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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN


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帰還の日

 ディートリヒが王都から戻る日が来た。


 朝から屋敷の空気が変わっていた。使用人たちは何も知らないが、空気の変化は感じ取っている。主の表情が違う。ヘルマンの動きが鋭い。マルガレーテが奥方様の傍を離れない。


 セレスティアは自室の窓から中庭を見下ろしていた。


 三日前の夜、父の書斎で交わした約束。「お前を守る。母を守る。この家を守る」。あの言葉は公爵の宣誓だった。鷲の紋章を背負う男の、鉄の誓い。


 だが宣誓だけでは人は守れない。行動が必要だ。


 そしてその行動が、今日始まる。


 ◇


 ディートリヒ・クラウスは昼過ぎに馬車で到着した。


 セレスティアは二階の廊下の窓から、その到着を見ていた。馬車から降りたディートリヒは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。身なりは整い、髪は丁寧に整えられ、旅の疲れを微塵も見せない。


 完璧な仮面だ。


 だがセレスティアの目は騙せない。ディートリヒの右手が僅かに強張っている。旅装を解く仕草に、ほんの一瞬の硬さがある。緊張している。何かを持ち帰った男の緊張。


 宰相からの新たな指令か。あるいは聖魔力に関する情報を売った見返りの密書か。


 出迎えたのはヘルマンだった。


 「ディートリヒ殿、お帰りなさい。ご旅程はいかがでしたか」


 「ああ、ヘルマン殿。穀物取引は順調に進みましたよ。王都の商会とも良い条件で合意できました」


 穀物取引。嘘だ。嘘であることを、この場にいる全員が知っている。だがヘルマンは表情一つ変えない。


 「それは重畳。閣下がお待ちです。到着次第、書斎にお越し願いたいとのことです」


 ディートリヒの笑顔が、一瞬だけ揺らいだ。


 「書斎に? 急ぎの用でしょうか」


 「領地運営に関するご相談と伺っています」


 ヘルマンの声は完璧に平坦だった。三十年の従軍経験が生んだ鉄面皮。老騎士の表情からは何も読み取れない。


 「分かりました。荷を片付けてから参ります」


 「いえ。閣下は『すぐに』と仰せです」


 ディートリヒの目が動いた。微かに。だがセレスティアはそれを見逃さなかった。


 不安。恐怖ではない。不安だ。何かがいつもと違うことに気づいている。だがまだ確信はない。状況を読もうとしている。


 有能な男だ。だが有能さは、追い詰められた時に最も残酷な形で裏目に出る。自分の知性が全ての可能性を計算してしまうから。


 ディートリヒは薄い笑みを浮かべたまま、ヘルマンに導かれて屋敷に入った。


 セレスティアは廊下の窓から身を引いた。


 罠が閉じ始めている。


 ◇


 書斎の前で、セレスティアは柱の陰に身を隠した。いつもの場所。この数週間で何度も立った場所だ。


 扉の向こうから声が聞こえる。


 まず公爵の声。穏やかだ。いつもの冷静な口調。


 「ディートリヒ、王都の様子はどうだった」


 「はい、閣下。穀物取引は順調に――」


 「取引の話はいい。王都の政治情勢を聞いている」


 ディートリヒが一瞬言葉を止めた。公爵が話を遮るのは珍しい。


 「政治情勢、ですか。特に大きな変動はございません。宰相閣下の施政は安定しておりますし――」


 「宰相に会ったか」


 直球。


 沈黙が落ちた。短い沈黙だったが、その短さがむしろ不自然だった。考える間もなく答えるべき質問に、一瞬の間が生まれた。


 「いえ、お会いしておりません。穀物商会との交渉のみで」


 嘘。セレスティアには分かる。声の調子が僅かに高い。嘘をつく時の人間の声は、無意識に半音上がる。


 公爵も分かっている。だが追及しない。まだだ。


 「そうか。ではリリアーナの件だが」


