魔力の片鱗
その日は、よく晴れていた。
パニック発作から五日が経ち、セレスティアは庭に出ることを再開していた。マルガレーテに手を引かれ、花壇の傍を歩く。春の日差しは柔らかく、風は穏やかで、世界は何事もなかったかのように平穏だった。
ナターシャも一緒だった。最近は三人で庭を散歩するのが日課になっている。ナターシャは花の名前を覚え始めており、セレスティアに「これはチューリップです、お嬢様」と得意げに教えてくれる。
「ナターシャ、それはパンジーだよ」
「えっ、パ、パンジー? すみません間違えました!」
マルガレーテが笑う。セレスティアも笑う。穏やかな時間。
だがその穏やかさは、突然破られた。
最初に気づいたのはナターシャだった。
「……お嬢様、何かいます」
ナターシャの声が強張っている。指差す先を見ると、生垣の隙間から灰色の影が覗いていた。
犬だ。
大型の野犬。痩せこけた体躯に、むき出しの牙。涎が垂れている。目は血走り、異常な興奮状態にあることが一目で分かった。
狂犬病か、あるいは単なる飢え。いずれにせよ危険だ。
公爵邸の庭は広大で、外周の柵は完全ではない。野犬が紛れ込むことは稀だが、皆無ではなかった。
「お嬢様、動かないでください」
マルガレーテがセレスティアの前に立ち、ナターシャを庇うように手を広げた。
だが野犬は三人を見て、唸り声を上げた。低い、地の底から響くような唸り。
そして突進してきた。
三歳のセレスティアには逃げる足がない。マルガレーテが抱き上げて走る時間もない。野犬の速度は人間より遥かに速い。
マルガレーテが叫んだ。「誰か! 誰か来て!」
ナターシャは腰を抜かして動けない。
野犬が距離を詰める。五メートル。三メートル。一メートル。
牙が見える。唾液が飛ぶ。獣の息が顔にかかる。
恐怖。
また恐怖だ。五日前の発作の記憶が蘇る。
だが今度は違う。あの時はフラッシュバックだった。今は現実の脅威だ。
殺される。
三歳の身体が、一瞬で認識した。
このまま何もしなければ、自分かマルガレーテかナターシャが――あるいは三人とも――噛み殺される。
恐怖が身体を貫いた。
だが恐怖の奥底から、別の何かが湧き上がった。
熱い。
身体の中心で、何かが燃えている。
胸の奥。いや、もっと深い場所。魂の根元のような場所から、灼熱の奔流が溢れ出す。
手が動いた。
意図したわけではない。反射だった。
三歳の小さな手が、迫り来る野犬に向かって突き出された。
光。
手のひらから白い光が放たれた。
いや、白だけではない。光の中に黒い筋が混じっている。白と黒が螺旋を描いて絡み合い、圧縮された光弾となって野犬を直撃した。
衝撃。
爆発的な力が野犬を吹き飛ばした。獣の身体が宙を舞い、十メートル先の生垣に叩きつけられた。同時に、光弾の余波が周囲に広がり、花壇が半壊した。土と花びらが舞い上がる。
衝撃波がマルガレーテとナターシャを後ろによろめかせた。
静寂が落ちた。
花壇は抉れ、土が露出している。生垣の一部が焼け焦げている。野犬は吹き飛ばされた先で動かない。気絶しているのか、死んでいるのか。
セレスティアは手のひらを見つめていた。
震えている。だが先ほどまでの恐怖の震えとは違う。
身体の中を駆け抜けた力の残滓が、指先でまだ明滅している。白い光と、黒い影。交互に瞬いて、やがて消えた。
魔力。
これが魔力。
聖魔力。
前世では十歳で覚醒した。だが今世では三歳で。
恐怖が引き金を引いた。命の危機が、封じられていた力の蓋を吹き飛ばした。
「お、お嬢様……」
マルガレーテの声が震えている。目が大きく見開かれている。
ナターシャは地面に座り込んだまま、セレスティアの手を凝視していた。
「今のは……何……?」
セレスティアは答えられなかった。自分でも制御できていなかった。反射的に出た力。方向も強さも制御の外だった。
もし野犬ではなくマルガレーテに向かって放っていたら。
もし力がもっと強かったら。
ぞっとした。
足音が聞こえた。大勢の足音。騒ぎを聞きつけた使用人たちが駆けつけてくる。
そして――
