ルシアンの再出発
ルシアンが王宮に戻ってから、三ヶ月が経った。
反乱軍に加担した第一王子。王位継承権を持つ少年。王国中が、その処遇を注視していた。
だが、アレクシスはルシアンを罰しなかった。
「ルシアンは宰相の教育の犠牲者だ。罰するのは、宰相がしたことと同じになる」
公式には「療養」。
ルシアンは王宮の東翼で静かに暮らしていた。勉強をし、本を読み、庭を散歩する。穏やかな日々。
だが、心は穏やかではなかった。
◇
ある日の午後。
セレスティアは、ルシアンの部屋を訪ねた。
ナターシャが止めた。「お嬢様。ルシアン殿下は、まだ不安定です」
「分かってる。でも、いつかは話さなきゃいけない」
扉をノックした。
「ルシアン殿下。セレスティアです。入っていいですか」
しばらく、沈黙。
「……入っていいよ」
小さな声。
扉を開けた。
ルシアンは窓辺に座っていた。十七歳。痩せていた。
「セレスティア」
「ルシアン殿下。お元気ですか」
「元気。元気って何だろうね」
目が虚ろだった。
「座っていい?」
「どうぞ」
向かい合って座った。テーブルを挟んで。
「ルシアン殿下。話がしたくて来ました」
「話。僕を説教しに来たの」
「説教じゃない。聞きたいことがある」
「何を」
「殿下は今、何を感じていますか」
ルシアンの目が揺れた。
「何を感じてるか」
「はい」
「……分からない。何も感じない。いや、感じてるのかもしれないけど、何を感じてるのか分からない」
「分からない」
「宰相閣下が言ったことは全部嘘だった。『お前には価値がある』って。あれは、僕を利用するための嘘だった」
「はい」
「マティアスも嘘だった。『殿下を王にする』って。あれも、自分が権力を握るための嘘だった」
「はい」
「全部嘘だった。僕が信じたものは、全部」
ルシアンの声が震えた。
「じゃあ僕は何なの。嘘を信じて、アレクシスを裏切って、反乱に加担して。僕は何をしていたの」
セレスティアは黙った。
しばらく。
「ルシアン殿下。わたしも、嘘を信じていたことがあります」
「嘘?」
「昔。わたしは、世界は正しいものだと思っていた。正しく生きていれば、正しい結果が得られると」
「違ったの」
「違った。正しく生きていても、殺されることがある」
ルシアンの目がセレスティアを見た。
「殺される?」
「比喩よ。でも、世界が正しくないと知った時、わたしは壊れそうになった。何を信じていいか分からなくなった」
「それ、僕と同じだ」
「同じ。だから分かる」
セレスティアがルシアンの目を見た。
「ルシアン殿下。嘘を信じたのは殿下のせいじゃない。嘘をついた人のせいです」
「でも、信じた僕が馬鹿だった」
「馬鹿じゃない。十歳の子供が、大人の嘘を見抜けなくて当然です」
「セレスティアは見抜いた。三歳の時から」
セレスティアは一瞬、言葉に詰まった。
「わたしは特殊な事情がある。殿下と比べないで」
「特殊な事情」
「いつか話すかもしれない。でも今は、殿下の話」
ルシアンが目を伏せた。
「僕は何をすればいいの。王位継承権は放棄する。アレクシスに逆らうつもりはもうない。でも、何をすればいいか分からない」
「何もしなくていい。今は」
「何もしない」
「今は休む時。何を感じているか分からない時は、分かるまで待てばいい」
「待つ」
「パンを焼きながら待つのもいい。わたしの友達が言ってた。『パンは待つのが仕事だもん。発酵を待って。焼けるのを待って。冷めるのを待って。待つのは得意』って」
ルシアンの目の端が、和らいだ。
「変な例え」
「変でしょう? でも、本当のことよ」
「パンを焼きながら待つ」
「うん。急がなくていい。殿下はまだ十七歳。時間はある」
