カスパルの排除
王宮の拘置房。
石の壁。鉄格子。小さな窓から差し込む冬の光。
カスパル・ヴェルナーは椅子に座っていた。
穏やかな笑みを浮かべて。拘束されてなお微笑みを崩さない男。
その前にアレクシスが立った。
「殿下。お久しぶりでございます」
カスパルの声は柔らかかった。十年間、アレクシスの傍で囁き続けた声。
「カスパル」
アレクシスの声は硬かった。だが震えてはいない。
コンラートが扉の外に立っている。ジークフリート騎士団長が許可した面会。護衛は万全。
「殿下が直接おいでくださるとは光栄でございます。お茶もお出しできない環境で恐縮ですが」
「茶はいい。話がある」
「何なりと」
アレクシスがカスパルの目を見た。
十年間見てきた目。穏やかな目。導くような目。だが今は、その目の裏にあるものが見える。
計算。監視。操作。
「カスパル。お前は、何年間僕の傍にいた」
「十年でございます。殿下が三歳の頃から」
「十年。その十年間、お前は誰のために働いていた」
カスパルの微笑みが微かに揺れた。
「殿下のために」
「嘘だ」
静かな声。だが鋭い。
「お前は宰相のために働いていた。僕の傍で僕を監視し、僕の情報を宰相に流していた。コンラートが証拠を掴んだ。宰相邸に密書を送る現場を」
カスパルの微笑みが消えた。
完全には消えない。口元には残っている。だが目から光が消えた。
「……殿下」
「カスパル。僕はお前に育てられた。お前の言葉で考え方を学んだ。お前がいなければ僕は文字も読めなかっただろう」
「光栄でございます」
「だがお前が僕に教えたことは、全て宰相に都合のいい教えだった。『王は臣下に頼るべきだ』。『自分で判断するのは危険だ』。『信頼できる助言者に従え』。全部、僕を従順にするための言葉だった」
カスパルは黙った。
「お前は僕を宰相の人形にしようとしていた」
沈黙。
鉄格子の向こうで冬の光が差している。
「殿下。わたくしは、命じられたことをしただけでございます」
「知っている。お前は宰相に命じられた。だがカスパル、お前にも選択肢はあった。拒否することもできた」
「拒否すれば、わたくしの家族が」
「家族」
「宰相はわたくしの家族を人質にしていました。弟が宰相の管理する養成機関に在籍しています。妹が宰相派の貴族の下で働いています。拒否すれば、二人に何が起きるか」
アレクシスの表情が変わった。
人質。
「……カスパル」
「殿下を監視することに良心の呵責がなかったわけではありません。殿下は良い子でした。純粋で。わたくしが教えた嘘を、疑いもなく信じてくれた」
カスパルの微笑みが崩れた。
「殿下。申し訳ございませんでした」
頭を下げた。深く。
アレクシスは何も言えなかった。しばらく。
「……カスパル。お前を許すかどうかは今は決められない。だが」
「だが?」
「お前が証言してくれるなら、家族は僕が守る。弟も。ほかの家族も。宰相の手が届かないところに移す」
カスパルの目が揺れた。
「殿下がわたくしの家族を」
「僕は王太子だ。臣下の家族を守るくらいはできる。いや、するべきだ」
カスパルの目から——涙が零れた。
微笑みの男が泣いた。
「……分かりました。証言します。——全てを。宰相の指示。監視の方法。報告の内容。全てを」
「ありがとう、カスパル」
「殿下。十年間お仕えしたことは、全てが嘘ではありませんでした。殿下に文字を教えた時、嬉しかったのは本当です」
アレクシスの拳が震えた。
「カスパル。お前は下がれ。もう、僕の傍にはいられない」
「承知いたしました」
「だが死ぬな。生きろ。証言した後も。お前の弟と家族のために」
カスパルが深く頭を下げた。
「殿下は。殿下は変わられました。三歳の頃の、あの、泣いてばかりの殿下とは」
「泣いてばかりだったか」
「はい。よくお泣きになりました。でも今は」
「今は——泣かない。泣いても立つ」
アレクシスは背を向けた。拘置房を出た。
廊下でコンラートが待っていた。
「殿下。お疲れ様です」
「コンラート。カスパルの弟と家族を、騎士団の保護下に置いてくれ」
「承知いたしました」
「それと」
アレクシスが立ち止まった。
「カスパルに毛布を差し入れてくれ。拘置房は寒い」
コンラートが少しだけ目を見開いた。
「……はい」
「許せないが——恨みきれない。十年間の全部が嘘じゃなかったから」
アレクシスは歩き出した。
コンラートが後ろを歩いた。半歩下がって。
「殿下。セレスティア嬢に報告を」
「ああ。カスパルは証言する。これで七人目、全員が揃った」
◇
公爵邸。
セレスティアは報告を聞いた。
「カスパルが証言する」
「はい。殿下が直接説得されました」
ナターシャの報告。
「殿下が」
「家族の保護を約束して。殿下の判断です」
セレスティアの目が潤んだ。
「殿下、成長したね」
「はい。もう、お嬢様が全てを指示しなくても」
「指示していたわけじゃないけど」
「していましたよ。昔は。殿下の行動を、一つ一つ」
「……そうだったかも」
「今の殿下は自分で歩けます。お嬢様が手を離しても」
「手を離す。まだ離さないよ」
「離さなくていいです。でも、握り方が変わりましたね。引っ張るのではなく、並んで」
セレスティアは少し赤くなった。
「ナターシャ。話を戻して」
「はい。証人七名。全員確保。証言の準備が整い次第、告発に移れます」
「あと何日」
「十日です。十日で全ての証言内容を整理し、告発書を完成させます」
十日。
「お嬢様。手紙が届いています」
「誰から」
「アネリーゼ様から。神殿より」
封を切った。
アネリーゼの字。柔らかい字。ミントの香りがする便箋。
『セレスティアさんへ。
裁判の準備が進んでいると聞きました。わたしにできることは多くありませんが、祝福の祈りを捧げています。毎朝、毎晩。
大神官猊下が、裁判について一言おっしゃいました。『正義は天秤のようなものだ。どちらに傾くかは、証拠の重さではなく、真実の重さで決まる』と。
セレスティアさんの側に真実があります。わたしは信じています。
裁判が終わったら、神殿の庭でお茶を飲みましょう。新しいハーブを育てたの。カモミール。安眠に効くのよ。
アネリーゼより』
手紙を胸に押し当てた。
「ナターシャ。わたしは幸せ者だ」
「突然ですね」
「突然じゃない。ずっと思ってた。こんなに多くの人が一緒に戦ってくれるなんて」
「お嬢様が一緒に戦いたいと思わせる人だからです」
「わたしが」
「はい。さ、紅茶をどうぞ。蜂蜜入りです」
「毎日ありがとう」
「毎日がプレゼントですから」
紅茶を飲んだ。
甘かった。温かかった。




