聖魔力の意味
フェリクスの「研究室」は、書庫の一角に実験器具を並べただけの場所だった。そこでセレスティアは兄の前に座っていた。
「手を出して」
フェリクスが差し出した薄い水晶板に、セレスティアは小さな手を乗せた。
水晶板はフェリクスが師のヨハンから借りた魔力測定器具だ。魔力の属性と強度を視覚化する。
手を乗せた瞬間、水晶が光り始めた。
白い光。眩しいほどの純白。光属性の証。
だがその白の中に、黒い糸が絡みついている。闇属性。白い光を侵食するのではなく、共存している。互いに反発しながらも、一つの器の中で均衡を保っている。
「……すごいな」
フェリクスの呟き。学者の目が純粋な驚嘆に輝いている。
「光と闇の完全な共存。教科書では理論上の存在とされていた。少なくとも、僕は実物を初めて見た」
「おにいさま、これ、あぶない?」
「正直に言えば、危険だ」
フェリクスは眼鏡を押し上げ、慎重に言葉を選んだ。
「聖魔力は二つの相反する力が一つの身体に宿っている状態だ。光と闇は本来反発する。磁石のN極とN極を無理に近づけるようなものだ。普通なら身体が耐えられない」
「でもわたしはたえてる」
「ああ。それがセレスティアの特異性だ。何らかの理由で、お前の身体は光と闇を同時に保持できる構造になっている。だが――」
フェリクスが言葉を切った。
「制御できなければ暴走する。昨日の野犬の時のように、恐怖や怒りが引き金になって、力が一気に解放される。あの時の破壊力は……もし屋内で発動していたら、部屋ごと吹き飛んでいた」
セレスティアは自分の手を見つめた。
前世の記憶が蘇る。十歳の時の暴走事故。学園の演習場で、魔力制御の訓練中に感情が不安定になり、聖魔力が暴走した。演習場の魔力炉を破壊し、壁を吹き飛ばし、周囲の十数人を負傷させた。
あの時も恐怖が引き金だった。他の生徒たちの視線が怖かった。「異常者」と囁かれるのが怖かった。恐怖が暴走を呼び、暴走がさらなる恐怖を呼ぶ悪循環。
今世では同じ轍を踏まない。
「おにいさま、せいぎょできるようになりたい」
「……三歳で魔力制御を始めた例は聞いたことがない。通常は八歳以降だ」
「でも、もうめざめちゃった」
フェリクスは苦笑した。「それはそうだ」
兄は暫く考え込んだ後、一つの本を棚から取り出した。
「魔力制御の基礎理論。これは通常の単一属性保有者向けだが、原理は同じだ。まず呼吸法から始める」
「こきゅうで、まりょくをおさえるの?」
「魔力は感情に反応する。特に恐怖と怒り。呼吸を制御することで感情を鎮め、魔力の暴走を防ぐ。これが第一歩だ」
呼吸法。前世でも深呼吸そのものは知っていた。だが呼吸の長さを一定にし、感情の波と魔力の波を同時に鎮める方法として教わったことはない。恐怖に飲まれそうな時にも、自分を取り戻す助けになる。一石二鳥だ。
「やる。おしえて、おにいさま」
◇
フェリクスが教えてくれた呼吸法は、シンプルだった。単純だからこそ、前世で誰にも教えられなかったことが悔しかった。
四秒吸う。四秒止める。四秒吐く。四秒止める。
これを繰り返す。
だが三歳の肺には四秒の吸気が難しかった。三秒で苦しくなる。
「無理するな。最初は三秒でいい。少しずつ伸ばせばいい」
フェリクスは忍耐強い教師だった。学者気質の人間は、根気がある。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
その呼吸を、何度も繰り返した。
十分後、セレスティアは自分の中の力が僅かに鎮まるのを感じた。胸の奥で蠢いていた光と闇の渦が、息をひそめるように静まる。力が消えたのではない。自分の呼吸に歩調を合わせた。前世の八年間、一度も得られなかった感覚だった。
「いいぞ。その調子だ」
フェリクスが水晶板を再び差し出した。手を乗せる。
今度は光が穏やかだった。先ほどのような眩しさはない。柔らかな白い光と、静かな黒い影。共存している。戦っていない。
「呼吸で魔力の波動が安定する。感情が穏やかなら、魔力も穏やかだ。逆に感情が乱れれば魔力も乱れる。セレスティア、魔力を制御するには、まず心を制御する必要がある」
心の制御。
それが最も難しいことを、セレスティアは知っている。
断頭台の記憶。不意に蘇る刃の冷たさ。身体を縛る恐怖。
これらを制御できなければ、聖魔力は暴走する。