 「奥方様の件、とは」


 「お前が出発する前に、台所に指示を出したな。『奥方様に毎晩ハーブティーを届けるように』と」


 空気が変わった。扉越しにも分かる。書斎の温度が下がった。


 「……はい。奥方様の安眠に良いと聞きまして、特別な茶葉を王都から取り寄せたのです」


 ディートリヒの声はまだ穏やかだった。だが声の底に、硬いものが混じり始めている。


 「その茶葉から、灰銀草が検出された」


 沈黙。


 今度の沈黙は長かった。三秒。五秒。十秒。


 セレスティアは柱の陰で息を殺していた。


 「灰銀草、ですか。それは……」


 「フェリクスが成分分析を行った。乾燥茶葉に粉末状の灰銀草が混ぜ込まれていた。見た目では判別できないが、煮出すと成分が溶出する。巧妙な手口だ」


 公爵の声は冷静だった。感情を排した事実の提示。だがその冷静さこそが刃だ。怒声より恐ろしい。


 「閣下、それは誤解です。私は茶葉に毒が入っているなど知りませんでした。王都の商人から購入した際に、既に混入されていたのでは――」


 「商人の名は」


 「……ハインリヒ商会の者です」


 「ヘルマン」


 扉の奥でヘルマンの声がした。いつの間にか書斎にいたのだ。


 「はい、閣下。ハインリヒ商会に確認を取りましたところ、ディートリヒ殿からの茶葉の注文は記録にございませんでした。商会主は『そのような取引は存在しない』と明言しています」


 ディートリヒの呼吸が止まった。扉越しにも分かる。


 嘘が一つ崩れた。


 だがディートリヒは立て直した。有能な男だ。


 「それは……別の経路から入手したものかもしれません。正確な商人の名は……記憶が曖昧で」


 「ならばもう一つ確認する。お前の部屋から書簡が多数発見された。差出人の署名はなく、符牒で記されていた。封蝋に蛇の紋章があった」


 空気が凍った。


 「フェリクスが解読した。内容はリリアーナへの投薬指示と、公爵家の機密の漏洩だ。それについて説明してもらおう」


 長い長い沈黙が落ちた。


 セレスティアは柱の陰で、自分の心臓の音を聞いていた。速い。だが恐怖ではない。これは緊張だ。勝負の瞬間の緊張。


 ディートリヒの声が聞こえた。変わっていた。穏やかな仮面が剥がれ、下から現れたのは、冷たく乾いた声だった。


 「……いつから気づいておられましたか」


 認めた。弁明を放棄した。それは有能な男の判断だ。証拠が揃っている状況で嘘を重ねれば、状況は悪化するだけだと計算したのだ。


 「薬の処方箋の異常に気づいたのは一月前だ」


 「左様ですか。フェリクス様の仕業でしょうな。あの方は聡明でいらっしゃる」


 ディートリヒの声に感情はなかった。諦念でもない。ただ事実を確認しているだけだった。


 「ディートリヒ。なぜだ」


 公爵の声に、初めて感情が滲んだ。怒りではない。もっと深いもの。裏切りへの苦さ。


 「お前は二十年この家に仕えた。私はお前を信頼していた」


 「信頼。ええ、ありがたいことです」


 ディートリヒの声が変わった。感情が戻ってきた。だがそれは悔恨ではなく、奇妙な苦笑だった。


 「ですが閣下、この国で信頼が食べ物を買ってくれますか。信頼が家族を守ってくれますか。宰相閣下は明確な対価をお示しになった。金と、地位と、安全を。私にも守るべき家族がいるのです」


 セレスティアは柱の陰で一瞬だけ動きを止めた。嘘ではない。その言葉に嘘はない。それが分かったから、かえって拳が震えた。


 「だからリリアーナを殺そうとしたのか」


 「殺すつもりはありませんでした。弱らせるだけです。宰相閣下の指示も『殺すな、弱らせろ』でした。奥方様が衰弱すれば公爵家の動きが鈍る。それが目的でした」


 殺すつもりはなかった。弱らせるだけ。


 セレスティアの拳が震えた。


 前世では、その「弱らせるだけ」が母を殺した。慢性的な毒の蓄積が内臓を蝕み、七歳の秋に母は息を引き取った。弱らせるだけ。その言葉の先に、死があることをディートリヒは知らなかったのか。知っていて言っているのか。


