神殿との和解
王宮の北に位置する大神殿は、白い石造りの巨大な建物だった。尖塔が空を突き、ステンドグラスが朝日を受けて七色に光っている。
◇
大神官シルヴェストルは七十代で、白い法衣をまとい、長い銀髪を垂らしている。穏やかな顔立ちだが、目の奥には硬い光があった。
大神殿の奥にある応接室では、白い壁に聖典の一節が金で刻まれている。
セレスティアの隣にアネリーゼが座っていた。白い法衣。金色の短い髪。穏やかな目。
「大神官猊下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「アルヴェイン嬢。いや、もう公爵令嬢とだけ呼ぶのは適切ではないな。次期王妃殿下」
「まだ婚約者です」
「形式に拘る必要はない。それで。今日の用件は」
「地脈の衰退について、ご存知ですか」
シルヴェストルの目が僅かに動いた。
「知っている。神殿は、五百年前からそれを観測している」
「五百年」
「地脈の衰退は急に始まったものではない。数百年の蓄積だ。だが近年、特にこの三十年で加速した。宰相の魔力政策の影響だろう」
「では、なぜ、警告しなかったのですか」
シルヴェストルが少し笑った。苦い笑み。
「した。何度も。だが王宮は聞かなかった。宰相が封殺した。『地脈の衰退は神殿の誇張だ。政治を混乱させるための嘘だ』と。貴族院でも、宰相派が神殿の報告を否決した」
「否決」
「神殿の警告は政治的に不都合だった。魔力が衰退していると認めれば、貴族制度の根幹が揺らぐ。貴族の権威は魔力に依存している。その魔力が消えると認めることは、自らの特権の終わりを認めることだ」
セレスティアは唇を噛んだ。
「猊下。今、状況が変わりました」
「どう変わった」
「宰相は失脚し、アレクシス陛下が即位した。フェリクスの研究で地脈の衰退が科学的に証明された。もう否定はできない」
「それで」
「神殿に協力をお願いしたい。地脈回復の儀式に」
シルヴェストルの目が細くなった。
「地脈回復の儀式。五百年前の文献に記載がある。聖魔力を地脈に注入し、衰退を遅らせる。だが、前例がない。成功した記録もない」
「前例はこれから作ります」
「若いな。だが、嫌いではない。その言葉」
シルヴェストルが立ち上がった。窓辺に歩いた。
「アルヴェイン嬢。私は長年、この国と神殿の関係を見てきた」
「はい」
「王家は神殿を利用し、神殿は王家を利用してきた。相互利用の関係。信仰ではなく政治だ」
「……」
「私はそれを正したいと思ってきた。神殿は本来、人々を癒し、導くための場所だ。政治の道具ではない」
「猊下の仰ることは分かります。でも」
「だが、現実として神殿は政治と無縁ではいられない。ならば、法と公開された手続きに従う政策に限って協力する方が、沈黙するよりもいい」
シルヴェストルが振り返った。
「条件がある」
「お聞きします」
「三つ」
セレスティアは背筋を伸ばした。
「一つ。地脈回復の儀式は神殿主導で行う。王宮の命令ではなく、神殿の儀式として。これは信仰の問題だ。地脈は神の恵みである。それを回復するのは神殿の役割だ」
「了解しました。形式上は、神殿の儀式。実務はフェリクスと共同で」
「よい」
「二つ目は」
「魔力教育の開放において、神殿にも教育機関としての役割を認めること。平民の魔力教育を、王宮の学校だけでなく神殿の教室でも行えるようにすること」
セレスティアは少し考えた。
「条件付きで受け入れます。神殿の教育は王宮の教育基準に準拠すること。カリキュラムの統一と、定期的な評価を条件に」
シルヴェストルの目が光った。
「交渉が上手いな。良い。受け入れよう」
「三つ目は」
シルヴェストルがセレスティアの目を見た。真っ直ぐに。
「儀式の際、アネリーゼを、セレスティアの傍に配置すること」
アネリーゼが驚いた顔をした。
「猊下」
