潜入作戦
祭典前夜。深夜零時。
月は雲に隠れていた。闇の夜。潜入には最適。
王都別邸の裏口から、四つの影が出た。
ヴォルフ。ナターシャ。フェリクス。カタリナ。
セレスティアは見送った。裏口で。ランタンの灯りを遮りながら。
「全員、帰ってきて」
「お嬢様。必ず」
ナターシャが頷いた。右腕の包帯は外していた。痛みはまだあるはずだが、顔には出さない。
ヴォルフは何も言わなかった。ただ一つ頷いた。
フェリクスが眼鏡を拭いた。
「セレス。金庫の中身は全て複写する。原本は動かさない。宰相に気づかれないように」
「複写。魔術で?」
「ああ。転写術。文書の内容を白紙に移す。痕跡は残らない」
「おにいさま。気をつけて」
「気をつけるのは鍵を開ける十分だけだ。あとはヴォルフとナターシャの仕事」
カタリナが最後に声をかけた。背の高い女性。辺境伯家で実戦を積んだ騎士。赤い髪を頭の高い位置で束ねている。
「お嬢様。外周は任せてください。蟻一匹通しません」
「蟻は通していいよ。人を通さないで」
カタリナがにっと笑った。
四人が闇の中に消えた。
セレスティアは裏口の扉を閉めた。
書斎に戻った。イザベラが待っていた。宰相邸の見取り図を広げたまま。
「行った?」
「行った。あとは待つだけ」
「待つのが一番辛いわね」
「うん。自分が行った方がまだ楽」
ナターシャが淹れた紅茶が冷めている。飲む気になれない。
「イザベラ。邸の警備の巡回パターンは」
「深夜は二人一組で三十分おき。東棟は手薄。お父様が書斎を使うのは昼間だけだから」
「フェリクスおにいさまが封印錠を開けるのに十分。金庫の書類を複写するのに、どのくらいかかる?」
「書類の量にもよるけど、三十分はかかると思う」
「三十分。巡回の間に」
「ぎりぎりね」
「ぎりぎり、か」
セレスティアは見取り図を見つめた。宰相邸の三階、東端の書斎。窓は東向き。
「窓からの脱出経路は」
「三階の窓から屋根伝いに北棟へ。北棟の裏手に庭木が茂っている場所がある。そこから塀を越えれば裏路地に出る」
「ニコラスが裏路地に馬車を用意してる。脱出は三分以内」
「三分」
「ヴォルフなら一分」
二人で見取り図を睨んでいた。
待つしかない。信じて。
◇
宰相邸。東棟。
ヴォルフが先行した。闇の中を音もなく。
塀を越えた。庭を横切った。
警備の巡回をイザベラの情報通りに避ける。東棟の壁に取り付いた。
ナターシャが続いた。左手だけで壁を登る。右腕は使えるが、全力は出せない。
フェリクスが最後。白衣は脱いでいる。黒い外套。眼鏡が月明かりを反射しないよう曇り止めを塗ってある。
三階の窓。
ヴォルフが窓枠を確認した。罠はない。通常の鍵。ナイフの刃先で十秒で開けた。
室内に入った。
書斎。暗い。蝋燭はない。窓から入る微かな光だけ。
「フェリクス様。封印錠は、あちらです」
ナターシャが奥の扉を指した。書斎の奥。もう一つの部屋。
フェリクスが扉に近づいた。手をかざした。
「……複雑だな。だがイザベラの情報通り。魔力紋認証型。構造は」
目を閉じた。魔力で封印錠の構造を読み取る。
三分。
五分。
七分。
ナターシャが窓際で外を見ている。ヴォルフが扉の前で待機。
「巡回が来ます。一階を通過中」
ナターシャの声。小さい。
「あと三分」
フェリクスの額に汗が浮いている。封印錠の魔力パターンを解析し、疑似的な魔力紋を生成する。繊細な作業。
九分。
——カチリ。
錠が開いた。
「開いた」
フェリクスが息を吐いた。
「十分以内。さすが、おにいさま」
ナターシャが呟いた。セレスティアの口癖がうつっている。
奥の部屋に入った。
本棚。壁一面の本棚。イザベラが言った通り、三段目の右から四冊目。
ヴォルフが本を引いた。
本棚の一部が横にスライドした。
金庫。鉄製。古い。だが頑丈。
「これは魔術式ではない。物理錠」
ヴォルフがポケットからピックを取り出した。
「二分ください」
