確な対価をお示しになった。金と、地位と、安全を。私にも守るべき家族がいるのです」
セレスティアは柱の陰で一瞬だけ動きを止めた。嘘ではない。その言葉に嘘はない。それが分かったから、かえって拳が震えた。
「だからリリアーナを弱らせる計画に加担したのか」
「……はい。薬材の納入経路を確保し、薬庫の監視が強まった後は、台所の納品日と配膳手順を報告しました。ただし、茶葉へ毒を混ぜた者は知りません。私には実行者を知らせない決まりでした。宰相閣下の指示は『殺すな、弱らせろ』。奥方様が衰弱すれば公爵家の動きが鈍る。それが目的でした」
実行者は知らない。だが弱らせる計画には加担した。
セレスティアの拳が震えた。
前世では、その「弱らせるだけ」が母を殺した。慢性的な毒の蓄積が内臓を蝕み、七歳の秋に母は息を引き取った。弱らせるだけ。その言葉の先に、死があることをディートリヒは知らなかったのか。知っていて言っているのか。
「宰相との関係は、いつからだ」
「十二年前からです。私が取り立てられて、三年目の年から」
十二年。
十四年のうち、十二年。
公爵の沈黙が重い。信頼していた右腕が忠実だったのは、最初の二年だけだった。その事実の重さ。
「宰相の最終目的は何だ」
「公爵家の弱体化と、王家への影響力の排除です。閣下は宰相閣下にとって最大の政敵ですから」
「聖魔力のことは報告したか」
セレスティアの全身が強張った。
「聖魔力?」
ディートリヒの声に、初めて純粋な困惑が混じった。
「何のことでしょう」
知らない。ディートリヒは聖魔力という正体までは知らない。
セレスティアは柱の陰で安堵の息を漏らした。あの日、ナターシャが見たのは、宰相家の赤い封蝋と、ディートリヒが手紙を書いていた事実だけだ。本文を読んだわけではない。そこから「聖魔力の覚醒報告に違いない」と考えたのは、セレスティア自身の最悪を見越した推測だった。
実際、施錠された引き出しに残されていた報告書の控えに書かれていたのは、「令嬢に異常な覚醒があった」というところまでだった。ディートリヒは異変を察知していた。だが、聖魔力という具体的な情報には辿り着いていなかったのだ。
公爵はそれ以上追及しなかった。「いい。忘れろ」
沈黙。それから、ディートリヒが静かに言った。
「……一つだけ、お願いがあります」
「言え」
「私の家族を巻き込まないでください。妻と子は何も知りません」
公爵はすぐに答えなかった。
「巻き込まないでください、か」
低い声だった。
「お前がリリアーナにしたことは何だ。妻を毒で弱らせ、娘から母を奪おうとした。私の家族を、お前は十五年かけて巻き込んだ」
ディートリヒの喉が小さく動いた。言葉は出なかった。
「お前の妻子が何も知らぬなら、罪は問わん。アルヴェイン家は罪なき者に罰を与える家ではない。だが、その慈悲をお前が要求する資格はない」
公爵はヘルマンに視線を向けた。老騎士が静かに頷いた。
ディートリヒは沈黙した。何かを察したのだろう。だがもう手遅れだ。
◇
ヘルマンがディートリヒを連行した。
行き先は屋敷の東棟地下にある石室だった。窓はなく、階段と扉の外には常時二名ずつ護衛が立つ。軟禁ではない。主家への反逆と公爵夫人への毒殺加担の容疑による逮捕だった。
ディートリヒは抵抗しなかった。腕を取られるまま、静かに歩いた。廊下を歩くその背中を、セレスティアは柱の陰から見送った。
ディートリヒが一瞬、振り返った。
目が合った。
三歳の少女と、中年の元家宰。碧い目と、灰色の目。
ディートリヒの目に浮かんだものは何だったか。驚きか。理解か。あるいは――
「そうですか」
ディートリヒが呟いた。小さな声。セレスティアの耳にだけ届く声。
「お嬢様でしたか。最初から」
セレスティアは答えなかった。三歳の無垢な目でディートリヒを見つめるだけだった。
ディートリヒは薄く笑った。それは敵意でも怒りでもない、奇妙な感嘆の笑みだった。
「末恐ろしいお方だ。……宰相閣下は、きっとお喜びになるでしょうな」
そしてヘルマンに促されるまま、廊下の奥に消えた。
翌日、領法務官と家臣団の重臣が立ち会う非公開審理が開かれた。押収された暗号書簡、返書の控え、薬材の納入記録、ディートリヒ自身の自白が読み上げられた。
判決は死罪。家宰職の剥奪と、公爵家から得た財産の凍結。主家の内情を十二年間敵対勢力へ流し、公爵夫人を毒で弱らせる計画に加担した家臣に、この時代の法が下す刑はそれ以外になかった。
ただし、刑の執行だけは領主権限で停止された。
ディートリヒは、宰相府の連絡網を知る重要な生きた証拠だった。今すぐ首を落とせば、宰相へ伸びる線も同時に切れる。知っていることを全て供述させ、書簡と照合し、いずれ国王府の法廷へ提出するまで生かしておく。
恩赦ではない。執行の猶予だった。
妻子については関与を示す証拠がなく、処罰の対象から外された。罪なき家族まで連座させないという父の言葉も、正式な裁定として記録された。
セレスティアは柱に背を預け、目を閉じた。
一つ終わった。
ディートリヒが盤から消えた。宰相の手先が一つ減った。
だがこれは始まりに過ぎない。宰相は別の手を打つ。ディートリヒからの連絡が途絶えれば、公爵家で何が起きたかを察する。次に送り込まれる間者は、もっと巧妙だろう。
それでも、一歩進んだ。
窓から差し込む午後の光が、廊下を金色に染めていた。
セレスティアは目を開き、光の中に踏み出した。
次は何をすべきか。頭の中で手を並べ直す。
宰相派への対策。聖魔力の制御。母の完全な回復。兄たちとの関係強化。
そして、七歳になれば王立クレセンティア学園に入る。宰相派の子女も、王家の血を引く者も、全員が集まる場所。残り四年。この四年で何を作るか。誰と繋がるか。何を隠し、何を見せるか。
やるべきことは山のようにある。だが一つずつ、一手ずつ。
セレスティアは小さな拳を握り、父に会うため書斎へ向かって歩き出した。




