漏洩の兆候
聖魔力の覚醒から三日後。
ディートリヒ・クラウスが「急用」で王都へ向かった。
朝礼の場で、ディートリヒは穏やかな笑顔で公爵に報告した。
「先日の穀物取引の件で、王都の商会と直接交渉が必要になりました。二、三日で戻ります」
公爵は頷いた。表情は変えない。だがセレスティアは知っている――ヘルマンに命じた監視が始まっていることを。
問題は、ディートリヒの「急用」が本当に穀物取引なのかどうかだ。
セレスティアには確信があった。違う。
あの男は宰相に報告しに行ったのだ。聖魔力のことを。
緊急家族会議で「聖魔力は最高機密」と決めた。知っているのは公爵、フェリクス、ヘルマン、マルガレーテ、ナターシャの五人。
だがディートリヒは家臣団の中枢にいる。屋敷内の異変は嫌でも耳に入る。庭で野犬事件が起きたこと。花壇が半壊したこと。公爵が緊急会議を開いたこと。フェリクスが書庫に閉じこもって魔力学の本を読み漁っていること。
断片をつなぎ合わせれば、「セレスティアに異常な魔力が覚醒した」と推測するのは難しくない。ディートリヒは有能な男だ。嗅覚が鋭い。
そしてディートリヒは宰相派の人間だ。
公爵家にとって不利な情報は、即座に宰相に売る。
焦りが胸を締めつけた。
聖魔力の情報が宰相に届けば、宰相は必ず動く。前世でもそうだった。聖魔力保有者は「脅威」だ。五百年に一人の力。王家を凌駕しかねない力。宰相にとって、制御下に置くか排除するかの二択しかない。
排除が選ばれれば、セレスティアの命が危ない。
制御下に置かれれば、公爵家から引き離される。
どちらも許容できない。
セレスティアはナターシャを呼んだ。
「ナターシャ、おねがいがあるの」
「何ですか、お嬢様」
「ディートリヒさまがおでかけしたの、しってる?」
「はい、今朝出発されたと聞きました」
「ディートリヒさまがでかけるまえに、だれかとおはなししてなかった? おてがみかいてなかった?」
ナターシャは少し考えてから答えた。
「昨日の夕方、ディートリヒ様が自室で手紙を書いているのを見ました。廊下を掃除していた時に、扉が少し開いていて」
「おてがみのふうろう、みえた?」
「ふうろう……封蝋ですか? はい、赤い蝋で封をしていました。紋章は……お屋敷のものとは違いました」
セレスティアの心拍が上がった。
公爵家の封蝋は青い蝋に鷲の紋章。赤い蝋に別の紋章ということは、外部の誰かに宛てた手紙だ。
「その紋章、どんなかたちだった?」
「えっと……細かいところは分からなかったんですけど、盾の中に蛇みたいな模様が……」
蛇。盾に蛇。
ガルニエ家の紋章だ。宰相家。盾の中に二匹の蛇が絡み合うデザイン。
前世で一度だけ、その男の顔を見た。法廷だった。白髪。六十代。目が動かない。判決が読み上げられる間、その男はただ座っていた。満足も怒りも見せない顔で。ただ確認するように。
あの目が、今も公爵家を見ている。何年も前から。
確定した。
ディートリヒは宰相家に手紙を書き、それを持って王都に向かった。手紙の内容は十中八九、聖魔力の覚醒報告。
「ナターシャ、ありがとう。これ、ないしょだよ」
「はい、お嬢様。誰にも言いません」
ナターシャは真面目な顔で頷いた。この子の忠誠心は本物だ。
だが情報が分かっても、ディートリヒは既に王都に向かっている。手紙を止める手段はない。
セレスティアは考えた。
ディートリヒの不在は二、三日。あの男が王都に行っている間、部屋は無人だ。証拠を探すなら今しかない。
だが三歳の身体で、大人の部屋に忍び込むのは困難だ。そもそも見つかれば言い訳が利かない。
誰かの力を借りなければ。
ヘルマン? 公爵の命令で監視を始めているが、部屋の捜索まで踏み込んでいるかは分からない。
フェリクス? 学者の兄は直接的な行動は苦手だ。
ならば――
セレスティアの目がナターシャに向いた。
ナターシャ。侍女。屋敷中を掃除で回る。ディートリヒの部屋の清掃も侍女の仕事だ。
「ナターシャ」
「はい」
「ディートリヒさまのおへや、おそうじするのはだれ?」
