裁判開廷
朝が来た。
冬の朝。空は晴れていた。昨日と同じ、雲のない青。
セレスティアは鏡の前に立った。白いドレス。ラベンダーの髪飾り。星のブローチ。
鏡の中の自分を見た。十四歳。
手が——震えていた。
「お嬢様。朝食を」
ナターシャの声。
「食べられない——」
「食べてください。空腹で法廷に立つのは、お嬢様らしくありません」
「……らしくない、か」
「はい。お嬢様は食べてから戦う人です。蜂蜜のパンケーキを焼きました」
「パンケーキ。泣いた日の」
「泣いた日の、です」
食堂に降りた。
家族が全員いた。父。母。エドヴァルト。フェリクス。イザベラ。
誰も何も言わなかった。
ただ、一緒に朝食を食べた。
パンケーキ。蜂蜜。温かいスープ。焼きたてのパン。
食卓の上の、いつもの朝。
「おいしい」
セレスティアが呟いた。
リリアーナが娘の手を握った。テーブルの下で。
温かい手。
「行ってらっしゃい。帰ってきてね」
「帰ってくる。約束」
◇
貴族院への道は、歩いて覚えている。
何度も来た道だ。九歳から。通い慣れた石畳の道。だが今日は重さが違った。足が重いのではない。道が、空気が、何かを纏っている。
貴族院の門をくぐった。石造りの廊下。高い天井。太陽光が細長い窓から差し込んでいる。
◇
議場が法廷に変わっていた。
中央に被告席。鎖はない。宰相は囚人ではない。まだ。
左に告発側の席。公爵家の法律顧問とヴァルトシュタイン子爵。
右に弁護側の席。空席。宰相は一人で弁論する。
裁判長席には貴族院議長ベッカー伯爵。白髪の老人。中立派。
傍聴席は満員だった。
貴族。商人。外交官。聖職者。新聞記者。王国中が注目する裁判。
セレスティアは傍聴席の最前列に座った。ナターシャ。イザベラ。ヴォルフ。
母リリアーナは二列目に。エドヴァルトが隣で腕を組んでいる。
王族席にアレクシスとエレオノーラ王妃。コンラートが後方に。
議場の扉が開いた。
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエが入ってきた。
正装。白髪を丁寧に整えている。背筋は真っ直ぐ。七十一歳の老人とは思えない威厳。
微笑んでいた。
三十年間、この国を動かしてきた男の微笑み。
被告席に座った。椅子に深く腰掛け、足を組んだ。余裕の姿勢。
入場しながら、議場を一度だけ見渡した。その目がセレスティアの方へ来た。一瞬。宰相の目がセレスティアを捉えた。
笑みが、少しだけ深くなった。
敵意ではない。敬意でもない。
セレスティアの心臓が速くなった。
同じ場所。同じ石の壁。同じ天井の紋章。
前世の記憶が——重なる。
あの時は被告席にいた。鎖に繋がれて。
今は傍聴席にいる。自由な体で。
「お嬢様」
ナターシャが手を握った。
温かい手。
「大丈夫」
「はい。大丈夫です」
議長が槌を打った。
「レグナシオン王国特別裁判。被告、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。——開廷」
槌の音が議場に響いた。
裁判が始まった。
◇
告発側の冒頭陳述。
ヴァルトシュタイン子爵が壇上に立った。
「裁判長。議員の皆様。本裁判は、三十年にわたる宰相の権力濫用を問うものです」
子爵の声は静かだが、鋭かった。鷹のような目が議場を見回す。
「告発側は、以下の五つの罪状について、証拠と証人をもって立証いたします。第一、職権乱用。第二、国庫横領幇助。第三、公爵夫人毒殺未遂教唆。第四、王太子暗殺計画への関与。第五、聖魔力保有者への迫害計画」
「証拠は物的証拠として、宰相自身の手で記された文書群。証人は七名。いずれも宰相の不正を直接知る人物です」
議場がざわめいた。
宰相は微笑んでいた。動じていない。
「弁護側、宰相閣下。冒頭陳述を」
議長が促した。
