水路の底
ディートリヒが王都に発った日の午後。
セレスティアは、自分が上機嫌であることを自覚していた。
計画が動いている。ナターシャがディートリヒの部屋で証拠を見つけた。宰相家の封蝋。書きかけの報告書。帰還すれば公爵の追及が待っている。包囲網は完成に近い。
あとは待つだけだ。
焦る必要はない。準備は整った。道筋は読めている。
三歳の身体で、前世の知識で、ここまでやった。自分を褒めてもいい。
昼食後、マルガレーテが刺繍の時間を用意してくれた。母の部屋の隣の小部屋。日当たりが良く、窓から中庭が見える。
刺繍針を持つ。三歳の指には難しい作業だが、最近は少し上達した。花の模様を一針ずつ刺していく。
だが集中できなかった。
頭が動きたがっている。次の手を考えたがっている。ディートリヒの排除が成功した後、宰相への対応をどうするか。聖魔力の情報が宰相に届いた場合の防衛策。公爵家の守りをさらに固める方法。
考えることが多すぎて、刺繍どころではない。
「マルガレーテ、おにわにいきたい」
「お庭ですか? いいですよ。少し風が冷たいですから、上着を」
マルガレーテが上着を取りに部屋を出た。
その隙に、セレスティアは廊下に出た。
本当の目的は庭ではない。ディートリヒが日常的に使っていた通用口を確認したい。東区画には使用人用の裏口がある。ナターシャが「ディートリヒ様はよく東区画の方へ行かれます」と言っていた。何か手がかりがあるかもしれない。
マルガレーテが戻る前に、東区画を見ておきたい。
三歳の足で廊下を走る。小さい歩幅。遅い。もどかしい。だが身体は軽い。
◇
東区画は屋敷の端にあたる。
使用人棟と厩舎の間を抜けると、領地の農地に面した一帯が広がる。ここに灌漑水路がある。以前、朝食の席で父が話していた東区画の水路の修繕。あれからしばらく経つが、工事はまだ続いているようだった。
水路に沿って歩いた。石組みの水路。幅は大人の両腕を広げたくらい。深さは大人の腰ほど。春の雪解け水が流れている。
水面は思ったより近かった。三歳の目線では、水路の縁が腰の高さにある。覗き込めば水が見える。澄んだ水。底の石が見える。
工事中の区間に差しかかった。
石組みが崩れている箇所がある。修繕のために一部が解体されている。柵がない。工事用の足場が組まれているが、昼食の時間なのか作業員の姿はない。
ディートリヒの通用口を探して、さらに奥へ進んだ。
水路の縁に沿って歩く。石が濡れている。苔が生えている。
足を滑らせた。
一瞬だった。
右足が苔を踏み、左足が浮き、身体が傾いた。手を伸ばしたが掴むものがない。石の縁が指先をすり抜けた。
視界が回転した。空が見えた。次に水面が見えた。
落ちた。
◇
冷たい。
それが最初の感覚だった。
春の雪解け水は氷のように冷たかった。全身を針で刺されたような衝撃。息が止まる。肺が縮む。
水の中にいる。
目を開けた。濁った視界。水中の石壁。気泡が目の前を上っていく。光が遠い。
足が底に届かない。
水深は六十センチほど。大人なら膝までしかない。だが三歳の身体には頭の上まである。つま先が底の石に触れるが、立てない。水の流れに押されて足が滑る。
顔を水面に出した。息を吸った。咳き込んだ。
壁が高い。水路の縁は三歳の腕では届かない。石壁は苔でぬるぬるしている。指が滑る。爪を立てても引っかからない。
前世の知識が叫ぶ。
力を抜け。仰向けになれ。浮力を使え。人間の身体は力を抜けば浮く。特に肺に空気がある間は。パニックになるな。手足をばたつかせるな。体力を消耗するだけだ。
知っている。全部知っている。
だが身体が言うことを聞かない。
三歳の身体はパニックしている。心臓が暴れている。手足が勝手にばたつく。水を掻く。水しぶきが上がる。口に水が入る。咳き込む。さらに水を飲む。
知識と身体の致命的な乖離。
前世の十八年分の知識がある。だがこの身体は三歳だ。六十センチの水に溺れる。石壁を上がれない。
