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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN


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水路の底

 ディートリヒが王都に発った日の午後。


 セレスティアは、自分が上機嫌であることを自覚していた。


 計画が動いている。ナターシャがディートリヒの部屋で証拠を見つけた。宰相家の封蝋。書きかけの報告書。帰還すれば公爵の追及が待っている。包囲網は完成に近い。


 あとは待つだけだ。


 焦る必要はない。準備は整った。道筋は読めている。


 三歳の身体で、前世の知識で、ここまでやった。自分を褒めてもいい。


 昼食後、マルガレーテが刺繍の時間を用意してくれた。母の部屋の隣の小部屋。日当たりが良く、窓から中庭が見える。


 刺繍針を持つ。三歳の指には難しい作業だが、最近は少し上達した。花の模様を一針ずつ刺していく。


 だが集中できなかった。


 頭が動きたがっている。次の手を考えたがっている。ディートリヒの排除が成功した後、宰相への対応をどうするか。聖魔力の情報が宰相に届いた場合の防衛策。公爵家の守りをさらに固める方法。


 考えることが多すぎて、刺繍どころではない。


 「マルガレーテ、おにわにいきたい」


 「お庭ですか? いいですよ。少し風が冷たいですから、上着を」


 マルガレーテが上着を取りに部屋を出た。


 その隙に、セレスティアは廊下に出た。


 本当の目的は庭ではない。ディートリヒが日常的に使っていた通用口を確認したい。東区画には使用人用の裏口がある。ナターシャが「ディートリヒ様はよく東区画の方へ行かれます」と言っていた。何か手がかりがあるかもしれない。


 マルガレーテが戻る前に、東区画を見ておきたい。


 三歳の足で廊下を走る。小さい歩幅。遅い。もどかしい。だが身体は軽い。



 東区画は屋敷の端にあたる。


 使用人棟と厩舎の間を抜けると、領地の農地に面した一帯が広がる。ここに灌漑水路がある。以前、朝食の席で父が話していた東区画の水路の修繕。あれからしばらく経つが、工事はまだ続いているようだった。