ルシアンが窓の外を見た。
春の庭。花が咲いている。
「セレスティア」
「なに」
「アレクシスは僕を許してくれた。でも、僕は自分を許せない」
「自分を」
「アレクシスを裏切った。王妃陛下を悲しませた。人が死んだ反乱に加担した。それを、どうやって許せばいいの」
セレスティアはしばらく考えた。
「許さなくていい。今は」
「許さなくていい?」
「自分を許すのは時間がかかる。何年も。何十年も。でも、許せなくても、歩くことはできる。一歩ずつ」
「一歩ずつ」
「わたしも自分を許せていないことがある。でも、歩いている。許せない自分を抱えたまま」
ルシアンの目に涙が浮かんだ。
「セレスティアは強いね」
「強くない。仲間がいるだけ」
「僕には仲間がいない」
「いるよ。アレクシスがいる。お母様がいる。そして、わたしがいる」
ルシアンが顔を上げた。
「セレスティアが僕の仲間?」
「嫌?」
「嫌じゃない。でも、僕はセレスティアを排除しようとした側にいた」
「知ってる。でも、今は違う。今のルシアンはここにいる」
ルシアンの涙がこぼれた。
「ありがとう」
「お礼はいらない。紅茶飲む? ナターシャの蜂蜜入り」
「飲む」
セレスティアが扉を開けた。ナターシャが二人分の紅茶を持って待っていた。
「いつの間に」
「侍女ですから」
ルシアンが紅茶を飲んだ。
「甘い」
「でしょう? ナターシャの紅茶は世界一なの」
「世界一」
ルシアンが小さく笑った。
「そういえば、ノワールは元気?」
ルシアンが目を瞬いた。
「覚えていたの」
「十年前、会わせてくれるって言ったでしょう」
「……気が向いたら、としか言っていない」
「今は、気が向いた?」
ルシアンはしばらく黙ってから、もう一度、小さく笑った。
「うん。会わせる」
◇
王宮の厩舎。
ノワールは、艶のある黒い毛並みを保ったまま、十年前より大きく、落ち着いた馬になっていた。
ルシアンが名を呼ぶと、ゆっくり近づいてきて、鼻先で彼の肩を押した。
「本当に、機嫌が悪い時はそうするんだね」
「それまで覚えていたのか」
セレスティアはノワールの鼻先に手を触れた。温かかった。
「やっと会えた」
「十年も待たせた」
「でも、約束は守ってくれた」
ルシアンは答えなかった。ただ、ノワールの首を撫でた。その横顔から、部屋にいた時の強張りが少しだけ消えていた。
◇
ルシアンと別れた後。
廊下でアレクシスが待っていた。
「セレスティア。ルシアンと話したか」
「話した。少しだけ」
「どうだった」
「笑った。最後に、少しだけ」
アレクシスの目が和らいだ。
「笑ったか」
「蜂蜜入りの紅茶を飲んで。それから、ノワールに会わせてくれた」
「蜂蜜入り。お前の万能薬だな」
「万能薬じゃない。でも、効く」
アレクシスの口元が動いた。
「ルシアンは王位継承権を放棄すると言っている」
「聞いた」
「受理する。ルシアンが自分で決めたことだ。尊重する」
「陛下。ルシアンに、何か役割を与えてほしい」
「役割」
「何でもいい。陛下の傍で、何か一つ。ルシアンが『自分は必要だ』と思える仕事を」
アレクシスが頷いた。
「考える。ありがとう、セレスティア」
「お礼はいらない。家族のことだから」
「家族。ルシアンも、お前にとって家族か」
「アレクシスの家族は、わたしの家族でしょう? いつか」
アレクシスの耳が赤くなった。
「いつか。それは」
「何でもない。行こう。会議がある」
セレスティアが先に歩き出した。
アレクシスが赤い耳のまま、後を追った。
廊下にコンラートが立っていた。
全部聞いていた。表情は変えなかった。
ただ少しだけ、目を伏せた。




