幽閉中の宰相
王宮の最奥。地下ではなく、東塔の最上階。
幽閉された宰相ヴィクトール・ド・ガルニエの部屋は、不思議なほど静かだった。
窓がある。鉄格子越しだが、光が入る。机がある。本がある。紙とインクもある。最低限の家具。質素だが、牢獄ではない。
アレクシスの判断だった。「宰相は職権乱用と横領と毒殺教唆で有罪だ。だが三十年間この国を運営した人間を、暗い牢に放り込むのは違う」
◇
セレスティアが東塔を訪ねたのは、春の終わりだった。
ナターシャが止めた。
「お嬢様。なぜ、今」
「ずっと、行かなきゃと思ってた。でも怖かった」
「怖い」
「会ったら何を感じるか分からなかったから。憎しみか。恐怖か。それとも何も感じないのか。どれが一番怖いか分からなかった」
ナターシャは少し考えて、言った。
「何を感じても、お嬢様はお嬢様です。わたくしが保証します」
「ナターシャが保証する」
「はい。十二年間の実績に基づいて」
セレスティアは小さく笑った。
「行ってくる」
「お供します」
「ここで待ってて。一人で話したい」
ナターシャの目が揺れた。だが、頷いた。
「扉の外にいます。何かあれば、すぐに」
「うん。ありがとう」
ヴォルフが東塔の階段を上った。セレスティアの三歩前を。無言で。
最上階。重い扉。二人の衛兵が立っていた。
「アルヴェイン公爵令嬢セレスティア。面会の許可は取ってある」
衛兵が扉を開けた。
◇
部屋に入った。
ヴォルフは扉の外に残った。中に入ったのはセレスティアだけ。
宰相は窓辺に座っていた。
椅子に。背筋を伸ばして。
老いていた。
裁判の時よりも、さらに。白い髪が薄くなり、頬が削げ、首の皺が深くなっていた。だが目だけは変わらなかった。
灰色の目。冷たく、深く、全てを見透かすようなあの目。
セレスティアの心臓が跳ねた。
体が覚えている。この男の前に立った時の恐怖を。三歳の頃から積み上げてきた、あの男への警戒を。
だが足は止まらなかった。
入り口から五歩。テーブルを挟んで。椅子に座った。
向かい合った。
沈黙。
宰相が口を開いた。
「来たか」
低い声。かすれている。だが威厳は消えていなかった。
「運命を変えた少女よ」
「……宰相閣下」
「その敬称はもう不要だ。罪人だからな」
「では、ヴィクトール卿」
「卿も不要だ。爵位は剥奪された」
「では、何とお呼びすれば」
宰相の口元が僅かに動いた。笑みとも歪みともつかない。
「好きに呼べ。お前にはその権利がある」
セレスティアは少し考えた。
「ヴィクトール」
「……呼び捨てか。思い切ったな」
「あなたはわたしを名前すら呼ばなかった。『公爵家の娘』。『聖魔力の持ち主』。『排除すべき障害』。わたしにも名前があった」
宰相の目が僅かに揺れた。
「……そうだな。名前があった」
沈黙。
春の光が鉄格子を通して、部屋に縞模様を描いていた。
セレスティアが口を開いた。
「聞きたいことがある」
「何でも聞け。暇だからな。本は三周目に入った」
「なぜ、わたしを標的にしたのですか」
宰相は窓の外を見た。鉄格子の向こうの空を。
「公爵家を抑えるには、聖魔力を持つお前を排除するのが最も効率的だった。聖魔力は王国の象徴だ。それを持つ者が公爵家にいる限り、公爵家の権威は揺るがない。ならば聖魔力を消す。消せなければ、持ち主を消す」
淡々と。感情のない声で。
「個人的な恨みはない。お前が何をしたわけでもない。全ては、王国の秩序のためだ」
「秩序」
「王権を安定させるには、貴族の力を均衡させる必要がある。公爵家が強すぎれば王権が揺らぐ。宰相家が弱ければ議会が暴走する。全ては均衡のためだ」
「均衡のために、わたしを殺す」
「必要ならば、そうだ」
セレスティアの手が膝の上で握られた。
「あなたの言う王国に、わたしの居場所はなかった」
「……そうだな」
「わたしの家族の居場所も。イザベラの居場所も。ルシアンの居場所も」
宰相の目が僅かに細まった。
「イザベラ」
「あなたの娘は、あなたの作った王国で道具として育てられた。自分が何をしたいかも分からないまま。あなたは自分の娘にすら居場所を作らなかった」
沈黙。
長い沈黙。
宰相が目を伏せた。初めて。
「……それはそうだ。それが私の罪だ」