「聖魔力の注入は術者に甚大な負担をかける。アネリーゼの治癒力は神殿随一だ。万が一の時、即座に回復できる人間が傍にいなければならない」
セレスティアの胸が温かくなった。
「猊下。それは条件というより」
「条件だ。老人の、ただの心配ではない。国家事業の安全対策だ」
口調は厳しいが、目が柔らかかった。
「ありがとうございます」
「礼は儀式が成功してからだ」
◇
応接室を出た後。
廊下でアネリーゼが言った。
「セレスティアさま。大神官猊下は、あなたのことを」
「心配してくれてるんだよね」
「はい。あの方は、口には出さないけれど。聖魔力の持ち主がこの百年で初めて現れた時、猊下は泣いたんです」
「泣いた」
「はい。私だけが見ました。報告書を読んだ後、窓辺で。静かに」
「なんで」
「『ようやく希望が生まれた』と。聖魔力があれば地脈を救える。神殿が五百年間待ち望んでいたものが、ようやく」
セレスティアは立ち止まった。
五百年。
神殿は五百年間、地脈の衰退を見つめてきた。警告し、無視され、封殺され。
「わたしが生まれたことに意味があった」
「あります。大きな意味が」
「前世では殺された。聖魔力を持って生まれたのに。何もできないまま」
アネリーゼが首を傾げた。
「前世?」
セレスティアははっとした。
言ってしまった。ほんの一言。
「ごめん。変なことを。忘れて」
「……セレスティアさま。わたしは何も聞いていません」
アネリーゼが微笑んだ。柔らかい笑み。
「ありがとう、アネリーゼ」
「いいえ。わたしは、セレスティアさまの傍にいるだけです。猊下の条件通りに」
「条件のため」
「いいえ。条件がなくても傍にいます」
セレスティアはアネリーゼの手を握った。温かい手。治癒の力が僅かに伝わる。心が落ち着く。
「アネリーゼ。儀式の時、よろしくね」
「はい。わたしが守ります。セレスティアさまの体も。心も」
「心も」
「はい。光魔力で体を癒す。でも心を癒すのは、魔力じゃない。傍にいること」
かつてアネリーゼ自身が言った言葉。母が倒れた時に。
「覚えてる」
「当然です。わたしが言ったことですから」
二人で大神殿を出た。
白い石段を下りた。春の日差しが眩しかった。
◇
王宮に戻ると、フェリクスが待っていた。
研究室ではなく廊下で。壁に寄りかかって。本を読んでいる。
「にいさま。待ってたの」
「待っていたのではない。この壁の文献が気になっただけだ」
「壁に文献はないよ」
「比喩だ」
「にいさまの比喩はいつも下手」
「比喩の巧拙は学術的にも主観的だ」
「それは認める」
フェリクスが本を閉じた。
「大神官は何と」
「協力してくれる。条件付きで」
条件を説明した。神殿主導の儀式。教育機関としての役割。アネリーゼの配置。
フェリクスが頷いた。
「合理的な条件だ。特に三つ目は、僕からも条件にしたかったくらいだ」
「にいさまも心配性だね」
「心配ではない。リスク管理だ」
「心配とリスク管理は同じだよ。にいさま」
フェリクスの眼鏡がまた曇った。
「……湿度の問題だ」
「はいはい」
セレスティアは笑った。
「にいさま。儀式の計画、立てよう。オスヴァルト先生も交えて。できる限り安全に」
「ああ。僕が計算する。絶対にお前を死なせない」
「死なないよ。にいさまの計算を信じてるから」
「僕の計算は正確だ。誤差は〇・三パーセント以内」
「〇・三パーセントは」
「無視できる範囲だ。統計的に」
「にいさま。〇・三パーセントの中にわたしの命があったら」
「黙れ。縁起でもない」
フェリクスがセレスティアの頭を、ぽんと叩いた。
「痛い」
「痛くない。力は加えていない」
「気持ちが痛い」
「気持ちに痛覚はない」
「ある。にいさまが知らないだけ」
フェリクスが少しだけ笑った。
「……そうか。知らなかったな」
「知って。これからは」
「善処する」
二人で廊下を歩いた。
春の風が廊下を抜けた。窓からラベンダーの匂いがした。
フリーデリケの花が、王宮の庭で咲き始めていた。




