水路の底
ディートリヒが王都に発って、三日目の午後。
セレスティアは、自分が上機嫌であることを自覚していた。
計画が動いている。ナターシャがディートリヒの部屋で手がかりを見つけた。宰相家の赤い封蝋。そして、出発前に固く施錠された机の引き出し。あとはヘルマンに伝えれば、公爵の権限で調べられる。包囲網の糸口は、見え始めている。
部屋の捜索はヘルマンに任せる。焦って踏み込む必要はない。ただし、報告する手がかりは、今のうちに整理しておいた方がいい。
三歳の身体で、前世の知識を頼りに、ここまで動かした。自分を褒めてもいい。
昼食後、マルガレーテが刺繍の時間を用意してくれた。母の部屋の隣の小部屋。日当たりが良く、窓から中庭が見える。
刺繍針を持つ。三歳の指には難しい作業だが、最近は少し上達した。花の模様を一針ずつ刺していく。
それでも、針先に意識を集められなかった。
ヘルマンに伝える内容を、頭の中で整理していた。赤い封蝋。蛇の紋章。施錠された引き出し。それだけでも調査を頼む理由にはなる。
もう一つ、ナターシャが話していたことがある。ディートリヒは、屋敷の東区画へよく足を運んでいた。東の使用人門を使っていたなら、門番の通行記録や馬車の出入りが残っているかもしれない。
部屋へ忍び込む必要はない。東門が庭から見える位置にあるか、ナターシャに案内してもらうだけでいい。護衛を連れ、決められた通路から遠目に確認する。それなら危険も不自然さもない。
「マルガレーテ、おにわにいきたい」
「お庭ですか? いいですよ。少し風が冷たいですから、上着を。それから護衛を呼びましょう」
マルガレーテが上着を取りに隣室へ入った。扉の外には、ヘルマンが付けた護衛騎士が待機している。父の命令以来、セレスティアが部屋を出る時は、必ず護衛が同行することになっていた。
セレスティアは椅子に座ったまま待った。
マルガレーテが上着を着せ、護衛騎士を部屋へ入れた。セレスティアはナターシャも呼んでもらった。
「ナターシャ。ひがしのもん、どこからみえるか、おしえて」
「東門ですか?」
「うん。おにわからみるだけ。ちかづかない」
ナターシャは護衛騎士を見た。騎士が頷いた。
「決められた通路から外れないこと。仮柵の内側へ入らないこと。それをお守りいただけるなら」
「まもる」
その時、廊下から別の侍女が来て、家政婦長から至急確認してほしい帳簿があるとマルガレーテへ告げた。侍女長の印が要るらしい。
マルガレーテは迷ったが、ナターシャと護衛騎士を順に見た。
「私は確認を済ませてから追いかけます。お嬢様から決して目を離さないでください」
二人が揃って頷くのを見届けて、マルガレーテは部屋に残った。
三人で部屋を出た。セレスティアを中央に、ナターシャが右、護衛騎士が二歩後ろ。父の命令どおり、警備の目が届く通路を、見守られながら歩いた。
◇
東区画へ向かう途中、セレスティアは何度も立ち止まった。護衛騎士が先に曲がり角を確認し、ナターシャが濡れた石を避けるよう手を引く。
慎重すぎるくらいでいい。東門の場所が分かれば、それ以上はヘルマンに任せる。自分で証拠を取りに行く必要はない。
◇
東区画は屋敷の端にあたる。
使用人棟と厩舎の間を抜けると、領地の農地に面した一帯が広がる。ここに灌漑水路がある。以前、朝食の席で父が話していた東区画の水路の修繕。あれからしばらく経つが、工事はまだ続いていた。
水路に沿って歩いた。石組みの水路。幅は大人の両腕を広げたくらい。深さは大人の腰より少し上。春の雪解け水が流れている。
水路の手前には腰の高さの仮柵が置かれ、白い石で安全通路が示されている。護衛騎士は、その白線より水路側へ出ないよう二人に言った。
三人は白線の内側を歩いた。
