行政の論理
宰相が倒れてから、三週間が過ぎた。
行政の再建は、思っていたよりも泥臭い作業だった。
◇
ゲオルク・ハイムという男がいる。
五十二歳。北東部三領の徴税を、二十年にわたって取り仕切ってきた官吏。宰相派の中核に位置し、宰相の命令で動いてきた。
だが——宰相が倒れた今、この男の知識がなければ北東部の税収は動かない。
人脈。地形。各領主との関係。過去二十年分の徴収記録。全てがハイムの頭の中にある。
ハイムは同意した。王令の下で働くことを。報酬と身分の保証と引き換えに。
「正しい判断か」と、セレスティアは毎朝思う。
分からない。でも——代わりになる人間がいない。
◇
その日の午前。
ナターシャが書斎の扉を叩いた。
「お嬢様。来客です」
「誰」
「アルヴェイン家に直接訴えに来た女性です。平民の方。一人で。門番が通すかどうか迷っていたのですが」
「通して」
セレスティアは書類から目を上げた。
「どんな人」
「三十代くらいです。服は質素で、遠くから来た様子でした。靴がかなり傷んでいました」
遠くから来た平民の女性。
会う必要がある。
セレスティアは立った。
◇
応接室の小さな椅子に、女性が座っていた。
茶色の髪。頬骨が高い。目の下に深い疲労の影。服は清潔だが、長い旅の痕跡があった。
女性はセレスティアを見て、立ち上がろうとした。
「座ったままで構いません」
セレスティアが先に言った。
「わたしがアルヴェインです。どのようなご用件ですか」
女性は少し驚いた様子だった。十四歳の公爵令嬢を見ている。
「……アルヴェイン嬢様。まさかお時間をいただけるとは思っていなかったので」
「話してください。遠くから来てくださったのでしょう。聞きます」
女性は膝の上で手を組んだ。
「私はミーナ・マイヤーと申します。北東部ヘッセン村の者です。夫が三年前に亡くなりましたので——今は、一人で三人の子を育てております」
「夫君は」
「……獄死しました」
声が揺れた。それだけ言って、女性は少し黙った。
◇
ミーナの話は、長かった。
セレスティアは口を挟まず、聞いた。
ミーナの夫ルーカスは、小さな農場を持っていた。ヘッセン村の外れ。痩せた土地だが、二十年かけて耕した場所だった。
七年前。北東部の徴税が急に厳しくなった。従来の倍近い税が課された。ルーカスが領主に直訴した。不当だ。計算が合わない。
その一年後。ルーカスは「公文書偽造」の容疑で捕縛された。
「主人は字が読めません。公文書など書けるはずがない。でも証拠があると言われました。主人の印鑑を押した書類がある、と」
「印鑑を」
「盗まれたんです。誰かに。でも——調べてもらえませんでした。ヘッセン村の農夫の言葉など、聞いてもらえませんでした」
ミーナの目が落ちた。
「主人は獄中に入れられました。三年後に熱病で死にました。農場は没収されました。税の滞納を理由に。滞納になったのは、税が高すぎて払えなかったからなのに」
セレスティアの手が、静かに机の上で閉じた。
「子供が三人います。上が十一歳。下が五歳。土地がありません。今は村の端を借りて、小作をしています」
ミーナが顔を上げた。
「アルヴェイン嬢様。宰相が倒れたと聞いて、やっと訴えられると思って来ました。新しい世の中になると聞きました。主人の冤罪を晴らしてほしい。没収された農場を返してほしい。それだけです」
◇
ミーナが布包みを取り出した。
丁寧に包まれた書類。
「証拠を持ってきました。主人の印鑑と、公文書の押印の角度が違います。主人は右利きですが、書類の印鑑は左側から押されています。七年かけて調べました」
セレスティアは書類を受け取った。
見た。
印鑑の跡。角度。確かに——細かい観察だった。字が読めない農夫の妻が、七年間かけて集めた証拠だった。
「もう一つあります。証人が。隣村の農夫で、あの頃ヘッセン村の徴税を担当していた役人が、主人の印鑑を持ち出すのを見た人間が——今も生きています。証言してくれると言っています」
そして、七年前にヘッセン村の徴税を担当していた役人。
その役人の名前を、セレスティアは知っていた。
ゲオルク・ハイム。
◇
「少し待っていてください」
廊下に出た。
ナターシャに「イザベラを呼んで」と伝えた。
十分後。
イザベラが来た。セレスティアの顔を見て、すぐに何かを察した。
「何があったの」
「書斎へ」
扉を閉めた。二人きり。
ミーナの書類を渡した。
イザベラが読んだ。速い。読みながら、目が一箇所で止まった。
「……ハイムの名前が出てくるわ」
「分かってる」
「七年前、ハイムが担当していた地区の農家が徴税強化で追い詰められ、冤罪で捕らえられた。三年前に獄死した。証拠も証人もある。訴訟になれば——」
「ハイムは有罪になる」
「それどころか、同様の事例が他にもあるかもしれない。ハイムが担当していた三領を全て調べれば——」
「止めて」
セレスティアの声が落ちた。
「分かってるから。止めて」
イザベラが黙った。
セレスティアは窓を見た。曇っていた。
