王宮祭典の夜
大広間。
千人を超える来賓が集まっていた。貴族。商人。外交官。聖職者。軍人。王国の全ての層が、この一夜に凝縮されている。
シャンデリアの灯りが黄金色に輝いている。壁に掛けられた王家の紋章。床は磨き上げられた大理石。楽団が優雅な弦楽を奏でている。
セレスティアは傍聴席に座った。
隣にナターシャ。後ろにヴォルフとカタリナ。二列前にイザベラ。
壇上を見た。
大理石のタイル。その下に魔法陣が眠っている。闇系統の攻撃魔術。時限式。起動すれば、壇上に立つ者を直撃する。
致死級。
だがフェリクスが動いている。
壇上の左手。楽団の陰にフェリクスの姿があった。白衣ではなく正装。眼鏡の奥の目が鋭い。
手を壇上の床にかざしている。微弱な魔力で、魔法陣の構造を読み取っている。
無効化は祭典開始の直前。人々が席に着き、注目が壇上に集まる前に。
時計を見た。祭典開始まで十五分。
「ナターシャ。フェリクスおにいさまの状況は」
「順調です。あと十分で無効化完了の見込み」
「マティアスは」
「大広間の東側。宰相の近くに座っています。特に不審な動きはありません」
「宰相は」
「正面の貴賓席。微笑んでいます。いつも通り」
いつも通りの微笑み。あの男は昨日の大議会で法案を否決されたばかりだ。娘に裏切られたばかりだ。なのに微笑んでいる。
怖い人だ。
「殿下は」
「控室です。祭典開始と同時に壇上に上がります。コンラートが傍にいます」
「ルシアンは」
「貴賓席の最後列。マティアスと離れた位置ですが、視線が何度か交差しています」
視線の交差。合図か。
「警戒を」
「はい」
十分が過ぎた。
フェリクスが壇上から離れた。楽団の陰を通り、傍聴席の方へ歩いてくる。
セレスティアの横を通り過ぎる時、小さく頷いた。
無効化完了。
魔法陣は死んだ。もう起動しない。
セレスティアは息を吐いた。肩の力が抜ける。
一つ片付いた。
トランペットが鳴った。
「王太子殿下の御入場」
壇上にアレクシスが現れた。
金髪。青い目。正装の軍服。十三歳の王太子。半年前より背が伸びている。顔立ちが大人びている。
壇上に立った。
——セレスティアの心臓が跳ねた。
魔法陣は無効化した。分かっている。安全だ。分かっている。
「殿下」
小さく呟いた。
アレクシスが傍聴席を見た。セレスティアを見つけた。
微かに頷いた。
大丈夫。
その頷きがそう言っていた。
アレクシスが挨拶を始めた。
「本日は王宮祭典にお集まりいただき」
声がはっきりしていた。前回の祭典より堂々としている。カスパルに書かされた原稿ではなく、自分の言葉で話している。
「この一年、王国は多くの試練に直面しました。父王の病。政治の混乱。ですが、我々は乗り越えてきた」
議場が静まった。
「国とは、一人の王のものではありません。ここにいる全ての人のものです。貴族も。商人も。市民も。全員のものです」
セレスティアの目が熱くなった。
「わたくしは王太子として、この国の全ての人のために働くことを誓います。それがわたくしの使命です」
拍手。
大広間が拍手に包まれた。
セレスティアは拍手しながら、涙を堪えた。
隣でナターシャも拍手していた。右腕の包帯が袖口からのぞいている。
「お嬢様。殿下は立派でした」
「うん。本当に」
アレクシスが壇上を降りた。
祭典の本番が始まる。舞踏。会食。歓談。
だがセレスティアの仕事は終わっていなかった。
◇
舞踏の時間。
音楽が流れている。ワルツ。
貴族たちが踊り始めた。色とりどりのドレスが回転する。
セレスティアは壁際に立っていた。
「踊らないの?」
イザベラが隣に来た。紺色のドレス。
「踊る相手がいないから」
「嘘。殿下がこっちを見てるわよ」
振り返った。
大広間の反対側。アレクシスが確かにこちらを見ていた。コンラートが隣に立っている。
目が合った。
アレクシスが歩いてきた。
「セレスティア」
「殿下。挨拶、立派でした」
「お前の影響だ」
「わたしの」
「『国は全員のもの』。お前が昔、石段で言ったことだ」
「覚えてるの」