 「宰相との関係は、いつからだ」


 「十五年前からです。閣下がリリアーナ様を娶られた頃から」


 十五年。ほぼ最初からだ。


 公爵の沈黙が重い。信頼していた右腕が、最初から敵の手先だった。その事実の重さ。


 「宰相の最終目的は何だ」


 「公爵家の弱体化と、王家への影響力の排除です。閣下は宰相閣下にとって最大の政敵ですから」


 「聖魔力のことは報告したか」


 セレスティアの全身が強張った。


 「聖魔力?」


 ディートリヒの声に、初めて純粋な困惑が混じった。


 「何のことでしょう」


 知らない。ディートリヒは聖魔力のことを知らない。


 セレスティアは柱の陰で安堵の息を漏らした。ディートリヒが王都に発ったのは聖魔力覚醒の翌日。断片的な情報から「異変」は察知していたが、聖魔力という具体的な情報は掴めていなかったのだ。


 だが王都で宰相に「令嬢に異常な覚醒があった」と報告していた可能性はある。書きかけの手紙にはそう書いてあった。


 公爵はそれ以上追及しなかった。「いい。忘れろ」


 沈黙。それから、ディートリヒが静かに言った。


 「……一つだけ、お願いがあります」


 「言え」


 「私の家族を巻き込まないでください。妻と子は何も知りません」


 公爵はすぐに答えなかった。ヘルマンに視線を向けた。老騎士が静かに頷いた。


 ディートリヒは沈黙した。何かを察したのだろう。だがもう手遅れだ。


 ◇


 ヘルマンがディートリヒを連行した。


 行き先は屋敷の東棟の一室。窓には鉄格子があり、扉の外には常時二名の護衛が立つ。事実上の幽閉だ。


 ディートリヒは抵抗しなかった。腕を取られるまま、静かに歩いた。廊下を歩くその背中を、セレスティアは柱の陰から見送った。


 ディートリヒが一瞬、振り返った。


 目が合った。


 三歳の少女と、中年の元家宰。碧い目と、灰色の目。


 ディートリヒの目に浮かんだものは何だったか。驚きか。理解か。あるいは――


 「そうですか」


 ディートリヒが呟いた。小さな声。セレスティアの耳にだけ届く声。


 「お嬢様でしたか。最初から」


 セレスティアは答えなかった。三歳の無垢な目でディートリヒを見つめるだけだった。


 ディートリヒは薄く笑った。それは敵意でも怒りでもない、奇妙な感嘆の笑みだった。


 「末恐ろしいお方だ。……宰相閣下は、きっとお喜びになるでしょうな」


 そしてヘルマンに促されるまま、廊下の奥に消えた。


 セレスティアは柱に背を預け、目を閉じた。


 一つ終わった。


 ディートリヒが盤から消えた。宰相の手先が一つ減った。


 だがこれは始まりに過ぎない。宰相は別の手を打つ。ディートリヒからの連絡が途絶えれば、公爵家で何が起きたかを察する。次に送り込まれる間者は、もっと巧妙だろう。


 それでも、一歩進んだ。


 窓から差し込む午後の光が、廊下を金色に染めていた。


 セレスティアは目を開き、光の中に踏み出した。


 次は何をすべきか。頭の中で手を並べ直す。


 宰相派への対策。聖魔力の制御。母の完全な回復。兄たちとの関係強化。

 そして——七歳になれば王立学園に入る。宰相派の子女も、王家の血を引く者も、全員が集まる場所。残り四年。この四年で何を作るか。誰と繋がるか。何を隠し、何を見せるか。


 やるべきことは山のようにある。だが一つずつ、一手ずつ。


 セレスティアは小さな拳を握り、書斎に向かって歩き出した。父に会うために。


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