宰相が立ち上がった。
「裁判長。三十年間、わたくしはこの国に仕えてきました」
声は穏やかだった。議場を包むような声。
「政敵を退け、反乱を鎮め、経済を成長させ、外敵を退けました。この国が今日あるのは、わたくしの功績と申し上げても、過言ではないでしょう」
議場の空気が揺れた。
「告発は全くの虚偽です。政敵による陰謀。公爵家は宰相の権限を奪い、自派の影響力を拡大するために、でっち上げの証拠を用いてわたくしを陥れようとしている」
「証拠として提出されるであろう文書は偽造です。証人は公爵家に懐柔された者たちです。この裁判自体が政争の道具にすぎない」
冷たい声。だが、説得力があった。
セレスティアは唇を噛んだ。
宰相は最初から「偽造」「懐柔」で攻める。証拠の信憑性そのものを崩しにくる。
予想通り。
「冒頭陳述を終わります。お手並み拝見です」
宰相が座った。足を組み直した。微笑みを浮かべたまま。
セレスティアは隣のイザベラを見た。
イザベラの顔は蒼白だった。父の声を聞いて。父の微笑みを見て。
「イザベラ」
「大丈夫。——大丈夫よ」
イザベラの手がセレスティアの手を握り返した。
二人の手が繋がっていた。
「証人の出廷は明日からだ。今日は陳述のみで閉廷する」
議長が槌を打った。
「第一回公判。閉廷」
セレスティアは息を吐いた。
「ナターシャ。宰相は手強い」
「はい。ですが、証拠は本物です。崩されません」
「崩されなければ勝てる」
「勝てます。明日から、証人が立ちます」
ナターシャが傍に寄ってきた。
「お嬢様。今日の第一日目。どうでしたか」
「思ったより——怖かった。宰相の顔を、あんなに近くで見て」
「それは当然です。でも、お嬢様は傍聴席で座っていられた。手が震えていなかった」
「震えてたよ。心の中で」
「心の中は見えません。見えたのは、落ち着いて観察しているお嬢様でした。それが大事です」
朝が来た。
冬の朝。空は晴れていた。昨日と同じ、雲のない青。
セレスティアは鏡の前に立った。白いドレス。ラベンダーの髪飾り。星のブローチ。
鏡の中の自分を見た。十四歳。
手が——震えていた。
「お嬢様。朝食を」
ナターシャの声。
「食べられない——」
「食べてください。空腹で法廷に立つのは、お嬢様らしくありません」
「……らしくない、か」
「はい。お嬢様は食べてから戦う人です。蜂蜜のパンケーキを焼きました」
「パンケーキ。泣いた日の」
「泣いた日の、です」
食堂に降りた。
家族が全員いた。父。母。エドヴァルト。フェリクス。イザベラ。
誰も何も言わなかった。
ただ、一緒に朝食を食べた。
パンケーキ。蜂蜜。温かいスープ。焼きたてのパン。
食卓の上の、いつもの朝。
「おいしい」
セレスティアが呟いた。
リリアーナが娘の手を握った。テーブルの下で。
温かい手。
「行ってらっしゃい。帰ってきてね」
「帰ってくる。約束」
◇
貴族院への道は、歩いて覚えている。
何度も来た道だ。九歳から。通い慣れた石畳の道。だが今日は重さが違った。足が重いのではない。道が、空気が、何かを纏っている。
貴族院の門をくぐった。石造りの廊下。高い天井。太陽光が細長い窓から差し込んでいる。
◇
議場が法廷に変わっていた。
中央に被告席。鎖はない。宰相は囚人ではない。まだ。
左に告発側の席。公爵家の法律顧問とヴァルトシュタイン子爵。
右に弁護側の席。空席。宰相は一人で弁論する。
裁判長席には貴族院議長ベッカー伯爵。白髪の老人。中立派。
傍聴席は満員だった。
貴族。商人。外交官。聖職者。新聞記者。王国中が注目する裁判。
セレスティアは傍聴席の最前列に座った。ナターシャ。イザベラ。ヴォルフ。
母リリアーナは二列目に。エドヴァルトが隣で腕を組んでいる。
王族席にアレクシスとエレオノーラ王妃。コンラートが後方に。