 水路に沿って歩いた。石組みの水路。幅は大人の両腕を広げたくらい。深さは大人の腰ほど。春の雪解け水が流れている。


 水面は思ったより近かった。三歳の目線では、水路の縁が腰の高さにある。覗き込めば水が見える。澄んだ水。底の石が見える。


 工事中の区間に差しかかった。


 石組みが崩れている箇所がある。修繕のために一部が解体されている。柵がない。工事用の足場が組まれているが、昼食の時間なのか作業員の姿はない。


 ディートリヒの通用口を探して、さらに奥へ進んだ。


 水路の縁に沿って歩く。石が濡れている。苔が生えている。


 足を滑らせた。


 一瞬だった。


 右足が苔を踏み、左足が浮き、身体が傾いた。手を伸ばしたが掴むものがない。石の縁が指先をすり抜けた。


 視界が回転した。空が見えた。次に水面が見えた。


 落ちた。



 冷たい。


 それが最初の感覚だった。


 春の雪解け水は氷のように冷たかった。全身を針で刺されたような衝撃。息が止まる。肺が縮む。


 水の中にいる。


 目を開けた。濁った視界。水中の石壁。気泡が目の前を上っていく。光が遠い。


 足が底に届かない。


 水深は六十センチほど。大人なら膝までしかない。だが三歳の身体には頭の上まである。つま先が底の石に触れるが、立てない。水の流れに押されて足が滑る。


 顔を水面に出した。息を吸った。咳き込んだ。


 壁が高い。水路の縁は三歳の腕では届かない。石壁は苔でぬるぬるしている。指が滑る。爪を立てても引っかからない。


 前世の知識が叫ぶ。


 力を抜け。仰向けになれ。浮力を使え。人間の身体は力を抜けば浮く。特に肺に空気がある間は。パニックになるな。手足をばたつかせるな。体力を消耗するだけだ。


 知っている。全部知っている。


 だが身体が言うことを聞かない。


 三歳の身体はパニックしている。心臓が暴れている。手足が勝手にばたつく。水を掻く。水しぶきが上がる。口に水が入る。咳き込む。さらに水を飲む。


 知識と身体の致命的な乖離。


 前世の十八年分の知識がある。だがこの身体は三歳だ。六十センチの水に溺れる。石壁を上がれない。


 知っていても、できない。


 水面に顔を出す。空気を吸う。また沈む。水が鼻に入る。焼けるような痛み。


 頭の中が真っ白になりかけた。


 だめだ。考えろ。考え続けろ。思考を止めるな。


 壁を掴もうとした。指が苔を引っ掻く。緑色の汚れが爪の間に入る。掴めない。何も掴めない。


 流れがある。水路の水は止まっていない。ゆっくりだが確実に流されている。先ほどの工事区間に向かって。石組みが崩れた場所に。


 そこに流されたら、瓦礫の隙間に身体が挟まる。


 恐怖が爆発した。



 叫んだ。


 「たすけて」


 声が出た。だが小さい。三歳の喉は小さい。肺も小さい。水を飲んだ喉では、まともな声が出ない。


 「おかあさま」


 水路の石壁に声が反響する。だが壁の外には届かない。水路は地面より低い位置にある。地上の音に紛れて消える。


 「だ・だれか」


 また沈んだ。水が頭の上を覆う。水中で目を開ける。光が揺れている。水面越しの空が歪んでいる。


 顔を出した。息を吸った。咳き込んだ。


 寒い。身体の芯から冷えている。手足の感覚が鈍くなっている。


 前世の記憶がフラッシュした。


 断頭台。処刑広場。群衆の声。首を置く。木の匂い。血の匂い。刃の音。


 あの時は一瞬だった。首に冷たい金属が触れて、意識が途切れた。


 溺死は違う。


 冷たさがゆっくりと首を絞める。水が肺を満たしていく。窒息が、じわじわと、確実に迫ってくる。


 どちらも嫌だ。どちらの死に方も嫌だ。


 まだ死ねない。


 まだ何もしていない。母を救えていない。ディートリヒの排除も終わっていない。公爵家を守る仕組みも作れていない。


 なのに水路で死ぬ。灌漑水路で溺れて死ぬ。


 間抜けだ。


 宰相の陰謀でもなく、断頭台の刃でもなく、東区画の水路で、三歳の身体が水に負けて死ぬ。


 間抜けすぎて笑えない。


 意識が遠のきかけた。


 視界の端が暗くなる。水面の光がぼやける。手足が重い。冷たい。もう動かない。


 最後に見えたのは空だった。


 青い空。雲がない。処刑の日と同じ、残酷なほど晴れた空。



 足音が聞こえた。


 石畳を走る足音。軽い。子供の足音。


 「お嬢様!?」


 声。聞き覚えのある声。


 ナターシャだ。


 水路の縁に顔が現れた。茶色の髪。怯えた目。だが怯えの下に、もっと強いものがある。


 ナターシャは水路の中のセレスティアを見た。


 一瞬で状況を理解した。


 躊躇しなかった。


 十二歳の少女は靴を脱ぐ間もなく水路に飛び込んだ。水しぶきが上がった。冷たい水が跳ねた。


 水は十二歳のナターシャの胸まで来た。足が底に届く。だがやっとだ。流れに踏ん張りながら、両腕を伸ばした。


 「お嬢様! しっかりしてください!」


 小さな身体を抱え上げた。三歳の身体は軽い。だが水を吸った衣服が重い。ナターシャの腕が震えている。寒さと重さと恐怖で。


 セレスティアはナターシャの首にしがみついた。


 力が入らない。指がかじかんでいる。だがしがみつくことだけはできた。


 「ナタ、シャ」


 声が掠れている。水を飲んだ喉。