東門が見える場所で、ナターシャが足を止めた。セレスティアの手をいったん離し、白線の内側で半歩前へ出る。
「あそこです。ディートリヒ様が使っていたのは。門番の詰所も見えます」
「わかった。もどろう」
目的は果たした。セレスティアは振り返った。
その時、足元の土が沈んだ。
一瞬だった。
水路の石組みの裏側から水が染み出し、安全通路の下まで土を削っていた。表面からは見えない空洞。三歳の軽い足で踏んだだけなのに、薄く残っていた地面が崩れた。
「お嬢様!」
護衛騎士の手が伸び、セレスティアの袖を掴んだ。だが崩落は足元から白線の外へ走り、騎士が踏ん張った地面まで剥がれた。騎士は反対の手で仮柵を掴んで踏みとどまったが、落下の重みを受けた薄い袖布が裂けた。
崩れた土と一緒に、身体が水路へ傾いた。
視界が回転した。空が見えた。次に水面が見えた。
落ちた。
◇
冷たい。
それが最初の感覚だった。
春の雪解け水は氷のように冷たかった。全身を針で刺されたような衝撃。息が止まる。肺が縮む。
水の中にいる。
目を開けた。濁った視界。水中の石壁。気泡が目の前を上っていく。光が遠い。
足が底に届かない。
水深は一メートル二十センチほど。大人でも腰より上まであり、三歳の身体では頭まですっぽり水に沈む深さだ。つま先が底の石に触れるが、立てない。水の流れに押されて足が滑る。
顔を水面に出した。息を吸った。咳き込んだ。
壁が高い。水路の縁は三歳の腕では届かない。石壁は苔でぬるぬるしている。指が滑る。爪を立てても引っかからない。
前世の知識が叫ぶ。
力を抜け。仰向けになれ。浮力を使え。人間の身体は力を抜けば浮く。特に肺に空気がある間は。パニックになるな。手足をばたつかせるな。体力を消耗するだけだ。
知っている。全部知っている。
だが身体が言うことを聞かない。
三歳の身体はパニックに陥っている。心臓が暴れ、手足が勝手にばたつく。水を掻くたびに水しぶきが上がり、口に水が入る。咳き込み、さらに水を飲む。
知識と身体の間には、致命的な隔たりがあった。
前世の十八年分の知識がある。だがこの身体は三歳だ。一メートル二十センチの水に溺れる。石壁を上がれない。
知っていても、できない。
水面に顔を出す。空気を吸う。また沈む。水が鼻に入る。焼けるような痛み。
頭の中が真っ白になりかけた。
だめだ。考えろ。考え続けろ。思考を止めるな。
壁を掴もうとした。指が苔を引っ掻く。緑色の汚れが爪の間に入る。掴めない。何も掴めない。
流れがある。水路の水は止まっていない。ゆっくりだが確実に流されている。先ほどの工事区間に向かって。石組みが崩れた場所に。
そこに流されたら、瓦礫の隙間に身体が挟まる。
恐怖が爆発した。
◇
叫んだ。
「たすけて」
声が出た。だが小さい。三歳の喉は小さい。肺も小さい。水を飲んだ喉では、まともな声が出ない。
「おかあさま」
水路の石壁に声が反響する。だが壁の外には届かない。水路は地面より低い位置にある。地上の音に紛れて消える。
「だ・だれか」
また沈んだ。水が頭の上を覆う。水中で目を開ける。光が揺れている。水面越しの空が歪んでいる。
顔を出した。息を吸った。咳き込んだ。
寒い。身体の芯から冷えている。手足の感覚が鈍くなっている。
前世の記憶がフラッシュした。
断頭台。処刑広場。群衆の声。首を置く。木の匂い。血の匂い。刃の音。
あの時は一瞬だった。首に冷たい金属が触れて、意識が途切れた。
溺死は違う。
冷たさがゆっくりと首を絞める。水が肺を満たしていく。窒息が、じわじわと、確実に迫ってくる。
どちらも嫌だ。どちらの死に方も嫌だ。
まだ死ねない。
まだ何もしていない。母を救えていない。ディートリヒの排除も終わっていない。公爵家を守る仕組みも作れていない。
