母の過去
雨の日だった。
春の雨が窓を叩いている。公爵邸の東棟は薄暗く、廊下に並ぶ燭台の灯りだけが頼りだ。
セレスティアは母の部屋にいた。
薬を止めてから三週間。リリアーナの回復は目覚ましかった。顔色は薔薇のように血色を取り戻し、食事の量は倍近くに増え、今では部屋の中を自由に歩き回れるようになっている。
今日は雨で庭に出られない。母と二人、暖炉の前に座っていた。
リリアーナが古い箱を取り出した。木製の小箱。蓋に繊細な彫刻が施してある。薔薇と百合の紋様。
「セレスティア、お母様の宝物を見せてあげるわね」
箱を開けると、中には手紙の束と、一枚の水彩画が入っていた。
水彩画を取り出す。少し色褪せているが、描かれた風景は美しかった。宮殿の庭園。花壇に囲まれた噴水。その前に二人の少女が立っている。金髪の少女と、赤毛の少女。二人とも十五、六歳くらい。笑い合っている。
「これ、お母様が描いたの。左がお母様で、右がエレオノーラ様」
エレオノーラ。現在の王妃。
「おかあさまとおうひさま、おともだちだったの?」
リリアーナは微笑んだ。だがその笑顔の奥に、一抹の寂しさがあった。
「お友達よ。一番のお友達だったわ。王立学院で同級生だったの。お母様は伯爵家の娘で、エレオノーラ様は公爵家の令嬢。身分は少し違ったけれど、二人ともお花が好きで、絵を描くのが好きで、すぐに仲良くなったの」
リリアーナは手紙の束を取り出した。リボンで束ねられた十数通の手紙。
「これはエレオノーラ様からの手紙。学院を卒業してから、毎月お互いに手紙を送り合っていたの」
「まいつき?」
「ええ、毎月。エレオノーラ様は王太子妃候補になって、お母様はお父様と結婚が決まって。離れてしまったけれど、手紙だけは続けていたの」
手紙を一通取り出す。封蝋は王家の紋章。リリアーナはそれを愛おしそうに撫でた。
「でもね、あるときから手紙が届かなくなったの」
セレスティアの耳が鋭くなった。
「とどかなくなった?」
「そう。お母様がセレスティアを身籠もった頃からよ。エレオノーラ様に手紙を出しても、返事が来なくなった。お母様の手紙が届いていないのか、エレオノーラ様が返事を出せないのか、分からなかった」
リリアーナの声が暗くなった。
「お母様は心配したわ。エレオノーラ様に何かあったのかしらって。でもお父様に相談しても、『王宮のことに口を出すな』と言われてしまって」
セレスティアは前世の知識と照合した。
手紙が届かなくなった時期。セレスティアが身籠もった頃。つまり十五年前。宰相ヴィクトールが実権を握り始めた時期と一致する。
宰相は王妃と公爵夫人の繋がりを断った。手紙を検閲し、届かないようにした。
なぜか。
王妃と公爵夫人が連携すれば、宮廷内に強力な反宰相勢力が生まれる。王妃は王家の血筋、公爵夫人は最有力貴族の妻。二人が手を組めば、宰相の権力基盤を揺るがしかねない。
だから引き離した。物理的には離れた場所にいる二人の、唯一の繋がりである手紙を断つことで。
そして母を毒殺しようとした。
母を殺せば、王妃と公爵家の繋がりは永久に消える。
全てが繋がった。
母の毒殺は、単なる公爵家への攻撃ではない。
王妃の孤立化政策の一環だ。
宰相は王妃を孤立させ、王太子の教育を独占し、王家を傀儡にしようとしている。母はそのための「排除対象」だった。
「おかあさま」
「なあに?」
「エレオノーラさまに、もういちどおてがみかいたら?」
リリアーナは首を振った。
「もう何年も返事がないのよ。きっとエレオノーラ様は、お忙しいのだわ。王妃様だもの」
違う。忙しいのではない。手紙が届いていないのだ。
だが今はまだ言えない。宰相の検閲を証明する方法がない。
「おかあさま、いつかエレオノーラさまにあえるといいね」
