リディアの外交
南方。
王都から馬車で十日。南方国境の交易都市。
リディア・フォン・アルカディアは外交官の席に座っていた。
十四歳。亡国の姫。だが今は、アルヴェイン公爵家の名代として。
テーブルの向こうに三人の外交官が座っている。
南方の有力国。サフィーラ王国。マリノーヴァ公国。テッラ・ロッサ伯領。
三カ国。いずれも、将軍アルマンドの勢力拡大に脅かされている国。
「アルカディア殿下。貴国の提案は、率直に言って大胆だ」
サフィーラ王国の外交官。四十代の男。灰色の髭。
「不可侵条約。しかも三カ国同時締結。前例がない」
「前例がないからこそ効果があります」
リディアの声は穏やかだった。だが芯があった。
「アルマンド将軍は各国を個別に圧迫しています。一国ずつ孤立させ、屈服させる。それが将軍の手法です」
「それは我々も承知している」
「ならば個別に対処するのではなく、三カ国が連携する。不可侵条約によってアルマンドに『三カ国を同時に敵に回すことになる』と示す。抑止力です」
マリノーヴァ公国の外交官、若い女性が口を開いた。
「アルカディア殿下。あなたの故国も、アルマンドに踏みにじられた。その記憶が、この提案の動機では?」
リディアの手が一瞬、強く握られた。
「はい。わたくしの故国は失われました。まだ、取り戻せていません」
声が震えた。一瞬だけ。
「でも同じことを繰り返させない。それが、わたくしの動機です。個人的と言われるなら、個人的です。ですが個人的な動機が、三カ国の安全保障と一致しているのなら、それは外交です」
テーブルが静まった。
◇
交渉は三日間続いた。
リディアは南方の言語を三つ話した。アルカディア語。サフィーラ語。そして共通語。
セレスティアが教えてくれた言葉だった。
「リディア。あなたの故国の言葉は武器よ。誰も持っていない武器」
今。その武器が三カ国の外交官の心を動かしている。
三日目の夜。
サフィーラの外交官が最初に折れた。
「条約に署名する。条件がある。北方王国が条約の保証人になること」
「保証人、ですか」
「三カ国だけの条約では、拘束力が弱い。北方の大国が裏書きすれば、アルマンドへの抑止力は倍増する」
リディアは頷いた。
「王太子殿下の承認を得ます。公爵閣下の名代として、ここに約束します」
マリノーヴァとテッラ・ロッサも続いた。
三カ国。不可侵条約。
リディアの手が震えた。署名の瞬間。
まだ故国は取り戻せていない。——でも、戦争を一つ止められた。
◇
交渉が終わった夜。
宿の部屋でリディアは泣いた。
一人で。声を殺して。
故国の言葉を話すたびに母の声を思い出した。父の声を。燃える王宮を。逃げる馬車を。
全て失った日を。
でも今日、その言葉で、三カ国の人々を守った。
「お母様。お父様。わたくしは——」
声が出なかった。
でもセレスティアが言った。
「リディア。あなたが守れなかったものは——もう戻らない。でも、あなたがこれから守れるものは、まだたくさんある」
たくさんある。まだ。
涙を拭いた。
机の上にセレスティアからの手紙があった。
『リディア。あなたなら大丈夫。
わたしは王都で待ってます。
帰ってきたら石段でお茶しよう。
フリーデリケの新作パンを取り寄せたの。
セレスティアより』
「石段か」
呟いた。
◇
王都。
リディアの報告が鷹便で届いた。
セレスティアは書斎で封を切った。
『不可侵条約、三カ国同時締結。成功。
保証人として北方王国の裏書きが必要。
詳細は帰京後に報告します。
リディア』
セレスティアの顔がほころんだ。
「リディアがやった」
「やりましたね」
ナターシャも微笑んだ。
「南方の安定化に一歩近づいた。アルマンドが簡単には動けなくなる」
「三カ国の連携。リディアの言語力と、故国を失った経験が武器になった」
「お嬢様がリディアに言った言葉が、実を結びました」
「わたしが言ったんじゃない。リディア自身の力」
「お嬢様はいつもそう言いますね」
「だって本当だもの」
ナターシャが紅茶を淹れた。
「お嬢様。これで南方の心配は、少し減りました」
「少し、ね。でも、アルマンドはまだいる。条約だけでは足りない」
「はい。でも今は、北東部の反乱が先です」
「そうだね。ニコラスからの報告は」
「来ています。ルシアン殿下に、手紙が届きました」
セレスティアの目が光った。
「届いた」
「はい。昨夜。城塞内の協力者がルシアン殿下の部屋に、手紙を置いたと」
「アレクシスの手紙。ルシアンが読んだか」
「読んだかどうかは、まだ分かりません。続報を待ちます」
セレスティアは窓の外を見た。
「お嬢様。リディアが帰ったら、石段でお茶をすると約束しましたね」
「うん。約束した」
「フリーデリケのパン、取り寄せましたか?」
「あ」
「忘れていますね」
「忘れてた。手紙を書かなきゃ」
「今すぐ書いてください。フリーデリケへの手紙は、国政より優先です」
「国政より?」
「はい。友達との約束は、国政より大事です」
セレスティアが笑った。
手紙を書いた。フリーデリケに。
『フリーデリケへ。
蜂蜜くるみパン、もうできた?
リディアが帰ったら、みんなで石段で食べたいの。
五人分、焼いてくれる?
わたしと、リディアと、フリーデリケと、ナターシャと、もう一人は内緒。
セレスティアより
追伸:殿下の分も。六人分で。内緒じゃなかった。』
封をした。