なのに水路で死ぬ。灌漑水路で溺れて死ぬ。
間抜けだ。
宰相の陰謀でもなく、断頭台の刃でもなく、東区画の水路で、三歳の身体が水に負けて死ぬ。
間抜けすぎて笑えない。
無謀に飛び出したわけではない。護衛を連れた。立入禁止の柵を越えてもいない。安全だと示された道を歩いた。
それでも、地面が崩れただけで死にかけている。
頭でどれほど正しい判断をしても、三歳の身体には、大人なら這い上がれる水路が致命傷になる。
意識が遠のきかけた。
視界の端が暗くなる。水面の光がぼやける。手足が重い。冷たい。もう動かない。
最後に見えたのは空だった。
青い空。雲がない。処刑の日と同じ、残酷なほど晴れた空。
◇
頭上で叫び声がした。
護衛騎士が重い剣帯を投げ捨て、崩れた縁に膝をついて手を伸ばしている。だが水面までは遠い。騎士が体重をかけるたび、縁の土が水へ落ちていく。その横へ、軽い足音が駆け寄った。
「お嬢様!?」
声。聞き覚えのある声。
ナターシャだ。半歩先で東門の詰所を指していた彼女が、崩落の音に振り返り、すぐ脇まで駆け寄ってきた。
水路の縁に顔が現れた。茶色の髪。怯えた目。だが怯えの下に、もっと強いものがある。
ナターシャは水路の中のセレスティアを見た。
一瞬で状況を理解した。
「下りたら、二人とも上がれん」
騎士の声だった。壁の高さを見ている。自分に言い聞かせる声だった。
ナターシャは聞いていた。
躊躇しなかった。
十二歳の少女は靴を脱ぐ間もなく水路に飛び込んだ。水しぶきが上がった。冷たい水が跳ねた。
水は十二歳のナターシャの胸まで来た。足が底に届く。だがやっとだ。流れに踏ん張りながら、両腕を伸ばした。
「お嬢様! しっかりしてください!」
小さな身体を抱え上げた。三歳の身体は軽い。だが水を吸った衣服が重い。ナターシャの腕が震えている。寒さと重さと恐怖で。
セレスティアはナターシャの首にしがみついた。
力が入らない。指がかじかんでいる。だがしがみつくことだけはできた。
「ナタ、シャ」
声が掠れている。水を飲んだ喉。
「大丈夫です、大丈夫です、お嬢様。私が抱えてますから。離しませんから」
ナターシャが水路の壁に手をかけた。だが片手でセレスティアを抱え、片手で壁を上るのは無理だった。壁が高い。苔が滑る。
「くっ……」
「腕を!」
護衛騎士が腹這いになり、片腕を水路へ伸ばした。ナターシャがセレスティアを押し上げ、騎士が小さな両腕を掴んだ。
セレスティアが水路の縁へ引き上げられた。
続いて騎士がナターシャの手首を掴み、引き上げた。
地面に二人の身体が転がった。
空が見えた。
青い空。さっき水の中から見た空と同じ空。だが今度は、空気がある。
◇
二人とも濡れ鼠だった。
春の風が冷たい。濡れた衣服が肌に張りつく。震えが止まらない。
セレスティアが咳き込んだ。何度も。身体を丸めて、水を吐いた。胃の中身が全部出るまで嘔吐が止まらなかった。地面に水と胃液が広がる。
情けない。惨めだ。三歳の身体が無様に地面に転がっている。
ナターシャが泣いていた。
声を上げて泣いていた。十二歳の少女が、濡れた顔をくしゃくしゃにして。
「死んじゃうかと思いました……お嬢様が死んじゃうかと……」
ナターシャの声も震えている。寒さと恐怖と安堵が混ざった声。
セレスティアも泣いていた。
泣くまいと思った。十八歳の精神で、感情を制御しようとした。だが無理だった。三歳の身体は感情を堰き止められない。恐怖と安堵と寒さが一気に押し寄せて、涙が溢れた。
「う、うあああん・・・こ、こわかったー」
声が震える。幼児の声。水に濡れた、掠れた声。
「わ、わたし、しぬかとおもったー」
ナターシャがセレスティアを抱きしめた。濡れた身体同士。冷たい。だが体温がある。心臓の音が聞こえる。ナターシャの心臓が、セレスティアの耳元で早鐘を打っている。
