出陣の朝
夜明け前に目が覚めた。
理由は分からない。音もなく、夢もなく、ただ目が開いた。
窓の外がまだ暗い。星が見える。冬の、固い星だ。カーテンの隙間から入る光の角度で、まだ夜明けには一時間ほどある、と分かった。でも身体が起きることを選んでいた。
セレスティアは起き上がった。
今日、エドヴァルトが出発する。
分かっていた。昨夜から分かっていた。マティアス侯爵の蜂起を抑えるため、北部へ向かう。百五十名の騎士を率いて。冬の街道を、雪の前に越える。
◇
着替えた。急いで。廊下に出た。
◇
玄関に出ると、エドヴァルトがいた。
革鎧。剣帯。外套。旅装。完全な騎士の格好。それが兄を、普段より遠くに見せていた。鎧の上からでも、背が高いのは分かる。書斎で本を読んでいる兄より、この姿の方が本来の場所にいる、という感じがした。戦場はエドヴァルトの場所だ。
「早いな」
エドヴァルトが言った。
「おにいさまの方が早い」
「出発は夜明けと決めていた」
「知ってた」
だから起きた。とは言わなかった。エドヴァルトも聞かなかった。
馬車の前に、副官のアルベルトが待っている。騎士たちが整列している。百五十名の出陣。冬の夜明け前の王都別邸は、しんとしていた。息が白い。騎士たちの馬の息も白い。馬が蹄を軽く地面に打ちつけている。出発前の、落ち着かない音だ。
「セレスティア」
「うん」
「戻るまで、父上の補佐を頼む。父上は戦略は分かるが、王宮の細かい人の動きは苦手だ」
「分かった」
「ナターシャをしっかり使え。一人で抱え込むな」
「分かってる」
「フェリクスを過信するな。あいつは思考が速すぎて、確認を怠ることがある」
「知ってる」
エドヴァルトが兜を持ち直した。出発の合図を待っている。
言葉がある。たくさんある。のどの奥に詰まっている。
ごめんなさい。わたしの戦いが、ここまで波及した。おにいさまが危険に晒されるのは、わたしの選択の結果だ。止められなかった。宰相を止めなければ、もっと多くの人が死んだ。それでも、おにいさまが戦場に立つのはわたしのせいだ。ごめんなさい。
そして。
生きて帰って。
セレスティアは一歩、前に出た。
「おにいさま」
「何だ」
「……気をつけて」
言葉が、それだけしか出なかった。
他に言いたいことは、たくさんあった。全部のみこんで、「気をつけて」だけが残った。
エドヴァルトが、セレスティアの頭に手を置いた。
叩かない。ただ、置くだけ。
「心配するな」
「してない」
「してる顔だ」
「してない」
エドヴァルトが口元だけで笑った。
「戦場は俺の場所だ。書斎が父上の場所で、図書館がフェリクスの場所で、王宮の廊下がお前の場所みたいに。俺には戦場がある」
「……うん」
「お前が戦ったから、俺が行くんじゃない」
セレスティアは顔を上げた。
「宰相がいた。マティアスがいた。そいつらに対処するのは、国の仕事だ。お前のせいじゃない」
聞こえた。分かった。それでも。
「……おにいさまは、どこまで分かってるの」
「大体」
「大体って」
「フェリクスほど細かくは把握していないが」エドヴァルトが静かに言った。「お前が三歳から戦っていたことは、分かっている」
沈黙があった。
分かっていたのか。いつから。どこまで。聞きたかった。でも今ではない。今は出発の朝で、百五十名が待っていて、夜明けが来ようとしている。
「……うん」
「だから行ける」エドヴァルトが言った。「後ろが固まっているから、前を向ける」
手が離れた。
◇
エドヴァルトが馬に乗った。大きな黒い馬。冬の息が白く立ち上る。
アルベルトが「出発」と告げた。
馬の蹄の音。整列した騎士たちが動き出す。
エドヴァルトが振り向かなかった。
前だけを向いて、馬を進めた。
その背中が見えなくなるまで、セレスティアは動かなかった。
馬の列が長い。百五十名。その一人ひとりに、家族がいる。誰かを待っている人がいる。この朝に、百五十通の「気をつけて」がある。自分の言葉が特別ではないことは分かっている。それでも、言わなければならなかった。
列が遠くなる。
街道の角を曲がって、見えなくなった。
◇
セレスティアは門の前に立っていた。
夜明けが近い。空の端が、かすかに白くなり始めている。
ヴォルフが三歩後ろに立っていた。
「ヴォルフ」
「はい」
「エドヴァルトおにいさまは、強い?」
「王国で五指に入ります」
「そう」
「絶対ではありませんが、限りなく」
「うん」
セレスティアは空を見た。
星が、少しずつ消えていく。夜明けが来る。
初めて、誰かを戦場に送った。
それでも。
背中がひんやりとしていた。
怖い。
怖い、と思った。ちゃんと、思った。
「ヴォルフ。中に入ろう」
「はい」
振り返った。
屋敷の明かりが窓に見える。ナターシャが起きていて、紅茶の準備をしているはずだ。
◇
中に入ると、ナターシャが廊下に立っていた。
「お嬢様」
「うん」
「紅茶をご準備しました。温かいものを」
「ありがとう」
「エドヴァルト様は?」
「出発した」
ナターシャが一瞬、目を伏せた。それから「はい」と言って、先を歩いた。
「ナターシャ」
「はい」
「エドヴァルトおにいさまが戻ったら、ちゃんとお茶を出して」
ナターシャが立ち止まった。振り向いた。
「はい。もちろん」
「おにいさまは、戻る」
「はい」
「戻ってくる」
「……はい」
二人で廊下を歩いた。
やることがある。父上に報告しなければならない。今日の王宮でのスケジュールを確認しなければならない。アレクシスに伝えるべきことがある。フェリクスと話し合うことがある。
怖くても、やることがある。
夜明けの光が窓から差し込んできた。冬の朝の、白い光だ。
寒い。でも、明るい。
セレスティアは歩き続けた。




