父の疑念
ライナルト・フォン・アルヴェインは、書斎で一人だった。
深夜。燭台の灯りだけが揺れる薄暗い部屋。樫材の机の上には書類が山積みだが、公爵の手は止まっている。ペンは置かれたまま、視線は書類を離れて虚空に向いていた。
娘のことを考えていた。
セレスティア。三歳の末娘。
数週間前から、この子が変わった。
以前のセレスティアを、ライナルトはほとんど見ていなかった。病弱な妻から生まれた、静かで目立たない末娘。食事の席で偶然目が合っても、すぐに俯いてしまう子だった。公爵邸の廊下を歩いていても、壁に溶け込むように気配を消していた。一度だけ、庭で転んで膝を擦りむいているのを見かけた。泣かなかった。マルガレーテが来るまで、一人で石畳に座っていた。声を上げて助けを呼ぼうとしなかった。三歳の子供が、なぜ声を上げないのか。ライナルトはその横を通り過ぎた。立ち止まらなかった。仕事があった。当時は気に留めなかった。今になって、気になる。
それが突然、変わった。
父に話しかけ、書庫に通い、母の薬に疑問を呈し始めた。灌漑と作物の関係を理解し、薬の苦味から毒の可能性を疑い、処方箋の出所について「王都の誰が決めているのか」と質問した。三歳の言動ではない。三歳の範囲を明らかに越えている。
それだけではない。特定の刺激に過敏な反応を示す。金属音にすくみ、首への接触を嫌がる。今日は見知らぬ男の顔を見ただけで、呼吸を乱して倒れた。「首を切る人の顔に似ていた」と言った。毎晩、首を切られる夢を見ている。マルガレーテから、何度も同じ報告が上がっていた。
ライナルトは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
三歳の子供が、「首を切られる」恐怖を抱えている。体験のない恐怖を、これほど生々しく抱くはずがない。だが三歳の娘が処刑台を知っているはずもない。天才児という説明だけでは足りなかった。知識がどれほど早熟であっても、体験のない感覚まで持てるとは思えない。
ならば、この子は「首を切られること」を知っている。どこかで。どうにかして。
もう一点、引っかかっていることがある。セレスティアが「変わった」のは、ある朝突然だった。マルガレーテの報告によれば、ある朝、叫び声を上げて目覚めた。それ以来、全てが変わった。まるで別人になったかのように。
いや。別人ではない。だが「何か」が加わった。三歳の娘に、三歳では持ち得ないはずの「何か」が。
セレスティアの中に、まだ確認されていない魔力の異常があるのかもしれない。魔力学の概説には、特殊な複合属性や聖魔力が記憶・時間に干渉するという理論もある。ライナルトの専門外だ。政治と軍事の人間だ。だが調べる価値はある。
ライナルトはペンを取り、一通の手紙を書き始めた。
宛先は魔力学者ヨハン。フェリクスの師。聖魔力の研究で知られる学者。
「ヨハン殿。一つお聞きしたい。幼児に、年齢に合わぬ記憶や知識が突然発現した事例はあるか。聖魔力、あるいは特殊な複合属性との関連も含め、学術的見地からご教示いただきたい」
書いて、読み返した。短い文だ。だが余計なことは書かない。書きすぎた手紙は、情報を渡しすぎる。封をして、脇に置いた。明日、信頼できる使者に持たせて送る。
◇
手紙を書き終えた後も、ライナルトは書斎から動かなかった。
今日の光景が、頭から離れない。
廊下で倒れたセレスティアを抱き上げた時のことを考えている。軽かった。三歳の身体はひどく軽かった。震えていた。息が乱れていた。それでも、腕の中でライナルトを見上げた。その目が、ずっと引っかかっている。
恐怖に満ちていたが、それでも逸らさなかった。折れなかった。
