犯人の尻尾
公爵ライナルト・フォン・アルヴェインが本気で動くと、その速度は凄まじかった。
毒殺未遂が発覚した翌日、公爵は三つの命令を同時に下した。
台所の全食材と飲料の検査はヘルマンとフェリクスが担当し、ハーブティーの茶葉の成分分析はフェリクスとローレンツが行った。過去一年間のリリアーナの食事記録の洗い出しはマルガレーテに任せた。
結果は半日で出た。
ハーブティーの茶葉には灰銀草が混入されていた。乾燥茶葉に粉末状の灰銀草を混ぜ込む手口。見た目では判別できないが、煮出すと灰銀草の成分が溶出する。
台所の他の食材からは毒は検出されなかった。現時点では、ハーブティーが唯一の毒の経路。
過去の食事記録を調べると、リリアーナは薬以外にも不定期にハーブティーを飲んでいたことが分かった。台所に「奥方様用のハーブティー」として別保管されていた茶葉が、毒入りだった可能性が高い。
そしてその茶葉の管理は――台所の食材管理全般と同様に――ディートリヒの管轄だった。
◇
ヘルマンが公爵に報告する場面を、セレスティアは柱の陰から聞いていた。
「閣下。ハーブティーの茶葉は、三ヶ月前にディートリヒ殿が王都から取り寄せたものです。『奥方様の体調に良い特別な茶葉』として、台所に預けています」
「薬庫ではなく台所に」
「はい。薬庫は閣下のご命令で監視が強化されましたので、台所経由に切り替えたものと推察されます」
公爵の沈黙が長かった。
薬を止めた。薬庫を監視した。だがその裏をかかれた。台所という、誰も疑わない経路を使って。
ディートリヒは有能だ。追い詰められても別の手を打つ。一つの穴を塞げば、別の穴を開ける。
だが今回は証拠が残った。
「茶葉はディートリヒが取り寄せた。それは帳簿に記録があるのか」
「はい。台所の入荷記録にディートリヒ殿の署名があります」
「茶葉の成分分析でフェリクスが灰銀草を検出した。これで、ディートリヒが灰銀草入りの茶葉を意図的に持ち込んだと言えるか」
ヘルマンは慎重に答えた。
「状況証拠としては極めて強いですが、ディートリヒ殿は『茶葉に灰銀草が混入されていることを知らなかった。王都の商人に騙された』と弁明する可能性があります」
「だろうな」
公爵の声は冷静だった。怒りは既に氷の下に沈んでいる。
「だがそれで十分だ。弁明の余地を残したまま、泳がせる手もある」
泳がせる。セレスティアの耳が立った。
「しかし閣下、泳がせている間に奥方様への危害が――」
「リリアーナの食事は今後、全てマルガレーテが管理する。フェリクスが毎食の食材を検査する。毒の経路は全て塞いだ」
「では、ディートリヒ殿の帰還後は……」
「問い詰める。だが証拠は温存する。あの男が弁明を始めた時に、一つずつ突きつける。追い込んで、全てを吐かせる」
セレスティアは柱の陰で頷いた。
だがセレスティアには一つ、不安があった。
ディートリヒは王都にいる。宰相に会っている。聖魔力の報告をしている。
帰ってきた時、ディートリヒは何を持ち帰るだろうか。
宰相からの新たな指令か。更に巧妙な毒殺計画か。
あるいは――セレスティア自身への排除指令か。
◇
その日の夕方、セレスティアはヘルマンに話しかけた。
「ヘルマンおじさま」
「お嬢様。お母様のご具合はいかがですか」
「よくなってる。ありがとう」
ヘルマンは膝を折り、セレスティアの目線に合わせた。
「ヘルマンおじさま、ディートリヒさまのおへやに、おてがみがあるの」
ヘルマンの目が動いた。
「手紙、ですか」
「うん。ナターシャがおそうじのときにみたの。あかいふうろうのおてがみ。たくさん。それと、かきかけのおてがみに、わたしのなまえがかいてあったって」
セレスティアは「聖魔力」という言葉は使わなかった。「自分の名前が書いてあった」とだけ伝える。三歳児の報告として自然な範囲に留める。
ヘルマンの表情が変わった。鉄の仮面のような無表情が、一瞬だけ剥がれた。
