初めての恐慌
その日、公爵邸に来客があった。
セレスティアが異変に気づいたのは、朝礼の後だった。ヘルマンが使用人たちに慌ただしく指示を出している。客間の準備。馬房の手配。食事の用意。
「おきゃくさま?」
マルガレーテに聞くと、「王都から視察の方がいらっしゃるそうですよ」と教えてくれた。
王都からの視察。
セレスティアの背筋に冷たいものが走った。
「だれがくるの?」
「宰相府の方だそうです。領地の状況を確認するための定期視察とか」
宰相府。宰相派の人間が公爵邸に来る。
前世の記憶を辿る。宰相派の定期視察。確かにあった。年に一度、宰相府の役人が各領地を回り、状況を報告する制度。表向きは行政監査だが、実態は宰相派の情報収集だ。
セレスティアは即座に判断した。この視察には絶対に顔を出さない方がいい。宰相派の人間にセレスティアの存在を強く印象づけたくない。三歳の子供が聡明すぎることを察知されれば、宰相に報告される。
だがその判断は、実行されなかった。
◇
午前十時。視察団が到着した。
馬車三台。護衛の兵士が六人。そして視察の責任者を含む役人が四人。
セレスティアは自室にいるつもりだった。マルガレーテに「今日はおへやであそぶ」と伝え、積み木とフェリクスから借りた絵本で時間を潰す予定だった。
だが偶然は起こる。
昼食の時間、セレスティアは食堂に向かう途中で廊下を歩いていた。マルガレーテが一瞬目を離した隙に、角を曲がったところで――
ぶつかった。
正確には、ぶつかりそうになった。三歳の身体はよろめいて尻もちをついただけだ。
見上げた先に、男が立っていた。
四十代半ばの痩身の男。灰色の髪を短く刈り込み、鋭い目をしている。宰相府の紋章が刺繍された外套を羽織っている。視察団の一人だ。
男がセレスティアを見下ろした。
その瞬間、世界が凍った。
男の顔。
痩せた顔。鋭い目。薄い唇。
この顔を、知っている。
いや、正確には「似ている」。
この男は処刑執行人クルトではない。年齢も体格も違う。
だが――顔の輪郭が。目の形が。口元が。
あの日、断頭台の上から見上げた処刑執行人の顔と、重なる。
脳が誤認した。
理性は「別人だ」と言っている。だが身体が、記憶が、トラウマが、それを受け入れない。
首に冷たい感触が蘇った。
金属が皮膚に触れる、あの一瞬の冷たさ。
刃が落ちる音。重い、鋭い、世界を断ち切る音。
視界が白くなった。
「――っ」
声が出なかった。叫びたいのに声が出ない。
代わりに身体が勝手に動いた。
震え始めた。全身が。制御不能の震え。
歯がガチガチと鳴っている。呼吸が速くなる。浅い。吸えない。空気が入ってこない。
過呼吸。
三歳の小さな肺が、パニックに対処できない。酸素が足りない。視界が暗くなる。
「お嬢様? お嬢様!」
マルガレーテの声が遠くから聞こえる。
だが聞こえない。何も聞こえない。
頭の中を満たしているのは、刃の音と群衆の声と、断頭台の木の匂い。
セレスティアは床に崩れ落ちた。
小さな身体が丸まる。胎児のように。
両手で首を押さえ、震えながら、声にならない叫びを上げている。
失禁した。
三歳の身体は膀胱の制御も未熟だ。恐怖の衝撃に、身体が最も原始的な反応を示した。
温かいものが脚を伝う感覚。
恥辱。だが恥辱を感じる余裕すらない。意識の大部分が過去に飲み込まれている。
「お嬢様! お嬢様! しっかり!」
マルガレーテが駆け寄り、セレスティアを抱き上げた。
視察団の男は呆然と立ち尽くしていた。突然幼児が倒れて痙攣し始めたのだ。驚くのは当然だ。
「何事だ」
声がした。低い、鋭い声。
公爵ライナルトが廊下の向こうから歩いてきた。視察団を案内する途中だったのだろう。セレスティアの異変に気づき、足早に近寄る。
「セレスティアに何があった」
マルガレーテが涙声で答える。「分かりません、急に震え出して……」
公爵はセレスティアを見下ろした。
丸まった小さな身体。首を押さえる手。開いたまま焦点の合わない目。
公爵の顔色が変わった。
「医師を呼べ。客人には先に食堂へ案内しろ」
的確な指示。感情を制御された声。だがその下に隠された動揺を、セレスティアは――意識の片隅で――感じ取っていた。
◇
セレスティアが意識を取り戻したのは、自室のベッドの上だった。
どれくらい時間が経ったか分からない。窓の外は午後の光。数時間は経っているようだ。
身体は着替えさせてもらっていた。マルガレーテだろう。清潔な寝間着に包まれている。
だが身体はまだ震えていた。微かに。断続的に。
首に手を当てる。繋がっている。大丈夫。繋がっている。
「お嬢様」
