前世の処刑日
その日が来た。
前世で、セレスティアが処刑された日と同じ日付。
今世では十五歳の、何でもない春の一日。
なのに。
朝。目が覚めた瞬間から、震えが止まらなかった。
◇
体が覚えている。
脳が覚えている。
この日付を。この朝の光を。この季節の風を。
前世の最後の朝。牢獄の中で目覚めた。冷たい石の床。錆びた鎖の音。窓のない部屋に差し込む、僅かな光。
今世ではラベンダーの匂いのするベッドで目覚めた。柔らかい枕。温かい布団。窓から差し込む春の陽光。
なのに体が震えている。
「お嬢様」
ナターシャの声。遠い。
「お嬢様。朝ですよ」
「分かってる」
声が出た。だが体が動かない。
何もない日なのに。体が、処刑される準備をしている。
心拍が上がる。呼吸が浅くなる。手が冷たい。足が震える。
「動けない」
「動かなくていいです」
ナターシャがベッドの横に座った。
「今日は休む日です」
「休む。でも書類が、会議が」
「全て延期しました。イザベラ嬢とヘルマンに、今朝のうちに」
「延期。ナターシャ、なぜ」
「今日が何の日か、知っています」
セレスティアの目が大きくなった。
「知ってる?」
「お嬢様が三歳の頃から、毎年、この日だけ具合が悪くなります。理由は聞きません。でも、十二年間見てきました」
「毎年」
「はい。毎年、この日だけお嬢様の目が、怯えます。三歳の頃の目に戻ります」
セレスティアの涙がこぼれた。
「ナターシャ」
「何も聞きません。ただ、今日は傍にいます」
ナターシャが手を握った。温かい手。
「傍にいて」
「います。ずっと」
◇
午前中。
セレスティアはベッドから出られなかった。
ナターシャが紅茶を持ってきた。蜂蜜入り。だが手が震えて、カップを持てなかった。
「持ちます」
ナターシャがカップを支えた。セレスティアの唇に当てた。
温かい。甘い。でも、味がしない。
前世の記憶が押し寄せてくる。
牢獄から引きずり出された。鎖に繋がれて。石畳の上を歩かされた。人々の罵声。腐った野菜を投げつけられた。
処刑台。木の台。斧を持った処刑人。
最後に見た空は青かった。雲一つない。
最後に思ったことは——「誰も来なかった」。
誰も助けに来なかった。家族も。友人も。アレクシスも。
孤独に死んだ。
「お嬢様」
ナターシャの声が遠くなる。
「お嬢様。ここにいます。わたくしはここにいます」
「ナターシャ」
「はい。ここです」
手を握る力が強くなった。
「今世ではわたくしがいます。ヴォルフがいます。おにいさま方がいます。お母様がいます」
「いる」
「はい。お嬢様は一人ではありません」
「一人じゃない」
涙が止まらなかった。
なのに体が震える。心が怯える。
「怖い」
「怖くていいです。怖いのは、覚えているから。覚えているのは、忘れていないから。忘れないことは、強さです」
「強さ」
「はい。忘れないから同じ過ちを繰り返さない。お嬢様が十二年間戦ってきたのは、忘れなかったからです」
セレスティアはナターシャの手を握りしめた。
「ナターシャ。あなたは、わたしが何を覚えているか、知らないのに」
「知りません。でも、お嬢様が覚えている何かが、お嬢様を動かしてきたことは知っています。それで十分です」
◇
扉の外にヴォルフが立っていた。
朝からずっと。微動だにせず。
誰も通さなかった。マルガレーテとナターシャ以外は。
エドヴァルトが来た。「妹に会いたい」と。
ヴォルフが首を振った。
「今日はお会いにならない方がいい」
「なぜだ」
「お嬢様が休んでいる」
エドヴァルトはヴォルフの目を見た。
「分かった。伝言を」
「承ります」
「『兄は外にいる。何かあったら呼べ』と」
「お伝えします」
エドヴァルトは廊下に座った。扉の前。ヴォルフの隣に。
二人で黙って座っていた。
フェリクスが来た。
「兄上。セレスは」
「中にいる。ヴォルフが守っている」
「そうか。じゃあ俺もここにいる」
フェリクスも座った。廊下に。三人で。
「フェリクス。本は持ってきたか」
「持ってきた。待つ時間は読書に最適だ」
「お前はそういう奴だな」
「兄上は何もしないのか」
「何もしない。ただ、ここにいる」
「それでいい」
三人で廊下に座っていた。
妹の扉の前で。
◇
午後。
リリアーナが来た。
ヴォルフはリリアーナだけは通した。
「セレスティア」
「おかあさま」
リリアーナが娘を抱きしめた。
「大丈夫よ。お母様がいるから」
「おかあさま。怖い」
「何が怖いの」
「死ぬのが怖い」
リリアーナの腕が強くなった。
「死なないわ。もう、誰も死なせない」
「でも」
「でもじゃないの。あなたは生きている。今。ここで。わたくしの腕の中で」
セレスティアは母の胸に顔を埋めた。
温かかった。
「おかあさま。怖い夢を見るの。処刑される夢」
リリアーナは娘の髪を撫でた。
「大丈夫よ。そんな夢は、もう来ないわ」
問い詰めなかった。
「おかあさま。ありがとう」
「ありがとうは言わなくていいの。当たり前のことだから」
「当たり前が一番ありがたい」
「そうね。当たり前が、一番大切ね」
母と娘がベッドで並んで座っていた。
春の陽光が窓から差し込んでいる。
◇
夕方。
マルガレーテがパンケーキを持ってきた。
「泣いた日のパンケーキです。蜂蜜の」
「マルガレーテ。今日は泣いた日だったの」
「泣いていなくても辛い日は、甘いものを。アルヴェイン家の伝統です」
パンケーキを食べた。
甘かった。今度は、味がした。
「おいしい」
「はい。いつも通りです」
◇
夜。
ベッドに戻った。
枕元に花束があった。
ラベンダー。フリーデリケから。
手紙はない。花だけ。
ラベンダーの匂いを嗅いだ。
紫色。甘い匂い。フリーデリケの匂い。
「ありがとう」
呟いた。
目を閉じた。
眠った。
今夜は悪夢を見なかった。




