閑話 イザベラの夜 イザベラ視点
王都別邸の客間は、静かだった。
机が一つ。椅子が一つ。ベッドが一つ。窓の外に冬の庭。それだけの部屋。
石造りの壁は、昼間でも少し冷える。でも暖炉が小さく燃えている。ナターシャが火を入れてくれた。
イザベラは椅子に座ったまま、窓を見ていた。
◇
お父様が法廷を出て行く時、背中を見ていた。
判決が下された。爵位剥奪。全財産没収。終身幽閉。議長の声が三回、槌の音が三回。
お父様は立ち上がった。七十一歳の身体を、最後の威厳で支えながら。
振り向かなかった。
一度も振り向かなかった。
騎士団に囲まれて、扉の向こうに消えた。その背筋は、最後まで真っ直ぐだった。
その時、わたしは何かを待っていた。振り向いてほしかったのかもしれない。一度でいい。でもお父様は振り向かなかった。最後まで前を向いていた。
◇
ウィーゼンバッハ家の屋敷は、没収される。
財産も。使用人も。
わたしには、行く場所がない。
今夜から、王都別邸の客間に置いてもらうことになった。ナターシャが教えてくれた。「セレスティア様がお父様に頼んでくださいました」と。
理由が分からない。
わたしはお父様の道具として、セレスティアに近づいた。調べていた。三年間。どこに行くか。誰と話すか。何を読むか。何を食べるか。全部記録して、報告していた。
それを知っていて、隣に置く。
どういう計算なのかと考えた。
計算ではないのかもしれない。それが一番、分からない。
計算ではないとしたら、何なのか。
◇
机の上に、手帳がある。
わたしが書き続けてきた記録帳。学園の人間関係。誰が誰に借りを持つか。誰がどこに弱みを持つか。お父様に教わった方法で、三年間書き続けた。
最後のページを開いた。
そこに書いてあるのは、セレスティアのことだった。
「アルヴェイン嬢。情報収集能力、特異。感情制御、高度。危険度、最大」
三か月前に書いた言葉。
お父様に報告した。「面白い」と言われた。
今日、法廷でも「面白い子だ」と言っていた。最後に。
笑っていた。あの笑顔が、いつも怖かった。策略が成功した時の顔。だが今日のは、少し違った気がした。純粋に面白い、という笑顔に見えた。
手帳を閉じた。
もう書かない。書き足す理由がない。書き足す相手が、いない。
◇
夕食のテーブルを思い返した。
セレスティアが手を伸ばして、「こっちに来て」と言った。
食堂の隅に立っているわたしに。宰相の娘に。今日、父を失ったわたしに。
「わたしの日なら、わたしが決める。イザベラはここにいて」
あの手を見た時、何か硬いものが胸の中で溶けた。
三年間、あの手を観察していた。どう動くか。何に触れるか。どんな場面で誰に伸ばすか。全部記録した。でも、自分に向かって伸びてくるとは思っていなかった。
パンを食べた。甘かった。紅茶を飲んだ。温かかった。
フリーデリケが横でよく笑った。コンラートが無口のまま自分の分のパンをわたしの皿に足した。理由を言わなかった。リディアは何も聞かずに紅茶を注いだ。
ナターシャが「お代わりはいかがですか」と聞いた。
わたしに。
宰相の娘に。今日まで敵の側にいた人間に。それでも「お代わりはいかがですか」と聞いた。
◇
「あの子は甘いものが好きだったな」
お父様が法廷で言った言葉。
蜂蜜の話をした時。
覚えていた。
でも、覚えていた。
わたしが甘いものを好きだということを、覚えていた。
それだけは、本当のことだ。
◇
明日から、何になるのか分からない。
「宰相の娘」ではなくなった。「ウィーゼンバッハ家の令嬢」でもなくなった。
では、何者か。
十四年間、それ以外の自分を持ったことがなかった。お父様の意向を読んで、お父様の利益になる動きをして、お父様が望む娘でいた。
良い成績を取れば褒めた。失敗すれば怒った。感情をあまり表に出さない人だったが、それだけは明確だった。「よくやった」か「それでは不十分だ」か。
わたし自身が何者なのか、考えたことがなかった。
好きなもの。苦手なこと。やりたいこと。欲しいもの。
全部、お父様の役に立つかどうかで判断してきた。
今夜から、その基準がなくなった。
◇
窓の外、星が見える。
冬の、硬い星。
明日のことは、明日考えればいい。そうセレスティアがよく言っていた。「明日のことは、明日に」。
あの子は、不思議な子だ。
わたしには、できないかもしれない。
でも、今夜だけは試してみる。
◇
目を閉じた。
眠れる気がしなかった。
でも、暖かい部屋にいる。窓があって、星が見える。
明日、セレスティアに何を言えばいい。礼を言うべきか。でも礼を言う資格があるのか分からない。三年間監視してきた相手に、礼を言う言葉が出てくるのか。
「イザベラはここにいて」




