ルシアンの出奔
ルシアンが消えた夜のことを、後から、護衛の兵士が証言した。
「深夜二時頃、急に眠気が襲って。抵抗できませんでした。魔術的な催眠だと思います」
外部からの協力者。魔術を使える人間。
ニコラスの調査で判明した。
「城門の記録にルシアン殿下の名前はありません。正門からは出ていない。地下水路です」
王宮の地下水路。宰相が三十年前に整備させた、緊急脱出路。
「宰相が作った脱出路を、宰相の残党が利用した」
セレスティアは苦い顔をした。
宰相の遺産がまだ生きている。地下水路も。情報網も。人脈も。
「ルシアン殿下は自分の意思で行ったのでしょうか」
ナターシャが聞いた。
ニコラスが首を振った。
「分かりません。ただ、護衛が眠らされた後、殿下の部屋からは抵抗の痕跡がなかった。荒らされた形跡もない」
「連れ去られたなら、抵抗の痕跡があるはず」
「はい。つまり」
「自分で出て行った」
沈黙。
十七歳の少年が自分の意思で、反乱軍に合流した。
◇
ルシアンの部屋をセレスティアは訪ねた。
王宮の東翼。小さな部屋。王子の部屋としては質素だ。
謹慎中のルシアンに与えられた部屋。窓は高い位置にある。外を見るには椅子に立たなければならない。
机の上に手紙があった。
封がされていない。読まれることを前提に、置いてあった。
セレスティアは手紙を読んだ。
『アレクシス殿下。
僕は出て行きます。
あなたは正しいのかもしれません。でも僕には、あなたの正しさが分かりません。
宰相閣下は僕に言いました。「お前には価値がある」と。
母上は僕に言いました。「あなたは間違っている」と。
価値があると言ってくれた人の側に行きます。
間違っていると言った人の元からは離れます。
僕が欲しかったのは、正しさではありません。
誰かに——「お前は必要だ」と言ってほしかった。
あなたにはセレスティアがいます。コンラートがいます。母上がいます。
僕には——誰もいません。
だから、僕を必要としてくれる場所に行きます。
ルシアン』
セレスティアは手紙を握りしめた。
「わたしがもっと早く」
「お嬢様」
ナターシャが静かに言った。
「全てを救うことはできません。お嬢様が救えなかったのではなく、ルシアン殿下が自分で選んだのです」
「でも、十七歳の選択は」
「十七歳でも選択は選択です。お嬢様は三歳で選択しました。年齢は言い訳にはなりません」
「ルシアンを連れ戻す。でも連れ戻した後が大事。ルシアンに『お前は必要だ』と言える場所を作らなければ」
セレスティアは手紙をポケットに入れた。
アレクシスに見せなければ。
◇
アレクシスは手紙を読んで、しばらく黙った。
長い沈黙。
「僕にはセレスティアがいる。コンラートがいる。母上がいる」
「殿下」
「ルシアンには誰もいなかった。それが、こう書いてある」
「はい」
「本当に誰もいなかったのか。僕は兄のことを見ていなかったのか」
セレスティアは正直に答えた。
「殿下。ルシアンの言葉は、半分は真実で、半分は歪みです」
「歪み」
「宰相がルシアンに『お前には価値がある』と言ったのは、ルシアンを道具として利用するためです。本当の『必要』ではない。利用価値としての『必要』です」
「でも、ルシアンにとっては」
「はい。ルシアンにとっては、それが唯一の『必要』だった。偽物でも、ないよりはましだった」
アレクシスが手紙を折り畳んだ。
「連れ戻す。——そして、今度は僕が言う。『お前は必要だ』と」
「殿下」
「兄に、弟として、言わなければならなかった言葉を。今更かもしれないが」
「今更じゃない。遅くても、届く言葉はある」
アレクシスが微笑んだ。苦い。でも温かい。
「セレスティア。お前は人を信じるのが上手いな」
「信じてるんじゃない。——知ってるの。人は変われるって。わたし自身が、証拠だから」
◇
三日後。
ニコラスの報告。
「ルシアン殿下はブラウンヴァルト城塞に到着しました。マティアスが出迎えた、と」
「マティアスの態度は」
「『殿下をお迎えできて光栄です。正統な王位継承者の復権のため、我々は戦います』と、声高に宣言したそうです」
「正統な王位継承者、か。ルシアンをお飾りにするつもりだ」
「はい。マティアスの目的は自分が権力を握ること。ルシアンの名前は大義名分にすぎない」
セレスティアは地図を見た。
ブラウンヴァルト城塞。三方を山に囲まれた天然の要害。正面からの攻略は犠牲が大きい。
「エドヴァルトの騎士団は」
「明後日、王宮騎士団と合流予定です。合計で約八百」
「千二百対八百。数では劣勢」
「ですが、正規軍と私兵では練度が違います。また、城塞の補給線は細い。長期戦になれば、反乱軍が先に干上がります」
「長期戦、か。ルシアンが中にいるのに」
「はい。それが問題です。短期で決着をつけなければ、ルシアンが人質になる可能性が」
セレスティアは考えた。
軍事的な解決だけでは足りない。
「ニコラス。城塞の中に、情報を送り込めるか」
「送り込む?」
「ルシアンに手紙を届けたい」
「城塞内に協力者がいれば可能です。ですが」
「宰相派の千二百人の中に、宰相を本気で信じている者と、流されて参加した者がいるはず。後者に接触できないか」
ニコラスが目を細めた。
「お嬢様。それは諜報作戦です」
「知ってる。でも、剣で解決するより、手紙で解決する方がいい」
「手紙で」
「ルシアンにアレクシスからの手紙を届ける。アレクシスの言葉を。それでルシアンの心が動けば」
「内部から崩す」
「崩すんじゃない。救うの。ルシアンを。そして流されて参加した人たちも」
ニコラスが微笑んだ。
「お嬢様はやはり、宰相とは違う」
「当たり前。わたしはパンケーキが好きだもの」
「……は?」
「何でもない。作戦を立てよう」
◇
その夜。
アレクシスが手紙を書いた。
セレスティアの隣で。王都別邸の書斎で。
何度も書いては消し、消しては書いた。
「セレスティア。何を書けばいいか分からない」
「殿下の言葉で。飾らない言葉で」
「飾らない、か。俺は昔から、言葉が下手だ」
「下手でいい。正直なら」
アレクシスがペンを走らせた。
長い時間。蝋燭の炎が揺れる。
書き終わった手紙をセレスティアは読まなかった。
「読まないの?」
「弟から兄への手紙だもの。わたしが読むものじゃない」
「……そうだな」
アレクシスが手紙を封筒に入れた。蝋で封をした。王太子の印璽で。
「ルシアンに届くか」
「届ける。ニコラスが」
「ニコラスを信じていいのか」
「信じていい。あの人は、お父様が信頼する人だから」
アレクシスが封筒を差し出した。
セレスティアが受け取った。
「必ず届ける」
「頼む」
二人の手が一瞬、触れた。
封筒を介して。
指先が温かかった。
アレクシスの耳がまた赤い。
「殿下。耳」
「何」
「赤いよ」
「寒いからだ」
「書斎は暖炉で暖かいけど」
「……うるさいぞ」
セレスティアが笑った。
「殿下。大丈夫。ルシアンに届く。きっと」
「ああ。信じる」




