マティアスの反撃
マティアスは追い詰められていた。
廃嫡請願は否決された。ルシアンは謹慎処分。面会制限で接触も断たれた。
宰相との関係は修復不能。大議会でイザベラが反旗を翻した後、宰相はマティアスへの指示を一切出さなくなった。無視。それが宰相の答えだった。
孤立。
マティアスの周囲に残っているのは、私兵と、闇市場の人脈だけ。
「……追い詰められた獣は——噛みつく」
マティアスは執務室で呟いた。
一つだけ手がある。
公爵家が宰相邸に潜入した。マティアスはそれを知っている。証拠はないが、確信がある。
イザベラが公爵家に身を寄せた直後に、宰相邸の警備に異変があった。深夜。東棟。巡回の記録に、わずかな空白。三十分。
あの夜、誰かが入った。
金庫を開けた。
宰相の記録を持ち出した。
「証拠はない。だが」
マティアスは賭けに出た。
◇
翌日。貴族院。
マティアスが緊急動議を提出した。
「公爵家による宰相邸への不法侵入の疑惑。調査を要求する」
議場がざわめいた。
セレスティアは傍聴席で背筋が冷えた。
「不法侵入の」
ナターシャが囁いた。「気づかれた」
「証拠は」
「分かりません。ですが、マティアスが動議を出した以上、何らかの根拠があるはずです」
マティアスが壇上に立った。
「議員諸君。わたくしは副宰相として、宰相邸の管理にも責任を持っています。先日の夜、宰相邸の東棟に不審な痕跡がありました。巡回記録の空白。窓枠の微細な傷。何者かが侵入した疑いがあります」
窓枠の傷。ヴォルフがナイフで開けた時の痕跡か。
「そして、侵入の翌日、公爵家は宰相閣下の告発を準備し始めました。偶然でしょうか。宰相邸から何かを持ち出し、それを証拠にしようとしているのではないでしょうか」
議場がどよめいた。
公爵ライナルトが立ち上がった。
「副宰相の主張は推測にすぎません。証拠はあるのですか」
「証拠は調査すれば出てきます。宰相邸の調査を」
「推測で調査を要求するのは、手続きの乱用です」
「では公爵、不法侵入はなかったと、誓えますか」
議場が静まった。
セレスティアの心臓が速くなった。
公爵は嘘はつけない。正面から聞かれれば。
だが。
「ガルニエ副宰相」
声が割り込んだ。
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。
宰相が立ち上がっていた。微笑みは消えていた。
「マティアス。——何をしている」
「閣下。わたくしは公爵家の不正を」
「証拠もなく騒ぐな。——みっともない」
議場が凍った。
宰相が自分の部下を、公の場で切り捨てた。
「副宰相の動議は根拠がない。議長、動議の却下を求めます」
議長が頷いた。
「証拠の提示がない以上、動議は却下とします」
マティアスの顔が歪んだ。
宰相に切り捨てられた。公の場で。
なぜ。
宰相は知っているはずだ。金庫が開けられた可能性を。イザベラが情報を漏らした可能性を。
だが宰相はマティアスの告発を潰した。
宰相は自分の秘密を守るために、マティアスを切り捨てた。
マティアスは完全に見限られた。
◇
議場の外。廊下。
マティアスが壁に拳を打ちつけていた。
「宰相が——わたしを——」
二十年。二十年仕えた主に、公の場で「みっともない」と言われた。
「許さない」
マティアスの目が暗い。もはや計算の目ではない。憎悪の目。
宰相も。公爵家も。セレスティアも。
全員を敵に回された。
「ルシアンが使えないなら、別の手を」
マティアスは廊下を歩いた。足音が荒い。
◇
公爵邸。夕方。
セレスティアは書斎でヘルマンと話していた。
「マティアスの動議は潰された。宰相が自分で潰した」
「はい。宰相は自分の秘密を守ることを優先しました。マティアスの告発よりも」
「つまり、宰相は金庫が開けられた可能性を知っている」
「はい。知った上で隠す方を選んだ。金庫の存在が公になれば、宰相自身が終わるから」
「でも、証拠は既にこちらにある」
「はい。宰相は転写されたことに気づいていない可能性があります。原本が動いていない以上」
「フェリクスおにいさまの転写術は完璧だった」
「はい。痕跡は一切ありません」
セレスティアは少し安堵した。だが。
「マティアスが心配」
「はい。公の場で宰相に切り捨てられた男は、何をするか分かりません」
「ルシアンとの接触も断たれた。残っている手は」
「暴力——です。政治的手段を失った人間が最後に頼るのは」
セレスティアは窓の外を見た。夕焼け。赤い空。
「護衛を強化する。全員の。マティアスは何をしてくるか分からない」
「承知いたしました」
「それと、裁判の準備を加速する。マティアスが暴走する前に、宰相を倒す。宰相が倒れれば、マティアスの後ろ盾は完全に消える」
「時間との戦いですね」
「いつもそう」
ヘルマンが退室した。
一人になった書斎。
セレスティアは深呼吸した。
「一つずつ」
ナターシャが紅茶を持ってきた。
「お嬢様。蜂蜜入りです」
「ありがとう」
「今日も長い一日でしたね」
「うん。でも、終わった。明日は裁判の準備」
「はい。証人の確保を始めましょう」
紅茶を飲んだ。甘かった。