生きている。二人とも生きている。
◇
震えながら、セレスティアは考えた。
一メートル二十センチの水路から上がれない。
宰相を出し抜いても、安全だと示された地面が崩れれば死ぬ。盤面を読み切っても、三歳の肺では叫び声が届かない。
この身体は三歳だ。
たった三歳。
走れない。泳げない。叫べない。壁を上れない。
「わたし、よわい」
声に出した。初めて。
震える唇から零れた言葉。ナターシャの腕の中で。
「わたし、よわい。ひとりじゃ、みずからもあがれない」
ナターシャが泣きながら首を横に振った。
「お嬢様は弱くなんかありません。私がいます。私がお嬢様を助けます。何度でも」
十二歳の少女の言葉。真っ直ぐな言葉。
セレスティアはナターシャの濡れた服を握りしめた。
「ナターシャ、ありがとう」
「お礼なんていいです。お嬢様が無事なら、それだけで」
ナターシャの腕が強くなった。まるで二度と離さないというように。
◇
護衛騎士が携帯していた警笛を三度吹いた。緊急を知らせる鋭い音が、東区画に響いた。
ナターシャはセレスティアを抱いたまま離さなかった。護衛騎士も外套を二人にかけ、水路と屋敷の間に立った。
マルガレーテが駆けつけた時、その顔は真っ青だった。
「お嬢様! お嬢様、何があったのですか!」
セレスティアを抱き上げ、上着で包み、屋敷に走った。ナターシャと護衛騎士が後を追う。
大騒ぎになった。
使用人たちが集まり、湯が沸かされ、着替えが用意された。ヘルマンが報告を聞きに来た。公爵にも伝令が飛んだ。
調査の結果、護衛命令は守られていたことが確認された。セレスティアはナターシャと護衛騎士に挟まれ、白線の内側を歩いていた。問題は、工事責任者が水路からの浸食を調べず、地表だけを見て安全通路を設定していたことだった。仮柵は危険な縁から離して設置し直され、工事区画を通る時は幼児の手を離さない規則が追加された。
セレスティアはベッドに寝かされた。温かい毛布。湯たんぽ。マルガレーテの手が額に触れる。
「熱い。お嬢様、熱が出ています」
冷たい水に浸かった身体が、急速に熱を上げ始めていた。幼い身体は、汚れた水と春の雪解け水に耐えきれず、悲鳴を上げている。
意識がぼんやりする。天蓋が揺れて見える。
マルガレーテの手が額にある。温かい。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様。ここにおりますよ」
「ここにいて。あさまで」
あの夜と同じ言葉で、同じ頼みを口にした。
マルガレーテはベッドの端に座り、セレスティアの手を握った。
「はい。朝までずっとおりますよ」
返ってきたのも、あの夜と同じ返事と温もりだった。
セレスティアは目を閉じた。
高熱の中、意識が薄れていく。断頭台の残像と、水路の冷たさが交互に襲ってくる。
刃と、水。
死に方が違うだけで、行き着く先が同じ形をしている。どの道を選んでも同じ場所に出るように作られた迷路みたいだ、と思った。
考えるな。熱のせいだ。
だが今夜は、もう一つ別のものがあった。
ナターシャの腕の感覚。水の中から引き上げてくれた、あの力強い腕。
マルガレーテの手の温もり。額に触れる、あの柔らかな手。
「まだ、しねない」
熱に浮かされた声。掠れた、小さな声。
マルガレーテが手を握り直した。
「死なせません。マルガレーテがいる限り、絶対に」
その言葉を最後に、セレスティアは意識を手放した。
夢を見た。
水の中の夢ではなかった。断頭台の夢でもなかった。
暗い場所で、誰かの手を握っている夢だった。
手だけが温かい。他は全部冷たい。全部暗い。
でも手が温かいから、大丈夫。
三歳の少女は、高熱の中で微かに笑った。