「セレスティア!」
フェリクスが走ってきた。書庫から飛び出してきたのだろう、本を片手に持ったまま。眼鏡がずれている。
フェリクスはセレスティアの前に跪き、手を取った。残留する魔力の波動を感じ取ったのだろう、目が見開かれた。
「……聖魔力?」
呟き。だがセレスティアの耳には聞こえた。
「おにいさま……」
「大丈夫か。怪我はないか」
「ない。でも……てがへん」
手のひらがまだ熱い。微かに光っている。
フェリクスはセレスティアの手を両手で包み込んだ。学者の手。繊細で冷たい手。その冷たさが、暴走した魔力の熱を鎮めてくれた。
「落ち着け。深呼吸しろ。ゆっくり」
フェリクスの声に従い、息を吸い、吐く。繰り返す。
やがて手の光が消えた。熱も引いた。
だがセレスティアの胸の奥には、まだ「それ」がいた。
光と闇。二つの力。相反する属性が、一つの身体の中で共存している。
前世でもそうだった。十歳で覚醒し、制御できずに暴走した。王宮の演習場で魔力炉を破壊し、多数の負傷者を出した。
あの暴走事故が、セレスティアを「危険人物」とするレッテルの始まりだった。
今世で同じことを繰り返すわけにはいかない。
◇
夜。公爵家の緊急会議。
公爵の書斎に、ライナルト、フェリクス、ヘルマンが集まった。エドヴァルトは既に騎士修行先に戻っている。
フェリクスが報告した。
「セレスティアの魔力を検査しました。光属性と闇属性の共存。聖魔力です。魔力量は……測定限界を超えています」
書斎が静まり返った。
ヘルマンが最初に口を開いた。「聖魔力。五百年に一人の……」
「はい。歴史上、聖魔力保有者が現れた時、世界は変わっています。良くも悪くも」
フェリクスは一瞬だけ視線を下げた。
「文献が三件あります。過去の聖魔力保有者の記録です。一人は王家に取り込まれ、生涯を王宮の奥で過ごしました。一人は教会の保護という名目で——外に出ることが許されなかった。そして一人は」
フェリクスが言葉を切った。
「民に討たれています。力そのものへの恐怖によって」
フェリクスは少し間を置いた。
「最も記録が詳しく残っているのは、その三人目です。三百年前の保有者。エリーゼという名前だけが伝わっています。詳細の多くは散逸していますが」
書斎が静まり返った。
フェリクスの声は冷静だったが、目は動揺を隠せていなかった。
公爵は沈黙していた。長い沈黙の後、低い声で言った。
「この情報が外に漏れれば、セレスティアは王家に回収されるか、宰相に排除される。どちらにせよ、娘は失われる」
「聖魔力のことは、この部屋の中だけの秘密にしなければなりません」
フェリクスが言った。公爵が頷いた。
「ヘルマン」
「はい、閣下」
「聖魔力のことは家中の最高機密とする。知っているのはこの部屋の三人と、マルガレーテ、ナターシャのみだ。五人以外には一切漏らすな」
「命に代えてもお守りします」
ヘルマンの言葉は決意そのものだった。老騎士の目に、鋼の光が宿っている。
だがセレスティアは知っている。
この部屋にはもう一人、知っている人間がいるべきだった。
否、知っている人間が既にいた。
ディートリヒ。
薬の件で既に公爵家に「異変」があることを知っている男。そして宰相に情報を流す男。
聖魔力の情報は、既に危険に晒されている。
セレスティアは自室のベッドの中で、拳を握りしめた。
ディートリヒの排除を急がなければならない。
あの男が聖魔力のことを知れば、即座に宰相に報告する。
そうなれば全てが終わる。
時間がない。
三歳の手で、急がなければならない。
窓の外に月が出ていた。満月。
白い月光が部屋に差し込み、セレスティアの小さな手を照らしている。
その手のひらで、数時間前、光と闇が渦巻いた。
五百年に一人の力。世界を変える力。あるいは世界を滅ぼす力。
制御しなければ。
この力を味方につけなければ。
前世のように暴走させてはならない。
セレスティアは手のひらを見つめた。
そして静かに握りしめた。
この手で世界を変える。
そのためにまず、この手を制御する。




