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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN


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行政の論理

 宰相が倒れてから、三週間が過ぎた。


 行政の再建は、思っていたよりも泥臭い作業だった。



 ゲオルク・ハイムという男がいる。


 五十二歳。北東部三領の徴税を、二十年にわたって取り仕切ってきた官吏。宰相派の中核に位置し、宰相の命令で動いてきた。


 だが——宰相が倒れた今、この男の知識がなければ北東部の税収は動かない。


 人脈。地形。各領主との関係。過去二十年分の徴収記録。全てがハイムの頭の中にある。


 ハイムは同意した。王令の下で働くことを。報酬と身分の保証と引き換えに。


 「正しい判断か」と、セレスティアは毎朝思う。


 分からない。でも——代わりになる人間がいない。



 その日の午前。


 ナターシャが書斎の扉を叩いた。


「お嬢様。来客です」


「誰」


「アルヴェイン家に直接訴えに来た女性です。平民の方。一人で。門番が通すかどうか迷っていたのですが」


「通して」


 セレスティアは書類から目を上げた。


「どんな人」


「三十代くらいです。服は質素で、遠くから来た様子でした。靴がかなり傷んでいました」


 遠くから来た平民の女性。


 会う必要がある。


 セレスティアは立った。



 応接室の小さな椅子に、女性が座っていた。


 茶色の髪。頬骨が高い。目の下に深い疲労の影。服は清潔だが、長い旅の痕跡があった。


 女性はセレスティアを見て、立ち上がろうとした。


「座ったままで構いません」


 セレスティアが先に言った。


「わたしがアルヴェインです。どのようなご用件ですか」


 女性は少し驚いた様子だった。十四歳の公爵令嬢を見ている。


「……アルヴェイン嬢様。まさかお時間をいただけるとは思っていなかったので」


「話してください。遠くから来てくださったのでしょう。聞きます」


 女性は膝の上で手を組んだ。


「私はミーナ・マイヤーと申します。北東部ヘッセン村の者です。夫が三年前に亡くなりましたので——今は、一人で三人の子を育てております」


「夫君は」


「……獄死しました」


 声が揺れた。それだけ言って、女性は少し黙った。



 ミーナの話は、長かった。


 セレスティアは口を挟まず、聞いた。


 ミーナの夫ルーカスは、小さな農場を持っていた。ヘッセン村の外れ。痩せた土地だが、二十年かけて耕した場所だった。


 七年前。北東部の徴税が急に厳しくなった。従来の倍近い税が課された。ルーカスが領主に直訴した。不当だ。計算が合わない。


 その一年後。ルーカスは「公文書偽造」の容疑で捕縛された。


「主人は字が読めません。公文書など書けるはずがない。でも証拠があると言われました。主人の印鑑を押した書類がある、と」


「印鑑を」


「盗まれたんです。誰かに。でも——調べてもらえませんでした。ヘッセン村の農夫の言葉など、聞いてもらえませんでした」


 ミーナの目が落ちた。


「主人は獄中に入れられました。三年後に熱病で死にました。農場は没収されました。税の滞納を理由に。滞納になったのは、税が高すぎて払えなかったからなのに」


 セレスティアの手が、静かに机の上で閉じた。


「子供が三人います。上が十一歳。下が五歳。土地がありません。今は村の端を借りて、小作をしています」


 ミーナが顔を上げた。


「アルヴェイン嬢様。宰相が倒れたと聞いて、やっと訴えられると思って来ました。新しい世の中になると聞きました。主人の冤罪を晴らしてほしい。没収された農場を返してほしい。それだけです」



 ミーナが布包みを取り出した。


 丁寧に包まれた書類。


「証拠を持ってきました。主人の印鑑と、公文書の押印の角度が違います。主人は右利きですが、書類の印鑑は左側から押されています。七年かけて調べました」


 セレスティアは書類を受け取った。


 見た。


 印鑑の跡。角度。確かに——細かい観察だった。字が読めない農夫の妻が、七年間かけて集めた証拠だった。


「もう一つあります。証人が。隣村の農夫で、あの頃ヘッセン村の徴税を担当していた役人が、主人の印鑑を持ち出すのを見た人間が——今も生きています。証言してくれると言っています」


