宰相の最後の弁論
裁判最終日。
朝。公爵邸。
セレスティアは鏡の前で立ち止まっていた。
今日で終わる。
「お嬢様。準備はいいですか」
ナターシャの声。
「うん。行こう」
◇
貴族院。法廷。
最終日の傍聴席は前日以上に混み合っていた。立ち見が出ている。廊下にまで人が溢れている。
セレスティアは最前列に座った。いつもの場所。ナターシャ。イザベラ。ヴォルフ。コンラートは扉の外に立っている。全員がいる。
議長が槌を打った。
「最終日。宰相閣下の最終弁論を聴取する。閣下、壇上へ」
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエが立ち上がった。
今日の宰相はいつもと違った。
微笑みがない。怒りもない。悲しみもない。
ただ静かだった。
壇上に歩いた。一歩一歩、ゆっくりと。七十一歳の体に三十年分の重みを背負って。
壇上に立った。議場を見回した。
五十二人の議員。傍聴席の数百人。王族席のアレクシスとエレオノーラ。
そして傍聴席のセレスティア。
目が合った。
宰相が話し始めた。
「議員諸君。わたくしは三十年間、この国に仕えてきた」
声は穏やかだった。いつもの声。だが、どこか遠い声。
「三十歳で宰相に就任した時、この国は瀕死だった。先代国王の治世の末期。財政は破綻し、南方の脅威は増し、貴族間の内紛は絶えなかった」
議場が静まった。
「わたくしは立て直した。財政を再建し、軍を整え、外交を安定させた。三十年かけて。手段は選ばなかった。脅迫もした。買収もした。情報操作もした。——全ては、この国を守るためだった」
「告発側はわたくしの手段を問うている。確かに、手段は法に触れるものがあった。職権の逸脱。国庫資金の流用。認めよう」
議場がざわめいた。
「手段が問われるなら、わたくしは有罪だろう。だが」
宰相の目が鋭くなった。
「目的が問われるなら、わたくしはこの国を守った。南方の将軍アルマンドが侵攻してきた時、わたくしの外交工作で退けた。財政が崩壊しかけた時、わたくしの手腕で立て直した。貴族の反乱が起きかけた時、わたくしの情報網で未然に防いだ」
「わたくしがいなければ、この国は、とうに滅んでいた」
議場の空気が揺れた。
「公爵夫人への毒殺計画。王太子暗殺への間接的関与。公爵令嬢の排除計画。全て、安定のためだった。公爵家の影響力が増せば、宰相権限が弱体化する。宰相権限が弱体化すれば、国の運営が停滞する。停滞すれば、国民が苦しむ」
「わたくしは国民を守るために、少数の犠牲を計画した。非道だと言われるだろう。その通りだ。だがわたくし以外に、この国を守れる者がいたか」
議場が沈黙した。
重い沈黙。
セレスティアは唇を噛んだ。
だが。
セレスティアは立ち上がった。
傍聴席から。
「裁判長」
議長が振り返った。
「セレスティア嬢。傍聴席からの発言は」
「一言だけ。お許しください」
議長が沈黙した。しばらく。
「……一言だけ。許可する」
セレスティアは宰相を見た。
壇上の宰相。七十一歳の老人。三十年間この国を動かしてきた男。
「宰相閣下」
声が議場に響いた。十四歳の少女の声。
「あなたはこの国を守ったと言いました。そうかもしれません」
「でも、あなたが守った安定は、誰かの犠牲の上に成り立っていました。母の健康。わたくしの命。殿下の自由。テオドールの良心。カスパルの家族。モンテヴェルデ侯爵の二十年。——そしてイザベラの、五年間の沈黙」
「安定のために人を殺す世界は——もう、終わりです」
静かな一言だった。
だが、議場の空気を変えた。
宰相の弁論が作った「功績の重み」を、セレスティアの一言が、別の天秤に載せた。
功績と犠牲。どちらが重いか。
宰相はセレスティアを見ていた。
長い視線。
「……面白い子だ」
五度目。だが今回は、声が違った。
疲れた声。
「面白い子だ。最後まで」
宰相は壇上を降りた。被告席に戻った。
「弁論を終わります」
議長が槌を打った。
「最終弁論、終了。評議に入る。判決は——本日中に言い渡す。休廷」
◇
休廷。
セレスティアは廊下に出た。
膝が震えていた。
「お嬢様」
ナターシャが水を差し出した。
「ありがとう」
手が震えて水がこぼれた。
「お嬢様。今の発言は、予定にありませんでした」
「うん。でも、言わなきゃいけなかった」
「はい」とナターシャは言った。「あの瞬間に、あの言葉を言える人間が、お嬢様しかいませんでした」
ヴォルフが外套をセレスティアの肩にかけた。冬の廊下は寒い。
「ヴォルフ」
「寒いでしょう」
「うん。寒い」
イザベラが隣に座った。
「セレスティア。お父様は」
「うん」
「お父様は認めた。自分の罪を。初めて」
「うん。認めた」
「それは」
イザベラの声が小さくなった。
「それは終わりなのね。お父様の」
セレスティアはイザベラの手を握った。
何も言わなかった。
言葉はいらなかった。
◇
二時間後。
議場に戻された。
議長が判決文を手にしていた。
「評議を終了する。判決を言い渡す」
議場が水を打ったように静まった。
宰相ヴィクトールは被告席に座っていた。背筋は真っ直ぐ。
セレスティアは拳を握った。
「被告、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ」
議長の声が議場に響いた。五十二人の議員が息を詰めた。傍聴席の数百人が静まった。




