毒殺未遂
ディートリヒが王都に発って四日目の朝。
異変は、静かに始まった。
母の部屋を訪ねたセレスティアは、リリアーナがベッドに横たわっているのを見た。いつもなら午前中は起き上がって窓辺で刺繍をしているのに。
「おかあさま?」
リリアーナの顔色が悪かった。薬を止めてから回復していたはずの血色が、一夜にして消えている。唇が青白い。額に汗が浮いている。
「少し……気分が悪くて……」
母の声が弱々しい。前に聞いた声だ。薬を飲んでいた頃の、衰弱した声。
セレスティアの全身に、冷たい衝撃が走った。
まさか。
薬は止めたはずだ。三週間前に。フェリクスが薬材の規格偽装を発見し、公爵が投薬を中止させた。
なのになぜ母の容態が悪化している。
「おかあさま、きのうなにかたべた? のんだ?」
「昨日は……普通にご飯を食べて……あ、そういえば、夜にハーブティーを飲んだわ」
「ハーブティー? だれがいれたの?」
「台所の使用人さんが持ってきてくれたの。安眠に良いからって」
セレスティアの血が凍った。
薬は止めた。だが毒の経路は薬だけではない。
食事。飲み物。あらゆる経口摂取物が毒の媒介になりうる。
誰かが、薬とは別の毒の経路を仕込んでいたのだ。
前世の記憶が閃いた。冷たくなった手。遅すぎた気づき。
だが今世では気づいた。まだ間に合う。
「マルガレーテ!」
三歳の喉が裂けそうな声で、セレスティアは叫んだ。
マルガレーテが駆けつけた。
「お嬢様、どうされました!」
「おかあさまがぐあいわるい! フェリクスおにいさまをよんで! あと、きのうのハーブティーのカップ、すてないで!」
マルガレーテは一瞬驚いたが、セレスティアの真剣な目を見ると、理由を問うのは後だと判断してすぐに動いた。
数分後、フェリクスが寝起きの髪のまま走ってきた。
「何があった」
「おかあさまがぐあいわるくなった。きのうのよるのハーブティーがあやしい」
フェリクスの目が鋭くなった。
薬を止めたのに母が悪化した。ハーブティーが怪しい。兄は瞬時に可能性を絞った。
「カップはどこだ」
マルガレーテが昨夜のカップを持ってきた。まだ洗っていなかった。底に茶褐色の液体が僅かに残っている。
フェリクスがカップの残液を嗅いだ。
「……甘い匂い。灰銀草に似ている。検査は必要だが、まず毒として扱う」
フェリクスの声が、怒りで震えた。学者としての冷静さを突き破る、純粋な怒りだった。
「薬を止めたら、今度はお茶に混ぜやがったのか」
十三歳の少年が、乱暴な言葉を吐いた。初めて聞く兄の罵言だった。
「フェリクスおにいさま、おかあさまは」
「すぐにローレンツ先生を呼ぶ。一回分の摂取なら致命的ではないはずだ。だが――」
フェリクスは言葉を切り、セレスティアを見た。
「セレス。お前、どうして気づいた。なぜハーブティーが怪しいと思った」
三歳の子供が、母の容態悪化の原因を飲み物に絞り込む。普通ではない。
セレスティアは迷ったが、時間がなかった。
「おかあさまのおくすりがとまったのに、またぐあいがわるくなった。おくすりじゃないものにどくがはいってるとおもった」
論理的すぎる。三歳の語彙でどれだけ包んでも、思考の鋭さは隠せない。
だがフェリクスは追及しなかった。今は母の治療が先だ。
◇
ローレンツ医師が駆けつけた。
リリアーナの脈を取り、瞳孔を確認し、体温を測る。医師の指先が微かに震えていた。
「灰銀草の急性症状です。一回の摂取量は少量ですが、以前の蓄積がある体に追加投与されたため、反応が強く出ています」
その時、リリアーナが突然大きく咳き込んだ。身体が折れる。喉の奥から水っぽい音がした。
「フェリクス様、薬草を!」
ローレンツの顔は蒼白だった。自分が王都の認証を信じて調合してきた薬に毒が入っていたと知ってから、この医師は罪悪感に苛まれている。
「解毒処置を行います。吐剤と、肝臓を保護する薬草を」
セレスティアの胸の奥で、あの温かな光が揺れた。
庭の土へ注ぎ、小さな芽を生んだ光。あれを母に分け与えれば、弱った身体を助けられるのではないか。
「フェリクスおにいさま。わたしのひかりを、おかあさまにあげたら……」
兄は薬草棚へ向かいかけた足を止め、セレスティアの手を押さえた。
「駄目だ。花を芽吹かせた光が、人の毒を消すとは限らない。あれは生命力を強めたんだ。毒が残ったまま母上の身体を無理に活性化すれば、血の巡りと一緒に毒まで早く回すかもしれない」
「でも、おかあさまが」
「治す力がある可能性は否定しない。だが使い方も量も分からない。お前はまだ、人に魔力を流したことさえない。母上を最初の実験にはできない。今は毒を抜くのが先だ」
正しかった。芽を出させることと、毒に侵された人間を治すことは違う。焦って力を注ぎ、母の命を縮めたら取り返しがつかない。
セレスティアは光を胸の奥へ戻し、母の手を握った。今できるのは、治療の邪魔をせず、傍にいることだけだった。
フェリクスが薬草棚に走った。棚の前で手が震えているのが見えた。いつも冷静な兄が、震えている。セレスティアはその震えを見て、初めて事態の深刻さを身体で理解した。
フェリクスが付き添い、ローレンツの処置を補佐した。今回は王都から納入された製剤を使わない。フェリクスが保管状態を確認した領内産の薬草を、ローレンツが診断に基づいて調合する。
二時間後、リリアーナの容態は安定した。