「赤い封蝋……蛇の紋章でしたか」
「ナターシャがそういってた」
ヘルマンは立ち上がった。表情は再び鉄の仮面に戻っている。だが目の奥に炎が灯っていた。
「お嬢様、ありがとうございます。この件は閣下に報告いたします」
「ヘルマンおじさま」
「はい」
「ナターシャのこと、まもってね。あのこはわるくないの」
ヘルマンは一瞬、セレスティアを見つめた。三歳の少女が、部下の安全を気遣っている。
「……もちろんです。ナターシャ嬢には何の責任もございません。お掃除中に目に入っただけのことです」
ヘルマンは深く一礼して去った。
セレスティアは廊下に立ったまま、老騎士の背中を見送った。
証拠は揃った。
証拠の茶葉。台所の入荷記録。ディートリヒの部屋の手紙。
ハーブティーの毒。薬の処方箋。
全てが一本の線で繋がっている。線の先にはディートリヒがいて、その更に先には宰相がいる。
ディートリヒが王都から戻れば、全てが動き出す。
◇
夜。母の傍で本を読んでもらっているセレスティアの耳に、廊下の足音が聞こえた。
ヘルマンの足音だ。重く、だが急いでいる。
扉がノックされた。マルガレーテが応対する。
「ヘルマン殿、何か?」
「閣下にご報告を。ディートリヒ殿の部屋から、書簡が多数発見されました。差出人の署名はなく、本文の大半は符牒で記されています。封蝋に蛇の紋章がありました。フェリクス様に解読を依頼したところ……」
ヘルマンは声を落とした。
「奥方様への投薬に関する指示と、薬庫の監視を迂回する手順が含まれていました。フェリクス様が茶葉の記録と照合されています」
マルガレーテの顔色が変わった。
「それは……つまり」
「確定ではありません。ですが状況は揃っています」
セレスティアは聞いていた。母の膝の上から、全てを。
リリアーナだけが何も知らない。眠りかけていた母は、ヘルマンの声に目を開いたが、内容は聞き取れなかったようだ。
「何かあったの?」
「なんでもないよ、おかあさま。おやすみ」
セレスティアは母の額にキスをして、部屋を出た。
廊下で、ヘルマンが待っていた。
「お嬢様。閣下がお呼びです」
三歳の少女が公爵の書斎に呼ばれる。異例だ。だが今の公爵家には、異例が日常になりつつあった。
書斎に入ると、公爵が机の前に立っていた。机の上にはディートリヒの部屋から回収された手紙が並んでいる。
「セレスティア」
「はい、おとうさま」
「お前がナターシャに指示して、ディートリヒの部屋を調べさせたのか」
直球。公爵は回りくどいことをしない。
セレスティアは一瞬迷い、頷いた。嘘をつく意味がない。
「……はい」
公爵はセレスティアを長い時間見つめた。
怒りではなかった。困惑でもなかった。
公爵の目にあったのは、畏怖に近いものだった。
「お前は三歳だ」
「はい」
「三歳の子供が、家臣の裏切りを疑い、証拠を探らせた」
「……おかあさまをまもりたかっただけです」
公爵は目を閉じ、長い息を吐いた。
手を伸ばしかけた。それから止まった。大きな手が、空中で一瞬だけ迷った。
そして、これまで一度も見たことのないことをした。
公爵がセレスティアの前に膝をついたのだ。
目線が同じ高さになる。碧い目と碧い目が向き合う。
「セレスティア。お前が何者かは問わない。お前が何を知っているかも問わない」
低い声。だが温かさがあった。冷徹な公爵の声に、初めて温かさが混じっていた。
「だがこれだけは約束する。お前を守る。母を守る。この家を守る。それが公爵としての、そして父としての、私の務めだ」
セレスティアの目から涙が溢れた。
前世では聞けなかった言葉。
「お前を守る」と。父が。
「おとうさま……」
小さな身体が、大きな胸に飛び込んだ。
公爵の腕が、不器用に、だが確かに、娘を受け止めた。
書斎の灯りが揺れている。
父と娘の影が壁に映る。
初めて、同じ方向を向いた二つの影が。




