残された問題
三日後。セレスティアは動けるようになった。
足はまだ少し重い。でも、歩ける。立てる。考えられる。
裁判が終わってから、三日間、体が動かなかった。ナターシャが傍にいてくれた。眠れない夜を、一緒にいてくれた。蜂蜜のお粥と温かいスープだけが、現実の感触として残っていた。
書斎に入った。ヘルマンが待っていた。
「お嬢様。お体の調子は」
「大丈夫。もう動ける。報告を聞かせて」
ヘルマンが書類を広げた。
「宰相失脚後の状況です。三つの問題があります」
「三つ」
「第一。副宰相マティアスの行方。裁判の前から姿を消しています。王都にはいません。ニコラスが追跡中ですが、足取りが掴めていません」
「消えた」
「はい。ルシアンとの接触を断たれ、宰相にも切り捨てられた。追い詰められたマティアスが、どこに逃げたか。ニコラスの見立てでは、王都の南方。アルマンド将軍の勢力圏に近い」
「アルマンド。南方の脅威と合流する可能性が」
「はい。マティアスは宰相の情報網を熟知しています。その知識を手土産に、アルマンドと組む可能性があります」
セレスティアの目が鋭くなった。
マティアスは終わっていない。宰相が倒れても、マティアスは自由だ。
「第二の問題」
「宰相派の残党。二十三名いた宰相派議員のうち、十五名が宰相失脚後も議席を保持しています。一枚岩ではなくなりましたが、反公爵派として結束する可能性があります」
「十五名。脅威にはなりにくいが」
「はい。票数では劣勢です。ですが、彼らが持つ地方の行政権限は無視できません。宰相が三十年かけて構築した行政機構は、まだ宰相派の人間で動いています」
「行政機構」
「そうです。宰相は倒れましたが、宰相が作った仕組みは残っています。税の徴収。物資の配分。軍の兵站。全て、宰相派の官僚が動かしている。彼らがサボタージュすれば」
「国が止まる——」
「はい。壊すだけではダメです。新しい仕組みを作らなければ」
セレスティアは椅子に深く座った。
「第三の問題」
「南方。将軍アルマンドの脅威が増しています。宰相の外交工作で抑えていた南方の緊張が、宰相失脚で均衡を失いました」
「宰相の外交が抑止力になっていた」
「はい。皮肉ですが、宰相の存在自体が、南方への牽制になっていた。宰相は悪人だったが、外交手腕は本物でした。その力がなくなった今、アルマンドが動く可能性があります」
「宰相を倒した穴を、埋めなければならない」
「はい」
セレスティアは窓の外を見た。
冬の空。雲が低い。
「ヘルマン。壊すだけではダメだと言ったね」
「はい」
「そう。壊しただけでは、もっと悪くなるかもしれない。新しい仕組みを作らなければ」
「お嬢様の次の仕事です」
「次の仕事。宰相の代わりになる人が必要」
「はい。ですが、宰相ほどの能力を持つ人間は、この国にはいません」
「一人では無理。だから、仕組みを変える。一人の宰相に全てを委ねるのではなく、複数の人間で分担する。合議制。監視と均衡のある体制」
「それは大きな改革です」
「大きい。でもやらなければ、同じことが繰り返される。三十年後にまた、宰相のような人間が現れる。今の仕組みのままでは、権力は一箇所に集まる。宰相を変えても、仕組みが変わらなければ意味がない」
「お嬢様はこの二年で、そのことを何度もおっしゃっていました」
「気づいたのは最初からだったけど、言い続けるのは難しかった。戦いながら同時に制度を変える話をしなければならなかったから」
「今なら動けます。宰相の力が消えた今が、仕組みを変える最大の機会です」
ヘルマンが微笑んだ。
「お嬢様は壊すことだけでなく、作ることも考えている。素晴らしいことです」
「ヘルマンに褒められると、照れる」
「事実を述べただけです」
◇
その日の午後。
アレクシスが王都別邸を訪ねてきた。
コンラートを伴って。だがコンラートは玄関で待った。
「殿下」
「セレスティア。体は大丈夫か」
「大丈夫。もう動ける」
「良かった。心配した」
アレクシスが少しだけ笑った。安堵の笑み。
「裁判の後、倒れたと聞いて。会いに来たかったが、コンラートに止められた。『殿下が今行くと目立ちます』と」
「コンラートは正しいよ」
「分かっている。でも心配だった。——手紙を書こうとしたが、何を書いていいか分からなくて」
「手紙を書こうとしてたの」
「三度書いて、三度全部破った」
「何を書こうとしてたの」
「お前が生きていて良かったということを」
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「……来てくれて、ありがとう。殿下」
二人で庭に出た。冬の庭。ラベンダーは枯れかけている。だが根は生きている。春になれば芽吹く。毎年そうやって繰り返してきた庭だ。
「殿下。まだ終わっていません」
「分かっている。マティアスのこと。南方のこと。母上から聞いた」
「殿下はどうされますか」
「王太子としてできることをする。母上と相談して。コンラートと一緒に。そしてお前と」
「わたしと」
「お前がいなければここまで来れなかった。これからも一緒に」
アレクシスは言い切った。迷いなく。
アレクシスの耳が赤い。冬の寒さのせいではない。
「殿下」
「なに」
「石段の約束、覚えてる?」
「覚えている。フリーデリケのパンを食べに行く約束」
「明日、行かない?」
「明日。いいのか。まだ体が」
「パンを食べるくらいなら大丈夫。フリーデリケがラベンダー蜂蜜パンを焼いて待ってるの」
アレクシスが微笑んだ。
「行こう。約束だからな」
「うん。約束」
冬の庭で、二人は並んで立っていた。
「殿下。ありがとう」
「何が」
「自分で立ってくれて。自分で決めてくれて。——ずっと、それが嬉しかった」
「お前のおかげだ」
「違う。殿下自身の力」
「じゃあ、お互い様だ」
二人で笑った。
冬の空。低い雲。でも、雲の切れ間から、陽光が差している。
問題は残っている。マティアス。南方。行政改革。
でも、今は。
「明日、石段で」
「うん。石段で」
約束した。




