14歳の終わり
石段。
学園の裏手。冬の午後。陽だまり。
フリーデリケが座っていた。
いつもの場所。いつもの笑顔。膝の上に、布に包まれたパン。
「セレスちゃん!」
手を振った。大きく。
セレスティアは階段を登った。一段、一段。
隣にアレクシスがいた。外套のフードを深く被っている。王太子と分からないように。
「フリーデリケ——」
「おかえり!」
「ただいま」
石段に座った。三人で。フリーデリケが真ん中。
「はい。ラベンダー蜂蜜パン。自信作」
布を開いた。丸いパン。三つ。ラベンダーの花弁が生地に練り込まれている。表面に蜂蜜が塗られて、冬の陽光で金色に光っている。
「きれい」
「でしょう! 三回失敗して、四回目でやっとできた。ラベンダーを入れすぎると苦くなるの。少しだけ。ほんの少し」
「フリーデリケは、パンの天才だ」
アレクシスが言った。フードの下で。
「殿下。食べてからにしてくださいよ」
「食べる前から分かる。匂いで」
パンを齧った。
温かかった。焼きたて。花の香りがほのかに。蜂蜜の甘さ。小麦の素朴な味。
「おいしい」
セレスティアが呟いた。
「おいしい、すごく」
目から——涙がこぼれた。
「セレスちゃん! 泣いてる! まずかった!?」
「まずくない。おいしいの。おいしくて泣いてる」
「おいしくて泣く?」
「泣くよ。こんなにおいしいパンは、世界で一番おいしい」
フリーデリケが、きょとんとした。
そしてにっこり笑った。
「じゃあ、もっと泣いて。もっとおいしいパン、焼くから」
「泣かないよ。もう大丈夫」
「大丈夫。うん。大丈夫だよね、セレスちゃん」
何も知らないのに「大丈夫」と言ってくれる。
「殿下。チーズパンもありますよ」
「追伸で書いてあったやつか。もらう」
フリーデリケが別の布を開いた。チーズパン。二つ。
「殿下の分と、コンラートさんの分。下で待ってるんでしょう?」
「よく分かるな」
「コンラートさん、いつもセレスちゃんの後ろにいるから。今日はいないから、下にいるんだなって」
「観察力があるな」
「パン屋ですから。お客さんをよく見るのが仕事です」
フリーデリケが胸を張った。
三人でパンを食べた。石段で。冬の陽だまりで。
「フリーデリケ。新しいパン、また考えて」
「もう考えてるよ! 次は蜂蜜くるみパン。セレスちゃんが好きそうでしょう?」
「好き。絶対好き」
「でしょう! 来月には焼けるよ。また来てね」
「来る。絶対来る」
「約束!」
「約束」
フリーデリケが小指を出した。
セレスティアが小指を絡めた。
「フリーデリケ。ありがとう」
「何が?」
「いつも、ここで待ってくれて。何も聞かないで。パンを焼いて」
「聞かないよ。セレスちゃんが話したくなったら話してくれるでしょう? それまで待つの。パンを焼きながら」
「パンを焼きながら」
「うん。パンは待つのが仕事だもん。発酵を待って。焼けるのを待って。冷めるのを待って。待つのは得意」
フリーデリケの笑顔が、冬の陽光に照らされていた。
「フリーデリケのパンが、わたしの一番の武器」
「武器? パンが?」
「うん。世界で一番強い武器」
「変なの」
フリーデリケが笑った。
アレクシスも笑った。
三人で石段で笑った。
◇
帰り道。馬車の中。
アレクシスが隣にいた。コンラートは御者台。
「セレスティア」
「なに」
「フリーデリケのパンは、本当においしかった」
「でしょう」
「石段も良い場所だ。日当たりが良くて。風が穏やかで」
「殿下の秘密の場所にしてもいいよ」
「秘密か。王太子に秘密の場所は許されないが」
「たまにはいい。秘密の一つくらい」
アレクシスが少しだけ笑った。
「また行きたい」
「うん。また行こう」
「約束」
「約束が多いね、殿下」
「お前に言われたくない」
二人で笑った。
馬車の窓から、冬の景色が流れていく。
◇
その夜。
セレスティアは新しい手帳を開いた。エドヴァルトにもらった革の手帳。
ペンを取った。
『14歳。宰相を倒した年。
残りの問題。
一、マティアス。行方不明。南方に逃亡した可能性。
二、ルシアン。謹慎中。まだ救えるかもしれない。
三、南方の将軍アルマンド。外からの脅威。
四、行政改革。壊した後の、新しい仕組み作り。
一つずつ。』
ペンを置いた。
手帳を閉じた。
窓の外。冬の夜空。星が出ていた。雲の切れ間から。
あの夜、イザベラと見た星。
「綺麗」
呟いた。
ナターシャが紅茶を持ってきた。蜂蜜入り。
「お嬢様。おやすみの時間です」
「うん。ナターシャ」
「はい」
「長い戦いだったね。でも、終わった」
「はい。宰相を倒しました。次は」
「次は新しい戦い。でも今夜は」
「今夜は」
「紅茶を飲んで寝る。それだけ」
「それだけで十分です」
紅茶を飲んだ。
甘かった。温かかった。
いつも通り。
「おやすみ、ナターシャ」
「おやすみなさい、お嬢様。良い夢を」
ベッドに入った。枕元のラベンダーの小袋。フリーデリケの手紙。アネリーゼの手紙。
目を閉じた。




