閑話 傍聴席の兄 エドヴァルト視点
妹が証言台に立った。
十四歳。まだ子供だ。
あんな場所に——立たせるべきじゃない。
法廷。石の壁。五十二人の議員。傍聴席の数百人。被告席の宰相。——その全ての視線が、十四歳の少女に注がれている。
俺が代わりに立ちたかった。
剣なら振れる。馬なら乗れる。敵の前に立つことなら——騎士として、何度でもできる。
だがあの証言台という戦場には——俺の剣は届かない。
◇
セレスティアは——「私が話す」と言って譲らなかった。
昨夜。裁判の前夜。俺は妹の部屋を訪ねた。
「セレス。——俺が代わりに証言してやろうか」
「おにいさま。——無理だよ。おにいさまは証拠のことを全部は知らないでしょう?」
「知らなくても——お前を守ることはできる」
「守ってくれなくていい。——わたしが、自分で話す」
あの目で言われた。
碧い瞳。三歳の頃から変わらない目。
あの目で言われたら——誰も止められない。
父上も。母上も。フェリクスも。——俺も。
◇
三歳の頃を思い出す。
妹は——変な子供だった。
俺が十八歳の時、妹は三歳。普通なら——ままごとをしたり、人形で遊んだりする年齢だ。
だがセレスティアは——書斎の本を読んでいた。三歳の手で、分厚い歴史書を。
「おにいさま、しなないで」
ある日、突然そう言った。泣きながら。
何の脈絡もなく。ただ——泣きながら、俺の足にしがみついて。
「しなないで。おにいさま。ぜったい。しなないで」
十八歳の俺は——笑って返した。
「兄は強いぞ。死なん」
「やくそく——」
「約束だ」
あの時は——子供の戯言だと思った。
でも今になって思う。あの子は——何かを知っていたのかもしれない。
三歳の子供が知るはずのない何かを。
俺には分からない。フェリクスのように推理する頭はない。父上のように察する度量もない。
ただ——あの日の涙が、本物だったことだけは分かる。
あの子は——俺が死ぬことを、本気で恐れていた。
◇
法廷。
セレスティアが証言台に向かって歩いている。
一歩。一歩。
——足が震えている。
俺は見た。傍聴席の最前列から。妹の足が——微かに震えているのを。
手も震えている。握りしめた拳が——白い。
怖いのだ。——当たり前だ。十四歳の少女が、三十年間国を支配した男と対峙している。
だが——歩みは止まらない。
一歩。一歩。一歩。
証言台に着いた。振り返った。議場を——見渡した。
あの目。
碧い瞳に——涙はなかった。恐怖はあったかもしれない。でも——涙は、なかった。
「証人。名前を」
「セレスティア・フォン・アルヴェイン。十四歳」
声は——澄んでいた。
震えていたかもしれない。でも——聞き取れないほどではない。十四歳の少女の声が、石の法廷に、真っ直ぐに響いた。
◇
証言が始まった。
一つ一つの証拠を——冷静に、明確に、提示していく。
宰相の職権乱用。国庫の横領。母上への毒殺計画。——全てが、書類と証人の証言で裏付けられている。
俺は——証拠の内容を半分も理解できなかった。法律のことは分からない。財務のことも分からない。
だが——妹の声が真実であることは分かった。
剣を振る人間には——嘘の動きと本物の動きの違いが分かる。刃筋が通っているか、力が入っているか。——そういうことが、体で分かる。
セレスティアの言葉は——刃筋が通っていた。
一つの無駄もなく。一つの嘘もなく。——全ての言葉が、真っ直ぐに、宰相に向かっていた。
宰相は反論した。「偽造だ」「買収だ」「情報の出所を明かせ」。
だがセレスティアは——一つ一つ、切り返した。追加の証拠を出し、証人を呼び、記録を照合した。
十四歳の少女が——七十一歳の宰相と、互角に渡り合っている。
いや——互角ではない。
セレスティアが——押している。
◇
隣のフェリクスを見た。
弟は——眼鏡の奥の目を細めて、妹を見ていた。
「フェリクス」
小声で言った。
「何だ、兄上」
「セレスは——大丈夫か」
「大丈夫だ。——声の周波数が安定している。心拍数は上がっているだろうが、論理的思考は乱れていない」
「声の周波数って——お前は機械か」
「観察だ。——兄上こそ、拳を握りすぎだ。血が出るぞ」
見ると——俺の拳から血が滲んでいた。爪が手のひらに食い込んでいた。
「……気づかなかった」
「兄上は昔からそうだ。セレスのことになると——自分を傷つける」
「うるさい」
「事実だ」
フェリクスが——ハンカチを差し出した。
「巻け。——セレスに見られたら心配する」
「……ああ」
ハンカチを巻いた。白いハンカチが——赤く染まった。
騎士の拳は——法廷では無力だ。
◇
セレスティアが——排除計画書を読み上げた。
「『排除対象:セレスティア・フォン・アルヴェイン。方法一、聖魔力暴走による事故死偽装。方法二、冤罪による法的排除。方法三——』」