あの目は子供の目ではなかった。戦場で死を見た兵士の目に似ていた。何度も死にかけ、それでも生き延びた者の目。ライナルトは若い頃、国境紛争で前線に立ったことがある。そこで見た兵士たちを覚えている。最初の戦場を越えた者と、越えていない者では、目の色が変わる。越えた者の目には、恐怖とは別の何かが宿る。恐怖を知った上で、まだ前を向いている者の目だ。その目を持つ者は例外なく、何かを失っていた。失ったものと引き換えに、それを手に入れていた。
あの三歳の娘の目に、同じものがあった。何を失ったのか。何と引き換えに、あの目を得たのか。
ベッドに運ばれてから、「ごめんなさい、おさわがせして」と言った。三歳児が、そんな言い方をするだろうか。まるで、大人が子供の振りをしているかのようだった。
何があったのか。この子に何が起きたのか。
問い詰めることを考えた。が、すぐに捨てた。この子は聡明だ。話すべきことと話すべきでないことの線引きを、三歳にして心得ている。無理に聞き出せば、信頼を失うだけだ。それに、もしセレスティアの異常さの原因が公になれば、公爵家は政治的に致命傷を負う。「公爵の娘は魔物に憑かれた」という噂だけで、家は傾く。宰相派が聞けば、格好の攻撃材料になる。
知らない振りをする。娘が何を抱えていようと、公爵は娘を守る。それが今のライナルトにできる最善だ。
燭台の炎が揺れた。廊下を通る使用人の気配が、遠くを流れて消えた。書斎はまた静かになった。
◇
翌朝の朝食で、ライナルトは珍しく娘に目を向けた。
セレスティアは昨日の発作の名残か、顔色が悪い。だがスプーンを持つ手は安定しており、パン粥を食べる様子に異常はない。食べる速度が遅い。ひと口ひと口、丁寧に。三歳の子供の食べ方ではなく、何かを考えながら食べている人間の食べ方だ。マルガレーテが傍に付き添っている。いつもより距離が近い。
食堂の空気は平静だった。妻はまだ食堂に姿を見せていない。次男フェリクスは書類を読みながら食事をし、時折視線を上げてセレスティアを確認していた。兄妹の間に何か共有されているものがある。ライナルトはその視線に気づいていたが、何も言わなかった。長男エドヴァルトだけが、いつものように他愛のない話で場を和ませようとしていた。その声が遠く聞こえた。
「セレスティア」
公爵が声をかけると、食堂の空気がわずかに張った。
「はい、おとうさま」
「今日は天気がいい。庭に出るといい」
「……はい」
交わしたのは、それだけだった。セレスティアは何かに気づいたように一瞬だけ父を見て、それから目を伏せた。
食事を終え、書斎に戻る途中、ライナルトはヘルマンを呼んだ。
「セレスティアの護衛を強化しろ。常に誰かを傍に置け」
「承知しました。何かございましたか」
「いや。ただの予防だ」
嘘だ。予防ではない。娘に何かが起きている。何が起きているかは分からない。だが放置できない。
「それから、ヘルマン」
「はい」
「ディートリヒの行動を記録しろ。外出先、接触者、全てだ」
ヘルマンの目が鋭くなった。
「ディートリヒ殿を……ですか」
「疑っているわけではない。全家臣の行動を把握するのは、筆頭家臣の職務だろう」
体裁を整えた命令だが、ヘルマンは意味を理解した。長年この公爵に仕えた老騎士は、言葉の裏を読むことを知っている。
「承知しました」
ヘルマンは一礼して去った。その背中を見送りながら、ライナルトは呟いた。
「この子は公爵家の未来だ。誰にも触れさせん」
書斎の扉が閉じる。公爵は再び書類に向かったが、ペンを持つ手に力がこもっていた。
もう娘を見失わない。もう娘を一人にしない。
たとえ全てを理解できなくても。たとえ娘が何を隠していても。
父であることを、今度こそ諦めない。