リリアーナの目が潤んだ。「そうね……いつか」
いつかではない。近いうちに。
五歳になれば王都に行ける。その時に王妃との再会を実現させる。
王妃と母の連携は、宰相包囲網の核になる。
だがそのためにはまず、宰相の検閲網を突破しなければならない。
◇
リリアーナはさらに昔話を続けた。
「学院時代、お母様はね、王太子妃候補の一人だったの」
セレスティアは目を見開いた。これは前世では知らなかった情報だ。
「おかあさまが、おうたいしひこうほ?」
「ええ。お母様の実家は伯爵家で、魔力も水属性と光属性の二重属性だったから。優秀な血筋だと言われたのよ」
二重属性。リリアーナは二重属性の保有者だった。セレスティアの聖魔力は、母からの遺伝の影響もあるのだ。
「でもね、最終的にはエレオノーラ様が王太子妃に選ばれたの。お母様は胸が痛かったけれど、大好きなお友達が王太子妃になるなら嬉しかった。エレオノーラ様も泣いて謝ってくれたのよ。『あなたの方がふさわしかったのに』って」
「おかあさま、かなしくなかった?」
「ほんとうに、少しだけね。でもすぐにお父様と出会ったの。お父様は無口で怖い顔をしているけれど、本当はとても優しい人なのよ」
リリアーナが照れくさそうに笑った。
セレスティアは父の顔を思い浮かべた。あの冷徹な表情の公爵が「優しい」。前世のセレスティアには想像できなかっただろう。だが今世では、少しだけ分かる。あの男は感情を表に出さないだけで、内側では燃えている。
「お父様とエレオノーラ様は、昔は仲が良かったのよ。学院時代の友人同士だったから。お母様とお父様の結婚も、エレオノーラ様が取り持ってくれたの」
公爵と王妃が旧友。これも重要な情報だ。
宰相は公爵と王妃の関係も断とうとした。母を媒介にした二人の繋がりを、母の毒殺で消そうとした。
だが今世では母は生きている。
母を介して、公爵と王妃が再び手を結ぶことができる。
「おかあさま、おとうさまとエレオノーラさまはもうおはなししないの?」
リリアーナは目を伏せてから答えた。
「お父様は王都にはあまり行かなくなったの。お仕事が忙しいのと……少し、王宮と距離を置きたいみたいで」
距離を置いたのではない。宰相に押し出されたのだ。
公爵は宰相の台頭に抗えず、王宮から身を引いた。それが前世の公爵の失策だった。王宮から離れたことで、情報から遮断され、宰相の動きに対応できなくなった。
今世ではそうさせない。
公爵を王宮に引き戻す。母と王妃の再会がその契機になる。
「おかあさま、おげんきになったら、おうとにいこうね」
「王都?」
「うん。エレオノーラさまにあいにいくの。おかあさまとわたしで」
リリアーナの目が輝いた。何年も会えなかった親友との再会。その可能性を示されただけで、母の顔が若返った。
「そうね……お母様が元気になったら、お父様にお願いしてみようかしら」
「おねがいする。おとうさまにわたしからもおねがいする」
リリアーナは微笑んで、セレスティアの頭を撫でた。
「セレスティアは本当にいい子ね。お母様は幸せだわ」
幸せ。
その言葉が、セレスティアの胸を温かく満たした。
前世の母は幸せだっただろうか。
毒に蝕まれ、友人と引き離され、娘と過ごす時間も短く、七歳で死んだ。
幸せだったはずがない。
だが今世では。
今世の母は笑っている。健康を取り戻しつつある。娘と一緒にいる。
そしていつか、親友と再会する。
この笑顔を守る。何があっても。
雨が窓を叩き続けている。
だが部屋の中は暖炉の火で温かく、母の膝の上は世界で一番安全な場所だった。
セレスティアは母の腕の中で目を閉じた。
前世で失った温もりを、今世で取り戻している。
一日分ずつ。少しずつ。
雨音が子守唄のように響いていた。