声が——揺れた。一瞬だけ。
方法二。——冤罪。
拳を——また握った。ハンカチの上から。血が滲む。
殴りたい。あの男を。
だが——ここは法廷だ。俺の拳は——ここでは役に立たない。
◇
宰相の顔が——変わった。
セレスティアが排除計画書を読み上げた時。——宰相の微笑みが、初めて消えた。
三十年間、議場を支配してきた男の——あの不気味な微笑みが。
消えた。
表情が——無になった。
セレスティアが——それを見た。見て——一瞬、目を閉じた。
そしてまた開いた。
「この計画書は——宰相閣下の筆跡鑑定と一致しました。宰相閣下ご自身の手で書かれたものです」
最後の一撃。
宰相は——反論しなかった。
初めて。裁判が始まって以来、初めて——反論しなかった。
◇
証言が終わった。
セレスティアが証言台を降りた。
一歩。一歩。——足が、震えている。行きよりも——激しく。
傍聴席に戻ってきた。
俺の——目の前に。
妹が——俺の顔を見た。
「おにいさま——」
声が——かすれていた。法廷で張り詰めていた緊張が——解けたのだ。
「勝てたかな——」
アルヴェイン家の長男は泣かない——と決めていた。妹の前では。弟の前では。両親の前では。
でも——泣いた。
妹が誇らしかった。
同時に——悔しかった。
俺は何もできなかった。法廷の傍聴席で——拳を握ることしかできなかった。
妹は一人で戦った。十四歳で。あの巨大な敵と。
「おにいさま——泣いてる——」
「泣いていない。——目にゴミが入った」
「嘘——」
「アルヴェイン家の長男は——」
「泣かないの?」
「ああ。——泣かない」
嘘だ。泣いている。視界がぼやけて何も見えない。
抱きしめた。
もう肩車はできないくらい大きくなった妹を。
三歳の頃は——片手で持ち上げられた。五歳で肩車をせがまれた。八歳で初めて剣を教えた。
十四歳の今——妹は、俺の肩の高さまで伸びていた。
「お前の圧勝だ」
声が——震えた。
「ああ——。お前の、完全な、圧勝だ。セレス」
妹が——俺の胸に顔を埋めた。
泣いていた。声を殺して。
法廷で泣かなかった分を——今、俺の胸で泣いている。
「おにいさま——怖かった——」
「分かってる」
「ずっと——手が震えてた——」
「分かってる」
「でも——やらなきゃいけなかった——」
「ああ。——やった。お前はやった」
妹の背中を——抱きしめた。
◇
俺は騎士だ。
剣で戦うことならできる。馬に乗って敵の前に立つことならできる。
だが——法廷という戦場で、妹は一人で戦った。
俺の剣じゃ斬れない敵を——妹は言葉で斬り伏せた。
悔しい。
だが——誇らしい。
◇
法廷を出た。
廊下。冬の光。窓から差し込む陽光が——石の床に影を落としている。
隣にフェリクスがいた。
「兄上」
「何だ」
「眼鏡が曇って——」
「は?」
「湿度が高い。——今日は湿度が高い」
フェリクスの眼鏡が——曇っていた。
「お前——泣いてるのか」
「泣いていない。湿度の問題だ」
「嘘つけ」
「物理現象だ。——水蒸気が冷却されて凝結した結果——」
「お前が泣いてるだけだろう」
フェリクスが——眼鏡を外した。目が——赤かった。
「……否定できない」
「素直に泣け」
「兄上に言われたくない。——手のハンカチ、赤いぞ」
二人で——黙った。
「フェリクス」
「何だ」
「セレスは——強くなったな」
「ああ。——強くなった。驚異的に」
「俺たちは——何をしてやれた」
「……分からない。セレスに聞くしかない」
「聞かない。——聞いたら、あいつは『おにいさまがいたから大丈夫だった』と言うだろう」
「言うな。間違いなく」
「それが——嬉しいのか悔しいのか、分からない」
「両方だろう。——俺も同じだ」
フェリクスが——眼鏡をかけ直した。
「兄上。——俺たちにできることは、これからだ」
「これからか」
「宰相は倒れた。だが問題は残っている。南方の脅威。行政改革。マティアスの残党。——セレスの戦いは終わっていない」
「ああ」
「俺は——研究で支える。魔力の問題を解決する。それが俺の戦い方だ」
「俺は——剣で支える。あいつの前に立つ。敵を斬る。——それが、俺の戦い方だ」
フェリクスが——微笑んだ。珍しく。
「兄上。——俺たちは良い兄だと思うか」
「分からん。——だが、悪い兄ではないだろう」
「……そうだな」
窓の外。冬の空。
妹は——法廷で泣いている。母に抱かれて。
俺たちは——廊下で立っている。泣いた目で。赤いハンカチで。曇った眼鏡で。
◇
馬車の中。帰り道。
セレスティアが——眠っていた。母上の膝の上で。
俺は——外套をかけた。妹の体に。
「風邪を引くぞ」
小声で言った。——聞こえていないだろう。
フェリクスが本を読んでいる。父上が窓の外を見ている。母上が妹の髪を撫でている。