知っていても、できない。
水面に顔を出す。空気を吸う。また沈む。水が鼻に入る。焼けるような痛み。
頭の中が真っ白になりかけた。
だめだ。考えろ。考え続けろ。思考を止めるな。
壁を掴もうとした。指が苔を引っ掻く。緑色の汚れが爪の間に入る。掴めない。何も掴めない。
流れがある。水路の水は止まっていない。ゆっくりだが確実に流されている。先ほどの工事区間に向かって。石組みが崩れた場所に。
そこに流されたら、瓦礫の隙間に身体が挟まる。
恐怖が爆発した。
◇
叫んだ。
「たすけて」
声が出た。だが小さい。三歳の喉は小さい。肺も小さい。水を飲んだ喉では、まともな声が出ない。
「おかあさま」
水路の石壁に声が反響する。だが壁の外には届かない。水路は地面より低い位置にある。地上の音に紛れて消える。
「だ・だれか」
また沈んだ。水が頭の上を覆う。水中で目を開ける。光が揺れている。水面越しの空が歪んでいる。
顔を出した。息を吸った。咳き込んだ。
寒い。身体の芯から冷えている。手足の感覚が鈍くなっている。
前世の記憶がフラッシュした。
断頭台。処刑広場。群衆の声。首を置く。木の匂い。血の匂い。刃の音。
あの時は一瞬だった。首に冷たい金属が触れて、意識が途切れた。
溺死は違う。
冷たさがゆっくりと首を絞める。水が肺を満たしていく。窒息が、じわじわと、確実に迫ってくる。
どちらも嫌だ。どちらの死に方も嫌だ。
まだ死ねない。
まだ何もしていない。母を救えていない。ディートリヒの排除も終わっていない。公爵家を守る仕組みも作れていない。
なのに水路で死ぬ。灌漑水路で溺れて死ぬ。
間抜けだ。
宰相の陰謀でもなく、断頭台の刃でもなく、東区画の水路で、三歳の身体が水に負けて死ぬ。
間抜けすぎて笑えない。
意識が遠のきかけた。
視界の端が暗くなる。水面の光がぼやける。手足が重い。冷たい。もう動かない。
最後に見えたのは空だった。
青い空。雲がない。処刑の日と同じ、残酷なほど晴れた空。
◇
足音が聞こえた。
石畳を走る足音。軽い。子供の足音。
「お嬢様!?」
声。聞き覚えのある声。
ナターシャだ。
水路の縁に顔が現れた。茶色の髪。怯えた目。だが怯えの下に、もっと強いものがある。
ナターシャは水路の中のセレスティアを見た。
一瞬で状況を理解した。
躊躇しなかった。
十二歳の少女は靴を脱ぐ間もなく水路に飛び込んだ。水しぶきが上がった。冷たい水が跳ねた。
水は十二歳のナターシャの胸まで来た。足が底に届く。だがやっとだ。流れに踏ん張りながら、両腕を伸ばした。
「お嬢様! しっかりしてください!」
小さな身体を抱え上げた。三歳の身体は軽い。だが水を吸った衣服が重い。ナターシャの腕が震えている。寒さと重さと恐怖で。
セレスティアはナターシャの首にしがみついた。
力が入らない。指がかじかんでいる。だがしがみつくことだけはできた。
「ナタ、シャ」
声が掠れている。水を飲んだ喉。
「大丈夫です、大丈夫です、お嬢様。私が抱えてますから。離しませんから」
ナターシャが水路の壁に手をかけた。だが片手でセレスティアを抱え、片手で壁を上るのは無理だった。壁が高い。苔が滑る。何度も手が外れた。
「くっ……」
ナターシャが歯を食いしばった。足場を探し、崩れた石組みの凹凸に足を引っかけ、セレスティアを壁の上に押し上げた。
セレスティアが水路の縁に這い上がった。
ナターシャが自分も上がった。腕の力だけで壁を越えた。十二歳の、痩せた身体で。
地面に転がる。二人とも。
空が見えた。
青い空。さっき水の中から見た空と同じ空。だが今度は、空気がある。
◇
二人とも濡れ鼠だった。
春の風が冷たい。濡れた衣服が肌に張りつく。震えが止まらない。
セレスティアが咳き込んだ。何度も。身体を丸めて、水を吐いた。胃の中身が全部出るまで嘔吐が止まらなかった。地面に水と胃液が広がる。
情けない。惨めだ。三歳の身体が無様に地面に転がっている。
ナターシャが泣いていた。