「交代制です。今週は……私の担当だと思います」
「ナターシャ、おそうじのときに、ディートリヒさまのおへやで、おてがみとか、かわったもの、みつけたらおしえて」
ナターシャの顔が少し強張った。他人の部屋を探るということの意味を、十二歳なりに理解している。
「それは……覗き見になりませんか?」
「おそうじしてたらめにはいった、でいいの。わざわざさがさなくていい。ただ、みえたものをおしえて」
ナターシャは少し考えてから頷いた。
「分かりました。お掃除の時に気づいたことを、お嬢様にお伝えします」
「ありがとう、ナターシャ。だいすき」
ナターシャの顔が明るくなった。「私もお嬢様が大好きです」
◇
翌日。ナターシャがディートリヒの部屋の清掃を行った。
夕方、セレスティアの部屋に報告に来たナターシャの顔は青ざめていた。
「お嬢様、見つけました」
「なにを?」
「机の引き出しに、封蝋付きの手紙がありました。何通も。全部、赤い蝋で、蛇の紋章です」
何通も。定期的に往復していた手紙だ。
「それから、引き出しの奥に、小さな帳簿みたいなものがありました。数字がたくさん書いてあって……私には読めなかったんですけど」
帳簿。ディートリヒが管理する金の流れの記録か。あるいは宰相派との取引の記録か。
「おてがみのなかみ、よめた?」
「いえ、封がしてあったので開けられませんでした。でも一通だけ、封がされていないのがありました。書きかけみたいで」
「なにがかいてあった?」
ナターシャは記憶を辿るように目を閉じた。
「全部は読めませんでしたが……『令嬢の異常な覚醒について至急報告』……と書いてありました。あと、『聖』という字が見えた気がします」
セレスティアの血が凍った。
書きかけの手紙。聖魔力についての報告書。ディートリヒは出発前にもう一通の報告書を書いていた。書き上げる前に出発したのか、あるいは下書きを残したのか。
いずれにせよ、証拠が部屋にある。
だが引き出しの中の手紙を持ち出すわけにはいかない。ナターシャが盗んだと疑われれば、ナターシャが危険に晒される。
別の方法で、この証拠を公爵の目に触れさせなければ。
セレスティアの頭脳がフル回転する。
フェリクスだ。
フェリクスを使って、「偶然」ディートリヒの部屋で証拠を発見させる。
前にも同じ手を使った。フェリクスを「宝探しごっこ」に誘って、ディートリヒの部屋に導いた。
だが同じ手は二度は使えない。フェリクスは聡明だ。偶然が二度続けば疑う。
ならば偶然ではなく、必然として。
セレスティアはヘルマンのことを思い出した。
公爵がヘルマンにディートリヒの監視を命じている。ヘルマンがディートリヒの部屋を調べるのは、公爵の命令の範囲内だ。
ヘルマンに情報を伝えればいい。
「ディートリヒの引き出しに宰相家の封蝋の手紙がある」と。
だが三歳の子供がその情報をどうやって知ったかが問題だ。
「ナターシャがおそうじしてたらみえた」で通るか?
……通る。
ナターシャは侍女だ。清掃中に引き出しが開いていて、中身が見えた。それを主人であるセレスティアに報告した。そしてセレスティアがヘルマンに伝えた。
不自然ではない。多少強引だが、三歳児の行動として許容範囲だ。
明日、ヘルマンに伝える。
セレスティアは静かに深呼吸した。三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
心を鎮める。焦るな。一手ずつ。
ディートリヒが王都から戻る前に、証拠を公爵の手に渡す。
そうすれば、全てが動く。
窓の外は夕闇に染まりつつあった。
ディートリヒが王都で何を話しているか、セレスティアには分からない。
宰相の手足はこの男一人ではない。王都に網がある。官僚、商人、そして——王宮の中にも。
前世で宰相の傍に少年がいた。第二王子。側室の子。名はルシアン。宰相の薫陶を受けて育てられた少年。
今はまだ幼い。だが宰相は、その少年を何かに育てようとしているはずだ。
だが公爵家の中では、確実に包囲網が狭まっている。
裏切り者の時間は、残り少ない。