議場の扉が開いた。
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエが入ってきた。
正装。白髪を丁寧に整えている。背筋は真っ直ぐ。七十一歳の老人とは思えない威厳。
微笑んでいた。
三十年間、この国を動かしてきた男の微笑み。
被告席に座った。椅子に深く腰掛け、足を組んだ。余裕の姿勢。
入場しながら、議場を一度だけ見渡した。その目がセレスティアの方へ来た。一瞬。宰相の目がセレスティアを捉えた。
笑みが、少しだけ深くなった。
敵意ではない。敬意でもない。
セレスティアの心臓が速くなった。
同じ場所。同じ石の壁。同じ天井の紋章。
前世の記憶が——重なる。
あの時は被告席にいた。鎖に繋がれて。
今は傍聴席にいる。自由な体で。
「お嬢様」
ナターシャが手を握った。
温かい手。
「大丈夫」
「はい。大丈夫です」
議長が槌を打った。
「レグナシオン王国特別裁判。被告、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。——開廷」
槌の音が議場に響いた。
裁判が始まった。
◇
告発側の冒頭陳述。
ヴァルトシュタイン子爵が壇上に立った。
「裁判長。議員の皆様。本裁判は、三十年にわたる宰相の権力濫用を問うものです」
子爵の声は静かだが、鋭かった。鷹のような目が議場を見回す。
「告発側は、以下の五つの罪状について、証拠と証人をもって立証いたします。第一、職権乱用。第二、国庫横領幇助。第三、公爵夫人毒殺未遂教唆。第四、王太子暗殺計画への関与。第五、聖魔力保有者への迫害計画」
「証拠は物的証拠として、宰相自身の手で記された文書群。証人は七名。いずれも宰相の不正を直接知る人物です」
議場がざわめいた。
宰相は微笑んでいた。動じていない。
「弁護側、宰相閣下。冒頭陳述を」
議長が促した。
宰相が立ち上がった。
「裁判長。三十年間、わたくしはこの国に仕えてきました」
声は穏やかだった。議場を包むような声。
「政敵を退け、反乱を鎮め、経済を成長させ、外敵を退けました。この国が今日あるのは、わたくしの功績と申し上げても、過言ではないでしょう」
議場の空気が揺れた。
「告発は全くの虚偽です。政敵による陰謀。公爵家は宰相の権限を奪い、自派の影響力を拡大するために、でっち上げの証拠を用いてわたくしを陥れようとしている」
「証拠として提出されるであろう文書は偽造です。証人は公爵家に懐柔された者たちです。この裁判自体が政争の道具にすぎない」
冷たい声。だが、説得力があった。
セレスティアは唇を噛んだ。
宰相は最初から「偽造」「懐柔」で攻める。証拠の信憑性そのものを崩しにくる。
予想通り。
「冒頭陳述を終わります。お手並み拝見です」
宰相が座った。足を組み直した。微笑みを浮かべたまま。
セレスティアは隣のイザベラを見た。
イザベラの顔は蒼白だった。父の声を聞いて。父の微笑みを見て。
「イザベラ」
「大丈夫。——大丈夫よ」
イザベラの手がセレスティアの手を握り返した。
二人の手が繋がっていた。
「証人の出廷は明日からだ。今日は陳述のみで閉廷する」
議長が槌を打った。
「第一回公判。閉廷」
セレスティアは息を吐いた。
「ナターシャ。宰相は手強い」
「はい。ですが、証拠は本物です。崩されません」
「崩されなければ勝てる」
「勝てます。明日から、証人が立ちます」
ナターシャが傍に寄ってきた。
「お嬢様。今日の第一日目。どうでしたか」
「思ったより——怖かった。宰相の顔を、あんなに近くで見て」
「それは当然です。でも、お嬢様は傍聴席で座っていられた。手が震えていなかった」
「震えてたよ。心の中で」
「心の中は見えません。見えたのは、落ち着いて観察しているお嬢様でした。それが大事です」