声を上げて泣いていた。十二歳の少女が、濡れた顔をくしゃくしゃにして。
「死んじゃうかと思いました……お嬢様が死んじゃうかと……」
ナターシャの声も震えている。寒さと恐怖と安堵が混ざった声。
セレスティアも泣いていた。
泣くまいと思った。十八歳の精神で、感情を制御しようとした。だが無理だった。三歳の身体は感情を堰き止められない。恐怖と安堵と寒さが一気に押し寄せて、涙が溢れた。
「う、うあああん・・・こ、こわかったー」
声が震える。幼児の声。水に濡れた、掠れた声。
「わ、わたし、しぬかとおもったー」
ナターシャがセレスティアを抱きしめた。濡れた身体同士。冷たい。だが体温がある。心臓の音が聞こえる。ナターシャの心臓が、セレスティアの耳元で早鐘を打っている。
生きている。二人とも生きている。
◇
震えながら、セレスティアは考えた。
六十センチの水路から上がれない。
宰相を出し抜いても、苔に足を滑らせれば死ぬ。盤面を読み切っても、三歳の肺では叫び声が届かない。
この身体は三歳だ。
たった三歳。
走れない。泳げない。叫べない。壁を上れない。
「わたし、よわい」
声に出した。初めて。
震える唇から零れた言葉。ナターシャの腕の中で。
「わたし、よわい。ひとりじゃ、みずからもあがれない」
ナターシャが泣きながら首を横に振った。
「お嬢様は弱くなんかありません。私がいます。私がお嬢様を助けます。何度でも」
十二歳の少女の言葉。真っ直ぐな言葉。
セレスティアはナターシャの濡れた服を握りしめた。
「ナターシャ、ありがとう」
「お礼なんていいです。お嬢様が無事なら、それだけで」
ナターシャの腕が強くなった。まるで二度と離さないというように。
◇
ナターシャが走った。マルガレーテを呼びに。
セレスティアは水路の傍で、一人で座って待った。濡れた服が重い。寒い。震えが止まらない。だが意識ははっきりしていた。
マルガレーテが駆けつけた時、その顔は真っ青だった。
「お嬢様! お嬢様、何があったのですか!」
セレスティアを抱き上げ、上着で包み、屋敷に走った。ナターシャが後を追う。
大騒ぎになった。
使用人たちが集まり、湯が沸かされ、着替えが用意された。ヘルマンが報告を聞きに来た。公爵にも伝令が飛んだ。東区画の水路に柵がなかったことが問題視された。工事の管理者が呼び出された。
セレスティアはベッドに寝かされた。温かい毛布。湯たんぽ。マルガレーテの手が額に触れる。
「熱い。お嬢様、熱が出ています」
冷たい水に浸かった身体が、急速に熱を上げ始めていた。三歳の免疫は脆い。水路の汚れた水。春とはいえ雪解けの冷水。身体が悲鳴を上げている。
意識がぼんやりする。天蓋が揺れて見える。
マルガレーテの手が額にある。温かい。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様。ここにおりますよ」
「ここにいて。あさまで」
あの夜と同じ言葉。同じ頼み。
マルガレーテはベッドの端に座り、セレスティアの手を握った。
「はい。朝までずっとおりますよ」
あの夜と同じ返事。同じ温もり。
セレスティアは目を閉じた。
高熱の中、意識が薄れていく。断頭台の残像と、水路の冷たさが交互に襲ってくる。
だが今夜は、もう一つ別のものがあった。
ナターシャの腕の感覚。水の中から引き上げてくれた、あの力強い腕。
マルガレーテの手の温もり。額に触れる、あの柔らかな手。
「まだ、しねない」
熱に浮かされた声。掠れた、小さな声。
マルガレーテが手を握り直した。
「死なせません。マルガレーテがいる限り、絶対に」
その言葉を最後に、セレスティアは意識を手放した。
夢を見た。
水の中の夢ではなかった。断頭台の夢でもなかった。
暗い場所で、誰かの手を握っている夢だった。
手だけが温かい。他は全部冷たい。全部暗い。
でも手が温かいから、大丈夫。
三歳の少女は、高熱の中で微かに笑った。