 「大丈夫です、大丈夫です、お嬢様。私が抱えてますから。離しませんから」


 ナターシャが水路の壁に手をかけた。だが片手でセレスティアを抱え、片手で壁を上るのは無理だった。壁が高い。苔が滑る。何度も手が外れた。


 「くっ……」


 ナターシャが歯を食いしばった。足場を探し、崩れた石組みの凹凸に足を引っかけ、セレスティアを壁の上に押し上げた。


 セレスティアが水路の縁に這い上がった。


 ナターシャが自分も上がった。腕の力だけで壁を越えた。十二歳の、痩せた身体で。


 地面に転がる。二人とも。


 空が見えた。


 青い空。さっき水の中から見た空と同じ空。だが今度は、空気がある。



 二人とも濡れ鼠だった。


 春の風が冷たい。濡れた衣服が肌に張りつく。震えが止まらない。


 セレスティアが咳き込んだ。何度も。身体を丸めて、水を吐いた。胃の中身が全部出るまで嘔吐が止まらなかった。地面に水と胃液が広がる。


 情けない。惨めだ。三歳の身体が無様に地面に転がっている。


 ナターシャが泣いていた。


 声を上げて泣いていた。十二歳の少女が、濡れた顔をくしゃくしゃにして。


 「死んじゃうかと思いました……お嬢様が死んじゃうかと……」


 ナターシャの声も震えている。寒さと恐怖と安堵が混ざった声。


 セレスティアも泣いていた。


 泣くまいと思った。十八歳の精神で、感情を制御しようとした。だが無理だった。三歳の身体は感情を堰き止められない。恐怖と安堵と寒さが一気に押し寄せて、涙が溢れた。


 「う、うあああん・・・こ、こわかったー」


 声が震える。幼児の声。水に濡れた、掠れた声。


 「わ、わたし、しぬかとおもったー」


 ナターシャがセレスティアを抱きしめた。濡れた身体同士。冷たい。だが体温がある。心臓の音が聞こえる。ナターシャの心臓が、セレスティアの耳元で早鐘を打っている。


 生きている。二人とも生きている。



 震えながら、セレスティアは考えた。


 六十センチの水路から上がれない。


 宰相を出し抜いても、苔に足を滑らせれば死ぬ。盤面を読み切っても、三歳の肺では叫び声が届かない。


 この身体は三歳だ。


 たった三歳。


 走れない。泳げない。叫べない。壁を上れない。


 「わたし、よわい」


 声に出した。初めて。


 震える唇から零れた言葉。ナターシャの腕の中で。


 「わたし、よわい。ひとりじゃ、みずからもあがれない」


 ナターシャが泣きながら首を横に振った。


 「お嬢様は弱くなんかありません。私がいます。私がお嬢様を助けます。何度でも」


 十二歳の少女の言葉。真っ直ぐな言葉。


 セレスティアはナターシャの濡れた服を握りしめた。


 「ナターシャ、ありがとう」


 「お礼なんていいです。お嬢様が無事なら、それだけで」


 ナターシャの腕が強くなった。まるで二度と離さないというように。



 ナターシャが走った。マルガレーテを呼びに。


 セレスティアは水路の傍で、一人で座って待った。濡れた服が重い。寒い。震えが止まらない。だが意識ははっきりしていた。


 マルガレーテが駆けつけた時、その顔は真っ青だった。


 「お嬢様! お嬢様、何があったのですか!」


 セレスティアを抱き上げ、上着で包み、屋敷に走った。ナターシャが後を追う。


 大騒ぎになった。


 使用人たちが集まり、湯が沸かされ、着替えが用意された。ヘルマンが報告を聞きに来た。公爵にも伝令が飛んだ。東区画の水路に柵がなかったことが問題視された。工事の管理者が呼び出された。


 セレスティアはベッドに寝かされた。温かい毛布。湯たんぽ。マルガレーテの手が額に触れる。


 「熱い。お嬢様、熱が出ています」


 冷たい水に浸かった身体が、急速に熱を上げ始めていた。三歳の免疫は脆い。水路の汚れた水。春とはいえ雪解けの冷水。身体が悲鳴を上げている。


 意識がぼんやりする。天蓋が揺れて見える。


 マルガレーテの手が額にある。温かい。


 「マルガレーテ」


 「はい、お嬢様。ここにおりますよ」


 「ここにいて。あさまで」


 あの夜と同じ言葉。同じ頼み。


 マルガレーテはベッドの端に座り、セレスティアの手を握った。


 「はい。朝までずっとおりますよ」


 あの夜と同じ返事。同じ温もり。


 セレスティアは目を閉じた。


 高熱の中、意識が薄れていく。断頭台の残像と、水路の冷たさが交互に襲ってくる。


 だが今夜は、もう一つ別のものがあった。


 ナターシャの腕の感覚。水の中から引き上げてくれた、あの力強い腕。


 マルガレーテの手の温もり。額に触れる、あの柔らかな手。


 「まだ、しねない」


 熱に浮かされた声。掠れた、小さな声。


 マルガレーテが手を握り直した。


 「死なせません。マルガレーテがいる限り、絶対に」


 その言葉を最後に、セレスティアは意識を手放した。


 夢を見た。


 水の中の夢ではなかった。断頭台の夢でもなかった。


 暗い場所で、誰かの手を握っている夢だった。


 手だけが温かい。他は全部冷たい。全部暗い。


 でも手が温かいから、大丈夫。


 三歳の少女は、高熱の中で微かに笑った。


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