裁判前夜
裁判前夜。
セレスティアは眠れなかった。
ベッドの中で目を開けている。天井を見ている。蝋燭は消した。窓から月明かりが差し込んでいる。
枕元にラベンダーの小袋。いつもの匂い。でも今夜は眠れない。
前世の記憶が蘇る。
あの法廷。同じ貴族院の議場。同じ石造りの壁。同じ天井の紋章。
だが、全てが違った。
前世では鎖に繋がれていた。手首に鉄の輪。足にも。動けなかった。
前世では偽りの証拠を突きつけられた。「王太子暗殺未遂の犯人」として。セレスティアの魔力紋が偽造された証拠。
前世では誰一人、味方がいなかった。
父はもう処刑されていた。兄たちも。母は毒で倒れていた。ナターシャはいなかった。前世にはナターシャがいなかった。
一人だった。
法廷の被告席で。鎖に繋がれて。嘲笑する声の中で。——一人だった。
「有罪」
判決が下された時、泣くことすらできなかった。涙は枯れていた。
処刑台に立った時、空は灰色だった。
最後に見たのは群衆の顔。知らない人たちの顔。
誰も泣いていなかった。
「……っ」
セレスティアはベッドの上で体を起こした。
手が震えていた。
心臓が速い。息が浅い。
「大丈夫、大丈夫。ここは今世。前世じゃない」
自分に言い聞かせた。
胸に手を当てた。心臓の鼓動。とくん。とくん。
フェリクスが教えてくれた安定化の呼吸法。吸って。止めて。吐いて。
少しずつ心拍が落ち着いていく。
でも恐怖は消えない。
明日。同じ場所に立つ。今度は傍聴席から。証言台から。
同じ法廷。
「怖い——」
声が小さく漏れた。
コンコン。
扉がノックされた。
「お嬢様。起きていらっしゃいますか」
マルガレーテの声。家政婦長。
「マルガレーテ。起きてるよ」
扉が開いた。
マルガレーテが温かいミルクを持っていた。湯気が立っている。蜂蜜入り。
「眠れないだろうと思いまして。温かいミルクを」
「ありがとう」
マルガレーテが枕元に座った。大きな体。温かい手。
「お嬢様。大丈夫ですよ」
「大丈夫かな」
「大丈夫です。みんながいますから。明日も。明後日も。ずっと」
マルガレーテの声は穏やかだった。子供をあやすような。
セレスティアはミルクを受け取った。両手で包んだ。温かい。
「マルガレーテ。怖いの」
「怖くて当然です。怖くないほうがおかしい」
「でも」
「でも、お嬢様は今まで怖くても全部やってきたじゃないですか。七歳の時も。十一歳の時も。十三歳の時も。怖いまま、立ってきた」
「立ってきた」
「はい。明日も立てます。わたしが保証します」
「マルガレーテが保証してくれるの」
「はい。家政婦長の権限で。お嬢様が立てなかったら、わたしが背中を押します。物理的に」
セレスティアが笑った。小さく。
「物理的」
「大きい手ですから。お嬢様一人くらい、押せますよ」
ミルクを飲んだ。甘かった。温かかった。
「ありがとう、マルガレーテ」
「いいえ。おやすみなさい、お嬢様」
マルガレーテが退室した。
一人になった。
ミルクの温かさが体に染みていく。
コンコン。
またノック。
「お嬢様。ナターシャです」
「入って」
ナターシャが入ってきた。手に小さな封筒。
「お嬢様。夕方届いた手紙です。渡しそびれていました」
「誰から」
「フリーデリケさんからです」
封を切った。
フリーデリケの字。丸い字。
『セレスちゃんへ。
明日、大事な日なんでしょう? わたしには何も言わなくていいよ。
でも一つだけ。
石段で待ってます。帰ってきてね。
ラベンダー蜂蜜パン、焼いたよ。すっごくおいしくできた。自信作。早く食べてほしいから、早く帰ってきて。
フリーデリケより
追伸。チーズパンも焼きました。殿下の分。』
手紙を胸に押し当てた。
目から涙がこぼれた。
フリーデリケは何も知らない。裁判のことも。宰相のことも。前世のことも。
何も知らないのに「帰ってきてね」と書いてくれる。
パンを焼いて待っていてくれる。
「フリーデリケ」
涙が止まらなかった。
怖くて泣いているのか。嬉しくて泣いているのか。分からなかった。両方かもしれない。
ナターシャが黙ってハンカチを差し出した。
「ナターシャ。泣いちゃった」
「泣いていいんです。泣いた後に立てばいい」
「立つ。明日」
「はい。明日」
セレスティアは涙を拭いた。ハンカチがラベンダーの匂いがした。
「ナターシャ。前世の裁判は、一人だった」
「聞いています」
「今世は違う。お父様がいる。おにいさまがいる。お母様がいる。ナターシャがいる。ヴォルフがいる。イザベラがいる。コンラートがいる。ヴィオレッタがいる。リディアがいる。アネリーゼがいる。フリーデリケがいる。殿下がいる」
「はい」
「一人じゃない——」
「一人じゃありません。ずっと」
セレスティアはラベンダーの小袋を握りしめた。
フリーデリケの手紙を手帳に挟んだ。カール元財務卿との面会の日のページに。
手帳にはもう一通、アネリーゼの手紙も挟まっている。
二人分の祈りが手帳の中にある。
「寝る。明日に備えて」
「はい。おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみ、ナターシャ」
「良い夢を」
「良い夢。見れるかな」
「見れます。ラベンダーの効能です」
セレスティアは少し笑った。
ベッドに横になった。フリーデリケの手紙の言葉を胸に。
目を閉じた。
怖い。
でも一人じゃない。
◇
眠りに落ちる直前、夢を見た。
石段。
フリーデリケが座っている。丸いパンを持って。
「おかえり、セレスちゃん」
「ただいま——」
「パン、食べる?」
「食べる」
温かいパン。蜂蜜のやさしい甘さ。
おいしかった。
夢の中でもおいしかった。
そのまま朝まで眠った。