「忘れない。お前の言葉は全部覚えている」
セレスティアの頬が赤くなった。
「殿下。人前で」
「人前でいい。踊るか」
「え」
「祭典だ。踊るのは普通だろう」
アレクシスが手を差し出した。白い手袋。
セレスティアは息を一つ吸って、手を取った。
ワルツが流れている。
二人が踊り始めた。
大広間の視線が集まった。王太子と公爵令嬢。婚約者候補。政治的な意味を誰もが読み取ろうとしている。
「殿下。ステップ、上手くなった」
「コンラートに練習させられた」
「コンラートがダンスを。想像できない」
「無表情のまま踊る。怖いぞ」
セレスティアが笑った。
アレクシスの手がセレスティアの腰を支えている。温かい。
「殿下。祭典が終わったら」
「石段だろう? 覚えている。約束は守る」
「フリーデリケのパンを持って行く。チーズ入りの」
「楽しみだ」
くるりと回った。藤色のドレスが広がった。
一瞬、セレスティアの視界に、壁際のマティアスが映った。暗い目でこちらを見ている。
背筋が冷えた。
でもアレクシスの手が温かかった。
「どうした。顔色が」
「なんでもない。踊ろう。もう少し」
「ああ。もう少し」
音楽が続いている。二人は踊った。
◇
祭典の後半。会食の時間。
セレスティアは席に着いた。
隣にナターシャ。向かいにヴィオレッタ。
「セレスティア。殿下と踊ってたわね」
ヴィオレッタがにやりと笑った。赤い巻き髪が揺れる。
「踊っただけ」
「踊っただけで顔が赤いのね。可愛い」
「ヴィオレッタ。からかわないで」
「からかってないわ。素敵だったと言ってるの」
ヴィオレッタの声は温かかった。
「それより、票読みの最終結果は」
ヴィオレッタの表情が切り替わった。政治の顔。
「大議会の結果を受けて、中立派の流れが変わってる。イザベラの発言が効いた。宰相派から離反者が出始めてる」
「離反」
「大議会で立たなかった若い議員。あの子、実はイザベラの幼馴染なの。イザベラに影響されて、宰相派に疑問を持ち始めた」
「イザベラの友達」
「ええ。今は一人だけど。もう少し崩せるかもしれない」
「ヴィオレッタ。頼りにしてる」
「任せて。票を動かすのはわたしの仕事よ」
ヴィオレッタがワインを一口飲んだ。十三歳だが、水で割ったものを。
「セレスティア。今夜は楽しんだ?」
「楽しんだ。今夜だけは」
「それでいいの。明日からまた戦いだから。今夜くらい笑っていなさい」
「ヴィオレッタ」
「なに?」
「ありがとう。いつも」
「感謝されるほどのことはしてないわ。友達だもの」
ヴィオレッタが微笑んだ。
◇
祭典が終わった。
深夜。大広間から人が引き始める。
セレスティアは出口に向かった。
——すれ違った。
壁際に立つ男。マティアス。
目が合った。
暗い目。獣のような目。飢えた目。
「公爵令嬢。今夜は楽しかったかね」
マティアスの声。低い。
「ええ。楽しかったです」
「それは良かった。楽しい夜は、長くは続かないものだが」
微笑んだ。温度のない笑み。
セレスティアは立ち止まらなかった。通り過ぎた。
ヴォルフがマティアスとセレスティアの間に体を入れた。壁になるように。
馬車に乗った。
「ナターシャ。マティアスが」
「はい。見ていました」
「あの目。何かを企んでる」
「はい。ですが、今夜は何も起きませんでした。魔法陣は無効化された。ルドルフは動いていない。祭典は無事に終わりました」
「無事に」
「はい。殿下も。お嬢様も。全員、無事です」
セレスティアは息を吐いた。
無事だ。
祭典は終わった。アレクシスは無事だ。魔法陣は無効化した。
そして宰相を追い詰める証拠が手元にある。
「ナターシャ。明日から、裁判の準備に入る」
「はい」
「宰相を告発する。この証拠を使って」
「はい。お嬢様」
「なに」
「今夜、殿下と踊った時、とても綺麗でした」
「——急に何」
「言いたかっただけです。戦いの話の前に」
セレスティアの頬がまた赤くなった。
馬車が王都別邸に着いた。
夜空に星が出ていた。雲の切れ間から。
「帰ってきた」
「おかえりなさいませ」
星が瞬いた。




