生きている朝
目が覚めた。
前世で処刑された日と同じ日付を越えた、翌朝。
天井が見える。ラベンダーの匂い。柔らかい枕。温かい布団。窓から春の光が差し込んでいる。
「……朝だ」
体を起こした。立ち上がった。
窓に向かった。カーテンを開けた。
春の朝。庭に花が咲いている。空が青い。
◇
「お嬢様。おはようございます」
ナターシャが入ってきた。そして、止まった。
セレスティアが窓辺に立っていた。
「お嬢様、立っている」
「立ってる」
「昨日は」
「昨日は昨日。今日は今日」
ナターシャの目が潤んだ。だがすぐに瞬きをして消した。
「紅茶をお持ちします」
「うん。蜂蜜入りで」
「いつも通り」
ナターシャが下がった。
セレスティアは鏡の前に立った。
「わたしは生きている」
鏡の中の少女が微笑んだ。
◇
朝食を食堂で取った。
家族が驚いた。昨日ベッドから出られなかった少女が食堂に現れた。
「セレス。大丈夫なのか」
エドヴァルトが立ち上がった。
「大丈夫。もう大丈夫」
「昨日は」
「昨日は悪い日だった。でも今日はいい日」
リリアーナがセレスティアの顔を見つめた。
「目が違うわ」
「違う?」
「昨日の目じゃない。強い目」
「強いかどうかは分からない。でも、怖くはない。今朝は」
フェリクスが眼鏡の奥でセレスティアを観察した。
「心拍は安定しているように見える。顔色もいい。昨日の発作は収まったな」
「おにいさま。朝食中に診察しないで」
「習慣だ」
公爵がパンを取った。黙って。いつも通り。
だがセレスティアの皿にバターを塗ったパンを一切れ置いた。
無言。
セレスティアはパンを食べた。
おいしかった。
昨日は味がしなかった紅茶が今朝は甘い。
「おいしい」
「それは何より」
リリアーナが微笑んだ。
◇
午前。
セレスティアは書斎に入った。
机の引き出しを開けた。
暗号帳。
三歳の頃から書き続けた帳面。前世の記憶を暗号で記録したもの。人物の弱み。事件の時系列。宰相の手口。味方の配置。敵の動き。
全て書いた。忘れないように。間違えないように。前世の悲劇を繰り返さないように。
十二年分の暗号帳。ページは擦り切れ、インクは褪せ、表紙は手垢で変色している。
セレスティアは帳面を手に取った。
開いた。最初のページ。
三歳の手で書いた文字。震えている。インクが滲んでいる。
『宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。敵。最優先排除対象』
ページをめくった。
四歳。五歳。六歳。年を追うごとに字が安定していく。暗号が複雑になっていく。内容が具体的になっていく。
十歳のページ。
『摂政投票。工作計画。票読み。ロベルトの切り崩し方法』
十二歳のページ。
『裁判準備。証拠の整理。ヘルマン経由の内部文書確保』
十四歳のページ。
『最終弁論。宰相の弱点。イザベラとの対話記録』
セレスティアは帳面を閉じた。
暖炉に目を向けた。
燃やすべきだろうか。前世の記憶の残滓を。恐怖の記録を。
手が止まった。
燃やせなかった。
帳面を引き出しに戻した。鍵をかけた。
◇
午後。
庭を歩いた。
一人で。でも、遠くにヴォルフの気配がある。十二年間、変わらない影。
花が咲いている。春の花。
中庭の噴水の傍にアレクシスがいた。
「セレスティア」
「殿下。どうしてここに」
「会いたかった。昨日、来られなくて」
アレクシスの顔が緊張していた。
「昨日はわたしが動けなかったから」
「知ってる。ナターシャから聞いた。大丈夫か」
「今日は大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
二人で噴水の縁に座った。
水の音。春の風。
しばらく無言だった。
「セレスティア。昨日が何の日か、聞いていい」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「ナターシャは知らないと言った。でも毎年、この日だけお前が壊れると」
「壊れる」
「壊れるという言い方は悪かった。すまない。でも、心配した」
セレスティアは噴水の水面を見つめた。
水が光を反射している。きらきらと。
言うべきだろうか。
「殿下」
「うん」
「いつか全部話す。わたしが何を覚えているか。なぜ三歳から戦ってきたか。全部」
「いつか」
「今はまだ。もう少しだけ時間がほしい」
アレクシスは頷いた。
「待つ。いつまでも」
「ありがとう」
「でも一つだけ聞いていい」
「何を」
「お前はもう、怖くないのか」
セレスティアは考えた。
怖くないか。
嘘は言いたくない。
「怖い。まだ、少し。来年もあの日は来る。たぶん、また震える」
「なら来年のあの日は、俺が傍にいる」
セレスティアがアレクシスを見た。
「殿下」
「うん」
「あなたがいてくれてよかった」
アレクシスの耳が赤くなった。
「当然だ。婚約者だから」
「婚約者じゃなくてもいてほしかった」
アレクシスが目を逸らした。耳だけでなく、首まで赤い。
セレスティアは笑った。
◇
夕方。
部屋に戻ると枕元にラベンダーの花束があった。
フリーデリケから。
今月分の花束。たまたま今日届いた。昨日が処刑日で今日届いた。
手紙が添えてあった。
『セレスティアちゃんへ。いつものラベンダーです。特別な理由はないけど今月は多めに入れました。匂いが足りなかったら言ってね。フリーデリケ』
ラベンダーの匂いを嗅いだ。
甘い。紫色。フリーデリケの匂い。
◇
夜。
ベッドに入った。
目を閉じた。
夢を見た。処刑の夢ではなかった。
庭を歩いている夢だった。春の庭。花が咲いている。隣に誰かがいる。温かい。
手を繋いでいた。
歩いていた。