「イザベラは」
「元気です。王宮行政官として働いている。あなたの作った行政機構を、正しく作り直している」
「……作り直す」
「はい。あなたの娘はあなたより賢い。仕組みを壊すのではなく、正しく直す方法を選んだ」
宰相の口元がまた動いた。今度は笑みだと分かった。
「そうか。あの子は、私よりも」
「はい。ずっと」
沈黙。
セレスティアは立ち上がろうとした。聞きたいことは聞いた。答えは得た。
だが宰相が言った。
「一つだけ、聞いてもいいか」
「何を」
「お前の聡明さの源。三歳から聡明だった。五歳で政治を理解していた。九歳で貴族院を動かした。あれは何だ。教育だけでは説明がつかない」
セレスティアの心臓が止まった。
宰相が灰色の目で、真っ直ぐにセレスティアを見た。
「私は三十年間、人を見てきた。才能のある子供も見てきた。だがお前は違った。最初から何かを知っていた。何かを経験していた。未来を知っているかのように動いていた」
「……」
「結局、分からなかった。お前の秘密が。三十年の政治経験を持つ私が、十五歳の少女一人を読み解けなかった」
セレスティアは宰相の目を見返した。
「わたしには失いたくないものがあった。それだけです」
「失いたくないもの」
「家族。仲間。居場所。あなたが『不要』と切り捨てたもの全て。わたしにとっては命より大切だった。だから必死だった。それだけです」
宰相はしばらく、セレスティアの目を見つめていた。
「……なるほど。失いたくないものがある者は強い。私にはなかったからな。失いたくないものが」
「あったでしょう。イザベラが」
宰相の目が揺れた。大きく。
「イザベラは私にとって」
言葉が途切れた。
長い沈黙の後。
「……道具として育てた。だが」
「だが?」
「裁判であの子が証言台に立った時。私を告発した時。あの目を見た。怒りの目ではなかった。悲しみの目だった。あの目が、一番、堪えた」
セレスティアの胸が痛んだ。
「イザベラに手紙を書きたいと、伝えていいですか」
宰相の目が見開かれた。
「手紙」
「イザベラが受け取るかどうかは、イザベラが決める。でも書く機会くらいは」
「……いや。いい」
「いい?」
「あの子にはもう、私の言葉は要らない。私の言葉は嘘と操作で汚れすぎた。あの子に届く言葉はもう、持っていない」
セレスティアは黙った。
「ヴィクトール」
「何だ」
「わたしはあなたを許せない。多分、一生」
「当然だ」
「でも理解はした。あなたの論理を。あなたの罪を。あなたの後悔を」
「理解」
「理解は許しじゃない。でも理解した上で、わたしは歩く。あなたが作った歪んだ国を、正しく書き換えるために」
宰相が笑った。
本当の笑みだった。初めて見るヴィクトール・ド・ガルニエの、本物の笑顔。
「書き換えるか。面白い言い方だ」
「面白い」
「ああ。お前は、面白い子だ」
セレスティアは扉に向かった。
「さようなら、ヴィクトール」
「ああ。達者でな。セレスティア」
振り返らなかった。
扉を閉めた。
◇
階段を下りた。
ヴォルフが三歩前を歩いていた。無言で。
階段の途中で足が止まった。
壁に手をついた。
震えていた。手が。膝が。
「ヴォルフ」
ヴォルフが振り返った。
「少し待って。足が」
ヴォルフは何も言わなかった。ただセレスティアの隣に立った。壁に寄りかかるセレスティアの、すぐ傍に。
「あの人は最後にわたしの名前を呼んだ」
「……」
「十二年間、一度も呼ばなかった名前を。最後に」
涙がこぼれた。
憎い男だ。許せない男だ。でも名前を呼ばれた瞬間、胸に穴が空いたように痛かった。
「なんで泣くの。こんな男のために」
ヴォルフがハンカチを差し出した。白い、無地の。
セレスティアは受け取って泣いた。階段の途中で。護衛騎士の隣で。
しばらく。
涙が止まった。目を拭いた。深呼吸した。
「行こう」
「はい」
階段を下りた。
下でナターシャが待っていた。セレスティアの目を見て、全てを察した。
何も聞かなかった。
ただ蜂蜜入りの紅茶を差し出した。保温の魔術が掛けられた小さな水筒から。
「用意してたの」
「侍女ですから」
セレスティアは紅茶を飲んだ。
甘かった。温かかった。
「おいしい」
「はい。いつも通りです」




