フェリクスの研究成果
フェリクスが本を三冊抱え、廊下を走っていた。眼鏡はずれ、髪も乱れている。
「セレス!」
セレスティアの執務室の扉を開けた。ノックを忘れている。
「にいさま。ノック」
「ノックは後でする。聞いてくれ」
「後でするノックに意味はないよ」
「意味の議論も後だ。これを見てくれ」
テーブルに本と地図とグラフを広げた。
紙が散乱した。ナターシャが眉をひそめた。
「フェリクス様。お嬢様の書類の上に」
「すまない。だがこれは書類より重要だ」
フェリクスの目が光っていた。セレスティアはその目を見て、姿勢を正した。
「何が分かったの」
「魔力衰退の原因が分かった」
◇
フェリクスの説明は精密だった。
「王国の魔力は地脈から供給されている。これは既知の事実だ。地脈は地中を流れる魔力の河。大陸全土に張り巡らされている」
地図を指で辿った。王国の地図に、青い線が描き込まれている。地脈の流れ。
「問題は、この地脈が衰退していること」
グラフを見せた。横軸が年代。縦軸が魔力濃度。
右肩下がりの曲線。ゆっくりと、だが確実に。
「この百年間で王国の平均魔力濃度は三割低下している。特にこの三十年は加速している」
「三十年。宰相の時代と重なる」
「そうだ。宰相は魔力を政治と軍事に過剰利用した。結界の増設。魔術兵器の開発。貴族の魔力試験の強化。全てが地脈から魔力を吸い上げる行為だった」
セレスティアの背中が冷えた。
「このままいくと」
「五十年後に魔力が消滅する」
部屋の空気が凍った。
ナターシャの手が止まった。セレスティアの息が止まった。
「消滅」
「完全にゼロになるわけじゃない。だが人が魔術を使えるレベルを下回る。貴族の魔力も。神殿の治癒も。結界も。防衛魔術も。全て、使えなくなる」
フェリクスが眼鏡を直した。手が震えていた。
「五十年後、僕たちが六十五歳の時。この国から魔力が消える」
◇
セレスティアは窓の外を見た。
王都の風景。屋根の上に光る結界。街灯の魔力灯。空を飛ぶ伝書鳥の魔術。
全てが五十年後に消える。
「にいさま。これは、誰が知ってるの」
「僕と、僕の研究助手二人。オスヴァルト先生には概要を伝えた。先生は驚かなかった」
「驚かなかった?」
「『やはりか』と言った。先生も、薄々気づいていたんだ。だが証明する手段がなかった。僕の研究が証明手段を提供した」
「どんな研究」
「ヨハンの理論だ」
セレスティアの目が見開かれた。
ヨハン。亡き在野の魔力学者。フェリクスの師匠代わりだった男。宰相に逆らい、王立学術院を追われ、病で死んだ。
「ヨハンは地脈の研究をしていた。魔力の供給源としての地脈。その衰退の兆候。回復の可能性。だが当時は、データが足りなかった」
「今は」
「ヨハンの遺した理論に、僕の十年間の観測データを重ねた。結果がこれだ」
グラフをもう一枚広げた。
こちらは地脈の回復シミュレーション。
「回復は可能なの?」
「条件付きだ。地脈に、外部から大量の魔力を注入する必要がある。普通の魔術師の力では足りない。必要なのは」
フェリクスがセレスティアを見た。
「聖魔力だ」
◇
「聖魔力は純度が極めて高い。地脈に注入すれば、衰退した魔力の『種』になる。枯れた井戸に新しい水源を開くようなものだ」
「わたしの力で地脈を回復できる?」
「完全な回復は無理だ。だが衰退を五十年遅らせることはできる。五十年あれば、次の世代が、さらなる回復策を開発できるかもしれない」
「五十年」
「時間を稼ぐんだ。消滅を防ぐのではなく、消滅までの時間を延ばす。その間に解決策を見つける」
フェリクスの声が少し震えた。
「でも、リスクがある」
「リスク」
「聖魔力を地脈に注入する儀式は、術者に甚大な負担をかける。最悪の場合」
言葉が途切れた。
セレスティアが続けた。
「死ぬ?」
「……死なない。たぶん。オスヴァルト先生の計算では意識を失う程度で済む。だが保証はない。前例がない」
フェリクスの目が潤んでいた。