ローレンツは器具を片付けなかった。片付けようとして、手が止まっていた。
「フェリクス様」
「何でしょう」
「わたくしは……三年間、王都の認証を信じて、あの薬を調合してまいりました」
声が乾いていた。
「処方は、四倍希釈された標準製剤を一日二グラム。灰銀草そのものは0.5グラムになる計算でした。納入のたびに、王宮医師団の認証印と検査証明書を確認しました。書面には異常がなかった」
フェリクスが振り返った。
「症状には、気づいていたのでしょう」
「はい。薬を続けているのに奥方様の肝機能が落ちていく。処方開始から半年目と二年目、二度照会を出しました。王都から返ってきたのは、『検体は規格内』『原疾患の進行と判断する』という回答と、王立検査所の証明書でした」
ローレンツが眼鏡を外した。拭かずに、手に持ったままだった。
「粉末にされた灰銀草製剤は、見た目だけでは希釈率を判別できません。この診療室にも定量設備はない。わたくしは二度の検査結果を信じ、奥方様の虚弱が進んだのだと診断を修正してしまった」
「証明書そのものが、偽造されていた」
「はい。ですが、書面に騙されたことを免罪符にはできません。患者の身体と書面が食い違った時、三度目は王都を通さず、別の学術機関に検査を頼むべきでした」
ローレンツは言い逃れをしなかった。二度照会し、二度とも偽造された検査結果で退けられた。それでも、患者を守り切れなかった責任まで消えるわけではないと知っている。
「フェリクス様が使った定量法は、王立学術院の研究設備を前提とするものです。あの結果がなければ、今も証明書の数字を信じていたかもしれない。医師として、忘れません」
セレスティアは柱の陰で聞いていた。
この人は何も見ていなかったのではない。患者を診て、疑い、照会もした。それでも、制度の中に仕込まれた偽証を破れなかった。だが、母の身体が蝕まれた事実は消えない。
◇
だが母はまだ弱っている。ベッドの上で、汗に濡れた金髪が枕に広がっている。
「おかあさま、だいじょうぶ?」
セレスティアは母の手を握った。まだ少し冷たい。だが脈は安定している。
「大丈夫よ、セレスティア。お母様は強いから」
弱々しい微笑み。この人はどんな時でも笑う。それが母の強さであり、脆さでもある。
◇
午後。公爵が戻った。領地巡回から急遽帰邸したのだ。ヘルマンの早馬が知らせを届けた。
公爵は母の部屋を確認した後、書斎に家臣を集めた。
セレスティアは柱の陰にいた。いつものように。
公爵の声が扉越しに聞こえる。低く、静かで、それゆえに恐ろしい声。
「ハーブティーを持っていった使用人は誰だ」
「台所の下女、カーラでございます」ヘルマンの声。
「カーラに誰が指示した」
「本人から直接ではございません。昨夜、配膳記録の間に指示札が挟まれていたそうです。『奥方様の安眠のため、保管中の茶葉を今夜から毎晩届けるように』と。差出人の名はなく、家宰室の印だけが押されていました」
沈黙が落ちた。重い。鉛のような沈黙。
「家宰室の印か」
「はい。ただし、誰が指示札を置いたかは分かっておりません。印章台帳にも、昨夜使用した記録はございません」
公爵の声が変わった。温度が消えた。
「指示札を保全しろ。ハーブティーの茶葉は残りを全て押収し、台所の食材も全て検査する。家宰室の印に触れられる者と、昨夜台所へ入った者を洗え」
「承知しました」
「そしてディートリヒが戻り次第、私の書斎に連れてこい。家宰室の責任者として事情を聴く。戻るまで、この件は伏せろ」
「はい、閣下」
扉の向こうで、公爵の怒りが静かに燃えている。
この男の怒りは爆発しない。氷のように冷たく、鋼のように硬い。
セレスティアは柱の陰で小さく拳を握った。
ディートリヒの帰還まであと九日。
その九日が、裏切り者にとっての最後の猶予だ。
◇
夜。セレスティアは母の傍にいた。
リリアーナは眠っている。解毒処置の疲労で深い眠りに落ちている。呼吸は穏やかだ。ひとまず危険は去った。
だがセレスティアの心は穏やかではなかった。
同じことが起きた。前世と同じ時期に、また母へ毒が届いた。
薬を止めた途端、別の経路が使われた。偶然とは思えない。ディートリヒが渡した情報を宰相派の別の手が使ったのか、それとも屋敷内にまだ知らない協力者がいるのか。今は断定できない。ただ、母を弱らせる企てが続いていることだけは確かだった。
同じ流れが、また母を死へ向かわせようとしている。
だが今世では、一日でその糸口をつかめた。前世では、母の死を防ぐ手立てに気づけないまま、何年も過ぎていた。
それはセレスティアの知識のおかげであり、フェリクスの分析力のおかげであり、ナターシャの観察のおかげであり、マルガレーテの迅速さのおかげだ。
一人ではなかった。
今世では、一人ではなかった。
セレスティアは母の手を握ったまま、窓の外の星を見た。
「おかあさま、もうだいじょうぶ。もうどくはのませない」
眠っている母に聞こえるはずのない言葉。
だが言わずにはいられなかった。
前世で失った母。七歳の秋に冷たくなった手。あの冷たさを、もう二度と感じたくない。
もし間に合わなかったら。その考えが脳裏をよぎった。セレスティアは首を横に振り、その考えを押し殺した。
今世では守りきる。
何があっても。誰が来ても。
この手で。この小さな手で。