「おにいさま、わたし、まいばんこわいゆめをみるの」
フェリクスの手が止まった。
「知っている。マルガレーテから聞いた」
「ゆめをみると、こころがぐちゃぐちゃになるの。そうすると、このちからもぐちゃぐちゃになる?」
「……可能性は高い。だからこそ、呼吸法を毎日練習しろ。悪夢を見た時も、呼吸で自分を取り戻す。それが魔力制御の第一歩だ」
セレスティアは頷いた。
毎日練習する。呼吸法。瞑想。感情の制御。
三歳の身体でできることは限られるが、やらなければならない。
前世では、覚醒から処刑まで八年間も聖魔力を抱えていた。それでも師はいなかった。暴走事故の後に命じられたのは、力を使わず、感情を乱さず、存在そのものを小さくすることだけ。独学で押さえ込もうとしても、光と闇を意志で整える方法までは辿り着けなかった。
今世にはフェリクスがいる。そしてこれからも、きっと力を貸してくれる師を見つけられる。
一人で抱え込まない。助けを借りる。
それが前世との最大の違いだ。
◇
夕方。フェリクスが父の書斎に報告に行った後、セレスティアはマルガレーテとナターシャに付き添われて庭へ出た。二人は、すぐ声の届くところから見守ってくれている。
花壇の傍に腰を下ろした。昨日、聖魔力で半壊した花壇は、既に使用人たちが修復を始めている。だがまだ土が露出している部分がある。
セレスティアは手のひらを花壇に向けた。
意識を集中する。胸の奥にある「それ」に触れる。
光と闇。二つの力。
怖い。
昨日のように暴走したら。人を傷つけたら。
呼吸法。三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
恐怖は完全には消えなかったが、確かに鎮まっていった。
手のひらから、微かな光が漏れた。
温かい光。白くて、柔らかい。昨日のような爆発的な力ではない。蝋燭の灯りのような、小さな光。
光が花壇の土に触れた。
何が起きるか分からなかった。前世で許されたのは、石造りの演習室で出力を測ることと、力を押さえ込むことだけだった。生きた植物へ光を向けたことは、一度もない。だが――
土の中から、小さな緑の芽が顔を出した。昨日の暴走で散った花の種が、聖魔力の光を受けて発芽したのだ。芽は夕日の中で茎を伸ばし、やがて小さな白い花を開いた。
セレスティアは目を見開いた。八年間も自分の中にあった力の、知らなかった顔だった。
破壊だけではない。この力は、生み出すこともできる。
小さな花が、夕日の中で震えるように揺れていた。
セレスティアの目に涙が浮かんだ。
前世では、この力は「脅威」でしかなかった。覚醒してから処刑されるまで、周囲も、セレスティア自身も、そう信じていた。
いや、正確には違う。
光の力を持ちながら、「脅威」ではなく「光の乙女」と呼ばれた者がいた。前世に。光の属性だけを持ち、民に祈りを捧げ、教会に擁立された少女。彼女が「聖女」と呼ばれた時、セレスティアは「危険な魔力の保有者」と呼ばれた。
同じ力の、別の使われ方。あるいは、同じ力ではなかったのかもしれない。
その少女の名を、セレスティアは思い出せない。顔も覚えていない。覚えているのは呼び名だけだ。聖女。
周囲を怯えさせ、排除の口実にされ、最後は処刑の理由の一つになった。
だが本来、聖魔力は破壊だけの力ではない。
光と闇の共存。相反するものが調和する力。
壊すこともできるが、育てることもできる。
この力を正しく使えば。
国を変えることもできるかもしれない。
セレスティアは小さな花に触れた。柔らかな花弁。生命の感触。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
花に。力に。あるいは、もう一度生きるチャンスをくれた、何かに。
マルガレーテが近づいてきた。
「お嬢様、そろそろお部屋に戻りましょう」
「うん。マルガレーテ、みて。おはながさいたよ」
「まあ、本当。小さなお花ですね」
マルガレーテは花壇の小さな花を見て微笑んだ。
それがセレスティアの聖魔力で咲いた花だとは知らない。
知らなくていい。
ただ、花が咲いた。それだけでいい。
セレスティアはマルガレーテの手を握り、屋敷に戻った。
背後で小さな花が、夕日の最後の光を浴びて輝いていた。




