毒殺未遂
ディートリヒが王都に発って二日目の朝。
それは、静かに始まった。
母の部屋を訪ねたセレスティアは、リリアーナがベッドに横たわっているのを見た。いつもなら午前中は起き上がって窓辺で刺繍をしているのに。
「おかあさま?」
リリアーナの顔色が悪かった。薬を止めてから回復していたはずの血色が、一夜にして消えている。唇が青白い。額に汗が浮いている。
「少し……気分が悪くて……」
母の声が弱々しい。前に聞いた声だ。薬を飲んでいた頃の、衰弱した声。
セレスティアの全身に電流が走った。
まさか。
薬は止めたはずだ。三週間前に。フェリクスが処方箋の異常を発見し、公爵が投薬を中止させた。
なのになぜ母の容態が悪化している。
「おかあさま、きのうなにかたべた? のんだ?」
「昨日は……普通にご飯を食べて……あ、そういえば、夜にハーブティーを飲んだわ」
「ハーブティー? だれがいれたの?」
「台所の使用人さんが持ってきてくれたの。安眠に良いからって」
セレスティアの血が凍った。
薬は止めた。だが毒の経路は薬だけではない。
食事。飲み物。あらゆる経口摂取物が毒の媒介になりうる。
ディートリヒは王都に行く前に、別の毒の経路を仕込んでおいたのだ。
前世の記憶が閃いた。冷たくなった手。遅すぎた気づき。
だが今世では気づいた。まだ間に合う。
「マルガレーテ!」
セレスティアは叫んだ。三歳の喉が裂けんばかりの声で。
マルガレーテが駆けつけた。
「お嬢様、どうされました!」
「おかあさまがぐあいわるい! フェリクスおにいさまをよんで! あと、きのうのハーブティーのカップ、すてないで!」
マルガレーテは一瞬驚いたが、セレスティアの真剣な目を見て即座に動いた。この侍女は聡明だ。理由は後で聞けばいいと判断する。
数分後、フェリクスが走ってきた。寝起きの髪のまま。
「何があった」
「おかあさまがぐあいわるくなった。きのうのよるのハーブティーがあやしい」
フェリクスの目が鋭くなった。
薬を止めたのに母が悪化した。ハーブティーが怪しい。兄の頭脳は瞬時に結論を出した。
「カップはどこだ」
マルガレーテが昨夜のカップを持ってきた。まだ洗っていなかった。底に茶褐色の液体が僅かに残っている。
フェリクスがカップの残液を嗅いだ。
「……甘い匂い。灰銀草だ。間違いない」
フェリクスの声が震えていた。怒りだ。学者の冷静さを突き破る、純粋な怒り。
「薬を止めたら、今度はお茶に混ぜやがったのか」
十三歳の少年が、乱暴な言葉を吐いた。初めて聞く兄の罵言だった。
「フェリクスおにいさま、おかあさまは」
「すぐにローレンツ先生を呼ぶ。一回分の摂取なら致命的ではないはずだ。だが――」
フェリクスは言葉を切り、セレスティアを見た。
「セレス。お前、どうして気づいた。なぜハーブティーが怪しいと思った」
三歳の子供が、母の容態悪化の原因を飲み物に絞り込む。普通ではない。
セレスティアは迷ったが、時間がなかった。
「おかあさまのおくすりがとまったのに、またぐあいがわるくなった。おくすりじゃないものにどくがはいってるとおもった」
論理的すぎる。三歳の語彙でどれだけ包んでも、思考の鋭さは隠せない。
だがフェリクスは追及しなかった。今は母の治療が先だ。
◇
ローレンツ医師が駆けつけた。
リリアーナの脈を取り、瞳孔を確認し、体温を測る。医師の指先が微かに震えていた。
「灰銀草の急性症状です。一回の摂取量は少量ですが、以前の蓄積がある体に追加投与されたため、反応が強く出ています」
その時、リリアーナが突然大きく咳き込んだ。身体が折れる。喉の奥から水っぽい音がした。
「フェリクス様、薬草を!」
ローレンツの顔は蒼白だった。自分が長年処方してきた薬に毒が入っていたと知ってから、この医師は罪悪感に苛まれている。
「解毒処置を行います。吐剤と、肝臓を保護する薬草を」
フェリクスが薬草棚に走った。棚の前で手が震えているのが見えた。いつも冷静な兄が、震えている。セレスティアはその震えを見て、初めて事態の深刻さを身体で理解した。
フェリクスが付き添い、ローレンツの処置を監督した。今回は処方箋ではなく、フェリクス自身が薬草を選び、ローレンツが調合する。
二時間後、リリアーナの容態は安定した。
だが母はまだ弱っている。ベッドの上で、汗に濡れた金髪が枕に広がっている。
「おかあさま、だいじょうぶ?」
セレスティアは母の手を握った。まだ少し冷たい。だが脈は安定している。
「大丈夫よ、セレスティア。お母様は強いから」
弱々しい微笑み。この人はどんな時でも笑う。それが母の強さであり、脆さでもある。
◇
午後。公爵が戻った。領地巡回から急遽帰邸したのだ。ヘルマンの早馬が知らせを届けた。
公爵は母の部屋を確認した後、書斎に家臣を集めた。
セレスティアは柱の陰にいた。いつものように。
公爵の声が扉越しに聞こえる。低く、静かで、それゆえに恐ろしい声。
「ハーブティーを持っていった使用人は誰だ」
「台所の下女、エルザでございます」ヘルマンの声。
「エルザに誰が指示した」
「確認しましたところ、ディートリヒ殿が出発前に台所に申し付けたとのことです。『奥方様の安眠のために、毎晩ハーブティーを届けるように』と」
沈黙が落ちた。重い。鉛のような沈黙。
「ディートリヒが」
公爵の声が変わった。温度が消えた。
「ハーブティーの茶葉を調べろ。残りは全て押収しろ。台所の食材も全て検査する」
「承知しました」
「そしてディートリヒが戻り次第、私の書斎に連れてこい。逃がすな」
「はい、閣下」
扉の向こうで、公爵の怒りが静かに燃えている。
この男の怒りは爆発しない。氷のように冷たく、鋼のように硬い。
セレスティアは柱の陰で小さく拳を握った。
ディートリヒの帰還まであと一日。
その一日が、裏切り者にとっての最後の猶予だ。
◇
夜。セレスティアは母の傍にいた。
リリアーナは眠っている。解毒処置の疲労で深い眠りに落ちている。呼吸は穏やかだ。もう危険はない。
だがセレスティアの心は穏やかではなかった。
同じことが起きた。前世と同じ時期に、同じ手口で。
薬を止めても、別の経路で毒を投与する。ディートリヒの周到さ。宰相派の執拗さ。
運命は繰り返そうとしている。
母を殺そうとしている。
だが今世では気づいた。一日で気づいた。
前世では何年もかかった気づきが、今世では一日。
それはセレスティアの知識のおかげであり、フェリクスの分析力のおかげであり、ナターシャの観察のおかげであり、マルガレーテの迅速さのおかげだ。
一人ではなかった。
今世では、一人ではなかった。
セレスティアは母の手を握ったまま、窓の外の星を見た。
「おかあさま、もうだいじょうぶ。もうどくはのませない」
眠っている母に聞こえるはずのない言葉。
だが言わずにはいられなかった。
前世で失った母。七歳の秋に冷たくなった手。あの冷たさを、もう二度と感じたくない。
もし間に合わなかったら。その考えが脳裏をよぎった。セレスティアは首を横に振り、その考えを押し殺した。
今世では守りきる。
何があっても。誰が来ても。
この手で。この小さな手で。