「ハイムを訴追すれば、彼が持っている二十年分の記録が使えなくなる。協力も得られなくなる。北東部三領の税収が——」
「また止まる」
「さらに悪化する。今、国は三ヶ月で破綻するという瀬戸際にいる。ハイムなしでその三ヶ月を乗り越えられるかどうか」
「乗り越えられない、と思っている」
「……はい」
イザベラは書類を机に置いた。
しばらく何も言わなかった。
「お父様も、同じことを言っていた」
静かな声だった。
「何かを守るために、誰かの被害を後回しにする時。お父様はいつも言ったの。『国の安定が優先だ。個人の問題は後から対処する』と」
セレスティアの体が止まった。
「後から、は来なかった。お父様のもとでは。後から、と言いながら、ずっと後回しにし続けた。気がついたら三十年経っていた」
「分かってる」
「分かってる、と言いながら、同じことをしようとしている」
「違う——」
「どこが違うの」
責めていなかった。ただ、確認していた。静かに。
「どこが、お父様と違うの」
セレスティアは答えられなかった。
「後から対処する」という言葉が、喉の奥に詰まった。
◇
応接室に戻った。
ミーナが待っていた。膝の上で手を組んで。
セレスティアは椅子に座った。
「ミーナさん。証拠は確かに受け取りました」
「はい」
「……今すぐハイムを訴追することは、できません」
ミーナの目が揺れた。
「理由を聞かせてください」
セレスティアは話した。正直に。国の現状。税収の崩壊。三ヶ月という期限。ハイムがなぜ必要か。
ミーナは黙って聞いた。
「では——」ミーナが言った。「いつになりますか」
「北東部の税収が安定したら。新しい徴税の仕組みが動き始めたら——」
「それまで待てということですか」
声が揺れた。涙ではない。怒りだった。
「七年前から、ずっと待っていました。主人が死んでから三年です。子供たちは土地のない三年を過ごしました。あと何年待てばいいのですか」
「ミーナさん」
「ハイムはその男は今、王都で働いているのでしょう。お給金をもらって、身分の保証をもらって。主人を獄死させた男が生きている。そして待てと」
「——」
「正義とは何ですか、アルヴェイン嬢様」
その言葉が、静かに落ちた。
応接室の空気が重くなった。
「主人を返してください。それが無理なら、土地だけでも。それも無理なら——せめて、あの男が二度と誰かの父を奪えないようにしてください。それだけです」
それだけ。
セレスティアは何も言えなかった。
◇
ミーナが帰った。
「必ず対処します」と言った。
嘘ではない。本当に対処する。後で。必ず。
でも今ではない。
応接室に一人残った。
ミーナが座っていた椅子を見た。
七年前。宰相派が北東部の農家を追い詰め始めた頃、セレスティアは何をしていたか。
八歳だった。学園にいた。試験で一位を取ることを考えていた。宰相の陰謀を読んでいた。
その先で、ルーカスという農夫が獄中に落とされ、ミーナが三人の子を抱えて途方に暮れることになる。
セレスティアの計画の中に、彼らの名前は、なかった。
◇
夜。書斎。
ナターシャが紅茶を持ってきた。いつもの蜂蜜入り。
今夜は、すぐに飲まなかった。
手帳を開いた。ペンを持った。
何を書くか、しばらく考えた。
それから書いた。
『今日、わたしは行政の論理を使った。
国が必要としている人間がいる。その人間が罪を犯した。でも今は動かせない。だから後回しにする。
それが正しい判断だと思った。今も思っている。
イザベラが言った。お父様も同じことを言ったと。
わたしはイザベラに答えられなかった。
ミーナさんに「正義とは何ですか」と聞かれた。
答えられなかった。
正しい判断をした。でもその正しさは、ミーナさんの夫の死の上に立っている。ミーナさんの子供たちが奪われた時間の上に立っている。
宰相が使っていた言葉と、同じ構造の言葉を、今日わたしは使った。
違いは何か。
目的が違う。でも——今日のミーナさんには、目的の違いは関係がない。
夫は死んでいる。土地は戻っていない。
それが、今日の正しい判断の代償だ。』
ペンを置いた。
「ナターシャ」
「はい、お嬢様」
「ミーナという女性の情報を記録して。ヘッセン村。マイヤー家。三人の子供。農場の没収。ルーカス・マイヤーの冤罪。担当官ハイム」
「はい。記録します」
「後で必ず戻る。絶対に。記録しておかないと、忘れる。忘れてはいけない人たちだから」
ナターシャが静かに頷いた。
「記録します。お嬢様が忘れなくていいように」
紅茶を飲んだ。
甘かった。いつも通りの甘さだった。
なのに今夜は、その甘さが少しだけ、苦くなった気がした。
ミーナは今頃どこにいるだろう。
王都の宿屋か。もう、帰路についているか。
北東部への長い道を、一人で。
三人の子供が待っている家へ。
その女性に、今日のセレスティアが渡せたものは、何もなかった。
書類だけが机に残っていた。
丁寧に布で包まれた書類。
セレスティアは書類に手を触れた。
まだ温かい気がした。