 そして、七年前にヘッセン村の徴税を担当していた役人。


 その役人の名前を、セレスティアは知っていた。


 ゲオルク・ハイム。



「少し待っていてください」


 廊下に出た。


 ナターシャに「イザベラを呼んで」と伝えた。


 十分後。


 イザベラが来た。セレスティアの顔を見て、すぐに何かを察した。


「何があったの」


「書斎へ」


 扉を閉めた。二人きり。


 ミーナの書類を渡した。


 イザベラが読んだ。速い。読みながら、目が一箇所で止まった。


「……ハイムの名前が出てくるわ」


「分かってる」


「七年前、ハイムが担当していた地区の農家が徴税強化で追い詰められ、冤罪で捕らえられた。三年前に獄死した。証拠も証人もある。訴訟になれば——」


「ハイムは有罪になる」


「それどころか、同様の事例が他にもあるかもしれない。ハイムが担当していた三領を全て調べれば——」


「止めて」


 セレスティアの声が落ちた。


「分かってるから。止めて」


 イザベラが黙った。


 セレスティアは窓を見た。曇っていた。


「ハイムを訴追すれば、彼が持っている二十年分の記録が使えなくなる。協力も得られなくなる。北東部三領の税収が——」


「また止まる」


「さらに悪化する。今、国は三ヶ月で破綻するという瀬戸際にいる。ハイムなしでその三ヶ月を乗り越えられるかどうか」


「乗り越えられない、と思っている」


「……はい」


 イザベラは書類を机に置いた。


 しばらく何も言わなかった。


「お父様も、同じことを言っていた」


 静かな声だった。


「何かを守るために、誰かの被害を後回しにする時。お父様はいつも言ったの。『国の安定が優先だ。個人の問題は後から対処する』と」


 セレスティアの体が止まった。


「後から、は来なかった。お父様のもとでは。後から、と言いながら、ずっと後回しにし続けた。気がついたら三十年経っていた」


「分かってる」


「分かってる、と言いながら、同じことをしようとしている」


「違う——」


「どこが違うの」


 責めていなかった。ただ、確認していた。静かに。


「どこが、お父様と違うの」


 セレスティアは答えられなかった。


 「後から対処する」という言葉が、喉の奥に詰まった。



 応接室に戻った。


 ミーナが待っていた。膝の上で手を組んで。


 セレスティアは椅子に座った。


「ミーナさん。証拠は確かに受け取りました」


「はい」


「……今すぐハイムを訴追することは、できません」


 ミーナの目が揺れた。


「理由を聞かせてください」


 セレスティアは話した。正直に。国の現状。税収の崩壊。三ヶ月という期限。ハイムがなぜ必要か。


 ミーナは黙って聞いた。


「では——」ミーナが言った。「いつになりますか」


「北東部の税収が安定したら。新しい徴税の仕組みが動き始めたら——」


「それまで待てということですか」


 声が揺れた。涙ではない。怒りだった。


「七年前から、ずっと待っていました。主人が死んでから三年です。子供たちは土地のない三年を過ごしました。あと何年待てばいいのですか」


「ミーナさん」


「ハイムはその男は今、王都で働いているのでしょう。お給金をもらって、身分の保証をもらって。主人を獄死させた男が生きている。そして待てと」


「——」


「正義とは何ですか、アルヴェイン嬢様」


 その言葉が、静かに落ちた。


 応接室の空気が重くなった。


「主人を返してください。それが無理なら、土地だけでも。それも無理なら——せめて、あの男が二度と誰かの父を奪えないようにしてください。それだけです」


 それだけ。


 セレスティアは何も言えなかった。



 ミーナが帰った。


 「必ず対処します」と言った。


 嘘ではない。本当に対処する。後で。必ず。


 でも今ではない。


 応接室に一人残った。


 ミーナが座っていた椅子を見た。


 七年前。宰相派が北東部の農家を追い詰め始めた頃、セレスティアは何をしていたか。


 八歳だった。学園にいた。試験で一位を取ることを考えていた。宰相の陰謀を読んでいた。


 その先で、ルーカスという農夫が獄中に落とされ、ミーナが三人の子を抱えて途方に暮れることになる。


 セレスティアの計画の中に、彼らの名前は、なかった。



 夜。書斎。


 ナターシャが紅茶を持ってきた。いつもの蜂蜜入り。


 今夜は、すぐに飲まなかった。


 手帳を開いた。ペンを持った。


 何を書くか、しばらく考えた。


 それから書いた。


 『今日、わたしは行政の論理を使った。


  国が必要としている人間がいる。その人間が罪を犯した。でも今は動かせない。だから後回しにする。


  それが正しい判断だと思った。今も思っている。


  イザベラが言った。お父様も同じことを言ったと。


  わたしはイザベラに答えられなかった。


  ミーナさんに「正義とは何ですか」と聞かれた。


  答えられなかった。


  正しい判断をした。でもその正しさは、ミーナさんの夫の死の上に立っている。ミーナさんの子供たちが奪われた時間の上に立っている。


  宰相が使っていた言葉と、同じ構造の言葉を、今日わたしは使った。


  違いは何か。


  目的が違う。でも——今日のミーナさんには、目的の違いは関係がない。


  夫は死んでいる。土地は戻っていない。


  それが、今日の正しい判断の代償だ。』


 ペンを置いた。


「ナターシャ」


「はい、お嬢様」


「ミーナという女性の情報を記録して。ヘッセン村。マイヤー家。三人の子供。農場の没収。ルーカス・マイヤーの冤罪。担当官ハイム」


「はい。記録します」


「後で必ず戻る。絶対に。記録しておかないと、忘れる。忘れてはいけない人たちだから」


 ナターシャが静かに頷いた。


「記録します。お嬢様が忘れなくていいように」


 紅茶を飲んだ。


 甘かった。いつも通りの甘さだった。


 なのに今夜は、その甘さが少しだけ、苦くなった気がした。


 ミーナは今頃どこにいるだろう。


 王都の宿屋か。もう、帰路についているか。


 北東部への長い道を、一人で。


 三人の子供が待っている家へ。


 その女性に、今日のセレスティアが渡せたものは、何もなかった。


 書類だけが机に残っていた。


 丁寧に布で包まれた書類。


 セレスティアは書類に手を触れた。


 まだ温かい気がした。






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