おかあさまの朝
毒の発覚から四日後。
朝食の後、セレスティアは母の部屋を訪ねた。
扉を開けると、母がいた。
ベッドではなかった。
窓辺の椅子に座っていた。膝に薄い毛布を掛けて、窓の外を見ていた。朝の光が、金色の髪に降りている。
セレスティアは扉口で止まった。
足が動かなかった。
前世の記憶が、一瞬だけ重なった。母の部屋の、同じ窓。同じ椅子。だが前世ではその椅子が空だった。母はベッドの中にいた。起き上がれなかった。最後まで。
今は、ここにいる。
「セレスティア?」
母が振り返った。顔色はまだ白かった。でも目が明るかった。
「おはいり。寒くないから」
◇
窓辺に椅子をもう一つ引いてきた。母の隣に座った。
しばらく、二人で外を見ていた。庭に朝露が光っている。菜園の向こうで使用人が薪を割っている。遠くに小さな鳥が一羽、塀の上に止まって、また飛んでいった。
「気持ちがいいわね。四日ぶりにちゃんと外が見られた」
「おかあさま、からだはもうだいじょうぶ?」
「まだ少し重いけれど。昨夜はよく眠れたわ」
母の手が、膝の上にあった。細い指。少し青ざめた手の甲。セレスティアは視線をそこに落とした。
前世で、この手が冷たくなる日があった。
秋だった。セレスティアが七歳の秋。母の部屋に呼ばれた。母はもう起き上がれなかった。手を握ると、いつも温かかった母の手が、初めて冷たかった。それが最後だった。
今、その手は温かい。
「セレスティア」
母が呼んだ。
「なに、おかあさま」
「あなた、毎晩来てくれてたでしょう」
「……きてないよ」
「来てたわ。眠ったふりをしていたけれど、分かるの。お母様にはわかるのよ」
セレスティアは黙った。
毒の発覚から四日間、夜中に一度だけ母の部屋に来ていた。ナターシャには秘密で。ただ確認したかった。呼吸をしているか。脈があるか。手が温かいか。それだけ確かめて戻っていた。
「どうして」
「おかあさまが、ねてるかどうか、たしかめたかった」
「眠っているかどうか?」
「……ちゃんとねてるか。いきをしてるか」
母は少し間を置いた。
「セレスティア。お母様に何か、話してくれる?」
「なにも、ない」
「本当に?」
窓の外で、小鳥がまた飛んでいった。今度は二羽だった。
セレスティアは答えなかった。
前世のことは話せない。話したとしても、信じてもらえない。三歳の娘が「前世の記憶がある」と言っても、誰も信じない。ただ心配させるだけだ。
だから何も言えなかった。
母の手が、そっと動いた。
セレスティアの手の上に、重なった。
◇
温かかった。
それだけのことだった。
それだけのことが、喉の奥を締め付けた。
セレスティアは俯いた。
泣くつもりはなかった。理由がない。母は元気になっている。危機は去った。全部うまくいっている。
なのに涙が出た。
「ごめんなさい」
なぜ謝っているのか自分でも分からなかった。
「間に合わなかったら、って、ずっとおもってた。もっとはやくきづいていれば。もっとはやく、おとうさまにつたえていれば」
「セレスティア」
「きづくのがおそかったら、おかあさまが」
「セレスティア」
母の声が、静かに遮った。
母が身を傾けた。三歳の娘の頭に、頬を寄せた。
「お母様は、ここにいるわ」
「……うん」
「ここにいる。ちゃんと、ここに」
セレスティアは声を出さずに泣いた。
母の体温が伝わってきた。前世でも今世でも、この体温だけは変わらない。公爵邸の廊下を歩いて転んだ時も、眠れない夜に呼びに来てくれた時も、いつも同じ体温だった。
「こわかったの?」
「こわかった」
「そう。それは大変だったわね」
大変だった。誰にも言えなかった。三歳の身体で、前世の記憶を持って、毒を発見して、証拠を集めて、大人を動かして。全部一人でやっていた。
でも本当は、ずっとこわかった。
震えてきた。今になって。もう終わったのに。
「泣いていいの」
母が言った。
「泣いていいわ、セレスティア。誰も見ていないから」
「みてる」
「誰が?」
「おかあさまが」
「お母様は目を閉じているから、見えないの」
母の声に、笑いが混じっていた。
セレスティアはそのまま、もう少し泣いた。
◇
しばらく、そのままでいた。
朝の光が少しずつ動いて、窓辺の影が変わっていった。遠くで鶏が鳴いた。厨房の方から何かを炒める音が聞こえた。
母が、そっと体を離した。
「お母様ね、ずっと思っていたことがあるの」
「なに」
「セレスティアが生まれた時から、この子は何かを背負っている気がした。産声を聞いた瞬間から。上の子たちとは違う何かを」
セレスティアは黙っていた。
「だからあなたに甘えたことがあるの。三歳の娘に甘えているって分かっていて。この子なら分かってくれると、どこかで思っていた」
「……おかあさまは、あまえてないよ」
「いいえ、甘えていたわ」母が微笑んだ。「でも、それと同じくらい、信じていたの。この子は大丈夫だって。何があっても、この子は大丈夫だって」
「……なんで」
「あなたの目が、いつも前を見ているから」
セレスティアは何も言えなかった。
前を見ている。前世の記憶があるから、前を見ているだけだ。この先に何が起きるか知っているから、怯えながら先を見ているだけだ。強いのではない。
でも母は「大丈夫」と言った。
「おかあさま」
「なあに」
「わたし、おかあさまのことをまもります」
「知ってるわ」
「ぜったいに、まもる」
「知っている」
母が、また手を握った。
しばらくして、母が静かに言った。
「今日ね、食堂で朝食を食べようと思っているの」
セレスティアは顔を上げた。
「……あるける?」
「ゆっくりなら。マルガレーテが付いていてくれる」
「いっしょにたべる?」
「一緒に食べましょう。あなたも来て」
母が笑った。四日ぶりに見る、いつもの母の笑顔だった。
セレスティアは頷いた。
窓の外に、また鳥が飛んできた。今度は三羽だった。菜園の上を一回りして、塀の向こうに消えた。
母はそれをずっと目で追っていた。
セレスティアも、母の横顔を見ていた。
前世では見られなかった横顔。光の中にある、生きている母の顔。
それだけで、十分だった。
◇
部屋を出ると、ナターシャが廊下で待っていた。
「……お嬢様、目が赤いですよ」
「ねむかった」
ナターシャは何も言わなかった。信じていない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
並んで廊下を歩いた。窓から庭が見えた。菜園に朝露が光っている。遠くで薪割りの音がまだ続いていた。
「おかあさまが、今日は食堂で食べるって」
ナターシャが少し間を置いた。
「そうですか」
「うん」
廊下の光が明るかった。足音が石畳に響いた。
胸の奥に、まだ母の体温が残っていた。