「セレス。僕はこの発見を後悔している」
「後悔?」
「こんなことが分かってしまったら、お前が、自分を犠牲にしようとするのが目に見えている。僕は妹を危険にさらす研究結果を出してしまった」
セレスティアは兄の手に、自分の手を重ねた。
「にいさま。発見したのは、にいさまの功績だよ」
「功績なんかじゃない。僕は」
「にいさま。聞いて」
フェリクスが黙った。
「ヨハンの理論がここで実を結んだ。宰相に潰された人の研究が国を救うかもしれない。それはにいさまが十年間、諦めずに続けてきたから」
「セレス」
「わたしがやる。地脈の儀式。でも、にいさまの計算通りに。安全に。確実に。無茶はしない」
「無茶はしないって、お前がそれを言う?」
「言うよ。お母様と約束したから。無理しないって」
フェリクスの眼鏡が曇った。
「……湿度が高いな、この部屋は」
「にいさま。それ、泣いてる時の言い訳」
「言い訳じゃない。科学的見解だ」
「科学的見解が毎回同じなのは、統計的に怪しいよ」
フェリクスが笑った。泣きながら。
「お前は本当に」
「本当に何?」
「本当に強い」
「強くない。にいさまがいるから、怖くないだけ」
◇
その夜。
セレスティアはアレクシスの私室を訪ねた。
フェリクスの研究成果を報告するために。
地図とグラフを広げた。フェリクスが作ったものの写し。
アレクシスは黙って聞いた。目が暗くなっていった。
「五十年後に魔力が消滅する」
「はい。このままでは」
「回復の方法は、お前の聖魔力」
「はい」
「リスクは」
「意識を失う程度。死ぬことはない。フェリクスとオスヴァルト先生が計算している」
アレクシスの拳が握られた。
「セレスティア。僕は王だ」
「はい」
「王として、国のために必要だと言うべきだ。地脈を回復しろと。だが」
「だが」
「僕はお前を危険にさらしたくない」
セレスティアの胸が温かくなった。
「陛下。わたしは自分で決める。陛下に命じられてやるんじゃない。わたしがやりたいからやる」
「やりたい?」
「この国を守りたい。五十年後の子供たちが魔力を使えるように。治癒が受けられるように。結界で守られるように。わたしの力で、それができるなら」
「お前はいつもそうだ」
「そう?」
「国のことを自分のことのように考える」
「自分のことだよ。わたしもこの国に住んでいるから。わたしの家族も。仲間も。守りたいものが全部、ここにある」
アレクシスがセレスティアの目を見た。
「分かった。だが、条件がある」
「条件?」
「フェリクスに最も安全な方法を計算させる。神殿にも協力を求める。絶対に、一人ではやらせない」
「一人じゃないよ。にいさまがいる。アネリーゼがいる。陛下がいる」
「僕は魔術は使えない」
「使えなくていい。陛下は、そこにいてくれればいい」
アレクシスの耳が赤くなった。
「そこに」
「うん。倒れた時に、最初に見る顔が陛下だと、安心するから」
「……ずるい」
「何が」
「そういうことをさらっと言う」
セレスティアは小さく笑った。
「陛下。次は神殿との交渉。大神官を説得しないと」
「シルヴェストルか。手強いぞ」
「手強い方がやりがいがある」
「お前は本当に」
「本当に何?」
「面白い。いや、強い。いや」
アレクシスが言葉に詰まった。
セレスティアが首を傾げた。
「陛下?」
「何でもない。行こう。フェリクスと計画を立てる」
立ち上がった。地図を丸めた。
二人で廊下を歩いた。
春の夜。窓から月が見えた。
「陛下」
「何だ」
「五十年後、わたしたちは六十五歳だよ」
「六十五歳か。おじいさんとおばあさんだな」
「六十五歳のわたしたちが魔力のある国で暮らしている。そう思うと、悪くない」
アレクシスの足が一瞬、止まった。
「六十五歳の、わたしたち」
「うん。わたしたち」
アレクシスは何も言わなかった。
だが廊下を歩く足取りが、少しだけ軽くなった。
月明かりの中で、二人の影が、並んで伸びていた。