一分四十秒で開いた。
金庫の扉がゆっくり開いた。
中には書類の束。何十もの封筒。年代順にラベルが貼られている。
ナターシャが中を覗き込んだ。灰色の瞳が素早く書類を読み取る。
「年代順。一番古いものは三十年前。一番新しいものは先月」
「先月」
「大議会の法案に関する書類。宰相自身のメモ。そして」
ナターシャが一通の封筒を抜き出した。
表書き。宰相の筆跡。
『アルヴェイン公爵令嬢の排除に関する計画書』
「これです」
ナターシャの手が震えていた。
「フェリクス様。転写を」
「ああ。全て複写する。一枚も残さない」
フェリクスが白紙を広げた。手をかざした。魔力が淡く光る。
転写術。文書の内容を別の紙に移す高等魔術。原本には一切触れない。インクの筆跡まで完全に複製する。
一枚。二枚。三枚。
ナターシャが封筒を次々と開封し、フェリクスに渡す。フェリクスが転写する。ヴォルフが窓際で警戒。
十分。
十五分。
二十分。
「巡回。二階を通過」
ヴォルフの声。
「あと何枚」
「十二枚」
二十五分。
二十八分。
「最後の一枚」
フェリクスの手が光った。最後の転写。
完了。
「全て複写しました」
ナターシャが金庫の書類を元に戻した。封筒の位置。角度。埃の乗り方まで記憶して、再現した。
金庫を閉めた。本棚を戻した。
封印錠をフェリクスが再封印した。
「痕跡はない。宰相が開けても、何も変わっていないように見える」
「完璧」
窓から脱出。屋根伝いに北棟へ。庭木を伝って塀を越える。
裏路地。ニコラスの馬車が待っていた。
乗り込んだ。
走り出した。
馬車の中でナターシャが転写した書類の束を抱えていた。三十年分の不正の記録。
「成功」
ヴォルフが言った。珍しく。声に安堵がある。
フェリクスが眼鏡を拭いた。額の汗を袖で拭った。
「二度とやりたくない」
「おにいさま。潜入は向いてないですね」
「分かっている。俺は研究室にいるべき人間だ」
ナターシャが少しだけ笑った。
だがヴォルフの左腕に、赤い染みがあった。
「ヴォルフ。腕」
「掠り傷です。塀を越える時に」
「傷」
「問題ありません。任務完了です」
ヴォルフの声は平坦だった。いつも通り。
馬車が王都別邸に着いた。
◇
裏口が開いた。
セレスティアが立っていた。ランタンを持って。
「おかえり」
声が震えていた。
「ただいま戻りました。全書類の複写、完了です」
ナターシャが書類の束を差し出した。
セレスティアは受け取った。——重い。紙の束だけで。三十年分の不正の重さ。
「ヴォルフ。腕」
「掠り傷です」
「また掠り傷。ナターシャの時も掠り傷って言った」
「事実です」
「……手当てして。絶対に」
「承知いたしました」
イザベラが書斎から出てきた。
「成功?」
「成功。イザベラの情報が完璧だった。一ミリのずれもなかった」
イザベラが息を吐いた。安堵の息。
「良かった。本当に」
セレスティアは書類の束を抱えたまま書斎に向かった。
「明日。祭典の日に、全てを精査する。ナターシャ、ヘルマン、フェリクスおにいさまと一緒に」
「今夜は」
「今夜は寝る。明日に備えて」
セレスティアは振り返った。
四人の仲間を見た。ヴォルフ。ナターシャ。フェリクス。カタリナ。
「みんな、ありがとう」
「お嬢様。礼は成功してからと、公爵様が」
「成功した。だから言う。ありがとう」
四人がそれぞれに頷いた。
公爵が書斎の扉の前に立っていた。眠っていなかったらしい。
「お父様」
「黙認した。だが、これきりだぞ」
「はい。これきりで十分です」
公爵が娘の頭を撫でた。
「よくやった」
その一言がセレスティアの胸を温めた。
父の手。大きな手。
「おやすみ、お父様」
「おやすみ。明日は長い一日になる」
祭典の日。
セレスティアはベッドに入った。書類の束を枕元に置いて。
自分の「死」の計画書が枕元にある。
不思議な気持ちだった。
目を閉じた。
明日は長い一日になる。