マルガレーテの声。ベッドの横に座っている。目が真っ赤だ。泣いていたのだろう。
「……マルガレーテ」
声が掠れている。喉が痛い。叫んでいたのかもしれない。覚えていない。
「大丈夫ですよ。もう大丈夫ですからね」
マルガレーテの手がセレスティアの手を握る。温かい。
扉が開いた。
公爵が入ってきた。
「ローレンツは何と言った」
マルガレーテに向けた言葉だ。
「ローレンツ先生は、原因不明の発作だと。身体には異常がないと。精神的なものではないかと……」
公爵はセレスティアの傍に来た。ベッドの横に立ち、小さな娘を見下ろす。
セレスティアは父の目を見上げた。
恐怖が残っている。まだ震えている。だが父の目を見て、少しだけ楽になった。
公爵はしゃがみ込んだ。目線をセレスティアに合わせて。
この男がしゃがむところを見たのは、数えるほどしかない。
「セレスティア。何があった。何を見た」
静かな声。だが強制ではない。聞いているのだ。本当に知りたくて。
セレスティアは震える唇で答えた。
「……あのひとのかお」
「視察団の男か」
「かおが……こわかった。くびをきるひとのかおに……にてた」
首を切る人。処刑執行人。
三歳の子供がそんな概念を知っているはずがない。
公爵の目が鋭くなった。
「首を切る人間の顔を、お前は知っているのか」
言いすぎた。
だがもう遅い。パニック状態で口を滑らせてしまった。
セレスティアは必死に取り繕った。
「ゆめ。まいばんみるこわいゆめ。くびをきられるゆめ。あのひとのかおが、ゆめのひとににてた」
嘘ではない。毎晩悪夢を見ているのは事実だ。その夢の中の処刑執行人の顔が、あの男に似ていたのも事実だ。
だが「夢」で説明がつくか。三歳の子供が毎晩「首を切られる夢」を見る。そしてそれに似た顔を見てパニック発作を起こす。
普通ではない。明らかに普通ではない。
公爵は長い間、セレスティアの顔を見つめていた。
そしてゆっくりと手を伸ばし、セレスティアの頭に触れた。
大きな手。硬い手。だがその手は震えていた。微かに。
「……もう大丈夫だ。あの男は帰す。二度とこの屋敷には入れない」
公爵の声にも、僅かな震えがあった。
この男が震えるところを、セレスティアは前世で一度も見たことがなかった。
冷徹で合理的な政治家。感情を見せない男。
その男が、三歳の娘のパニック発作を見て、震えている。
「おとうさま」
「なんだ」
「ごめんなさい。おさわがせして」
公爵はかぶりを振った。
「お前は何も悪くない」
その言葉は短かったが、重かった。
「お前は何も悪くない」。前世で一度も聞けなかった言葉。
公爵は立ち上がり、部屋を出ていった。
扉が閉まる直前、セレスティアは見た。
公爵が一瞬だけ振り返り、ベッドの上の小さな娘を見たことを。
その目は、もう「無関心」ではなかった。
◇
その夜、セレスティアは暗闇の中で天井を見つめていた。
失態だ。
パニック発作を起こし、失禁し、父に不審な言葉を漏らした。
目立ちすぎた。宰相派の視察団にも印象を残してしまった。「公爵家の令嬢が発作を起こした」という報告は、宰相の耳にも届くかもしれない。
だが同時に、セレスティアは自分の弱さを認識した。
PTSDは消えていない。
クルト。あの日の処刑執行人。あの男も——ただ仕事をしていただけだ。
十八歳の精神は、断頭台の記憶を克服していない。
似た顔を見ただけで崩壊する。この脆弱さは致命的だ。
もし今後、本当に宰相に会ったら?
もし法廷に立つことになったら?
もし断頭台に近づくことがあったら?
そして——アレクシスに会ったら。
前世の法廷で、王太子が座っていた。肘掛けを握る右手の指が、白くなるほど力を込めていた。表情は読めなかった。あの白い指は何のためだったのか、今でも時々考える。敵意ではなかったかもしれない。あるいは——板挟みだったのかもしれない。
分からない。まだ分からない。
その度にパニックを起こしていては、戦えない。
心を鍛えなければ。
身体だけでなく、心も。
セレスティアは小さな拳を握った。
明日からは、少しずつ。
恐怖に慣れる訓練を始める。
金属の音を聞く。刃物を見る。人混みに入る。
少しずつ、少しずつ、恐怖を飼い慣らす。
前世の自分は恐怖に負けた。孤独の中で折れた。
今世は違う。マルガレーテがいる。家族がいる。
恐怖は消えない。だが恐怖と共に生きることはできる。
暗闇の中で、セレスティアは静かに息を吸い、吐いた。
繰り返す。吸う。吐く。吸う。吐く。
呼吸の制御。心を鎮める基本。
やがて震えが止まった。
目を閉じた。
今夜も悪夢を見るだろう。
だが明日の朝、目が覚める。生きている。
それだけで十分だ。今は。




