ディートリヒの最後
裁判から四日が経った。
公爵家の地下。ディートリヒ・クラウスが収監されているのは、あの日と同じ場所だ。石造りの部屋。窓はない。燭台だけの灯り。
セレスティアが最後にここに来たのは、五歳の時だった。
階段の陰で、父の尋問を盗み聞きした夜。
あれから九年。
◇
父が扉を開けた。
セレスティアは後ろに続いた。ヘルマンが灯りを持って先に入った。
部屋の奥に、一人の男がいた。
ディートリヒ・クラウス。
四十代の半ば、のはずだ。だが目の前にいる男は、もっと老けて見えた。髪に白いものが混じり、顔の輪郭が落ち、ずっと暗い場所にいた人間の肌の色をしていた。
立ち上がろうとして、足がもつれた。長い幽閉で、体が弱っている。
「……公爵閣下」
声だけは、九年前の記憶にある声に近かった。
「座っていろ」
父が言った。ディートリヒは椅子に戻った。
◇
部屋に椅子が三つ運ばれた。
父とセレスティアが座った。ヘルマンは立ったままだった。
「裁判の結果を伝えに来た」
「……はい」
「宰相ヴィクトールは有罪。終身刑。処刑は——新制度のもと、廃止される」
ディートリヒが目を閉じた。
「そうですか」
「お前の処遇について。貴族院と国王府が審議した結果を伝える」
「……」
「ディートリヒ・クラウス。公爵家への内通、奥方への加害幇助、宰相派への情報提供。これらの罪について——」
父が一枚の書状を開いた。
「国外追放、十年。財産の半没収。ただし、宰相裁判における協力——幽閉後九年間にわたる情報提供——を鑑み、死罪は免ずる。以上が最終判決だ」
◇
沈黙があった。
燭台の炎が揺れた。
ディートリヒはしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと顔を上げた。目が赤かった。
「……ありがとうございます」
「感謝するな。お前の情報が証拠になったのは事実だ。それだけだ」
「それだけ、では——」
ディートリヒの声が割れた。
「十二年間、裏切り続けました。奥方様を……お守りする立場でありながら、毒の経路を確保した。弱かった。ただ、弱かった」
「知っている」
「それを裁いてもらえるだけで、十分です」
◇
沈黙。
セレスティアはディートリヒを見ていた。
「一つ、聞いていいか」
セレスティアが口を開いた。
父が横を見た。ヘルマンの眉が動いた。だが誰も止めなかった。
ディートリヒが顔を上げた。
「……どうぞ」
「マティアスに声をかけられた時、なぜ断らなかったのか」
◇
ディートリヒは少し考えた。
うつむいて。古い傷を探るように。
「最初は断れると思っていました。ただの世間話だと思っていた。公爵家の近況を話す程度なら、害はないと。甘かった」
「それだけではないでしょう」
「……はい」
ディートリヒが息を吐いた。
「公爵家での地位が欲しかった。認められたかった。マティアス殿は上手かった。情報を渡すたびに「よくやった」と言った。金を渡した。地位の約束をした。気がついたら、抜けられなくなっていた」
「弱さを、利用された」
「利用された。ですが——それを言い訳にはできません。私自身が望んで続けた部分もある。途中からは脅されながらも、報酬に目が眩んでいた」
「正直に言えた」
「もう隠す必要がありません」
◇
セレスティアは一度、目を伏せた。
この男を憎めるか。
憎みたい気持ちはある。母が死にかけた。九年間、この男は地下にいた。それが「当然だ」という感情がある。
だが。
「一つだけ、伝えたいことがある」
ディートリヒが顔を上げた。
「あなたが提供した情報が、宰相の裁判を動かした。九年前の自白も、その後の情報も、全部証拠になった。宰相が有罪になったのは、あなたの協力なしでは難しかった」
「……」
「それは事実として、残る」
ディートリヒの目が揺れた。
「お嬢様」
「セレスティア、でいい。あなたは今は、公爵家の家臣ではないから」
「セレスティア様」
ディートリヒは椅子から立ち上がろうとした。足が震えた。父が手で制した。座ったままでいい。
「九年前、自白の最後に言いましたね。お嬢様を守ってほしいと」
「……覚えていらっしゃいましたか」
「覚えています」
五歳の、階段の陰から聞いた声を。
「結果として、守られました。わたし自身が守ったのかもしれないけれど。でも、あなたがその言葉を言ったことは、覚えています」
◇
部屋が静かになった。
燭台の炎が伸びて、また縮んだ。
ディートリヒは何も言えなかった。老いた顔に涙が伝った。拭かなかった。拭く資格がないと思っているのか。それとも、拭く力が残っていないのか。
「国外追放は、来月から執行される」
父が言った。
「行き先は南方の中立地帯。王国の支援はない。自活してもらう。ただし、十年後の帰国は認める」
「……公爵閣下」
「何だ」
「十年後。もしこの命があれば——帰ってもいいのでしょうか」
父が少し間を置いた。
「帰ってきた時、何をするつもりだ」
ディートリヒは静かに言った。
「お墓参りを。公爵家に仕えた十五年間のうち、三年だけは——本当に忠実に仕えた時期がありました。その三年分の、お詫びがしたい」
◇
帰り際。
階段を上がりながら、セレスティアは一度だけ振り返った。
石の部屋。燭台の灯り。
ディートリヒが一人、椅子に座っていた。
うつむいて。動かずに。
◇
地上に出た。
冬の空気が頬に触れた。
父が横に立った。
「よかったのか。直接話して」
「はい」
「感情的にならなかったな」
「少し、なりかけました。でも」
「でも?」
セレスティアは空を見た。
曇り空。遠くに、白い雲の隙間から光が差している。
「憎しみで終わりたくなかった。裁判は終わった。宰相は終わった。ディートリヒも終わった。全部終わりにするなら——憎しみで終わるより、事実を確認して終わる方がいい」
父が静かに頷いた。
「お前は、俺より賢い」
「父の娘ですから」
「俺はもっと感情的だ」
「それも、父の娘ですから」
父が少し笑った。
珍しい笑顔。
「帰ろう。母上が待っている」
「はい」
二人で歩いた。
地下への扉が閉まる音がした。




