宰相の怒り
宰相邸。深夜。
ヴィクトール・ド・ガルニエは書斎にいた。
蝋燭の灯り。揺れる影。机の上には白紙の書類。ペンは置いたまま。一文字も書いていない。
大議会から六時間。
法案は否決された。二十八対二十一。七票差。
七票のうち五票を動かしたのは、イザベラの発言だった。
娘の。
ヴィクトールの指が机の上で止まっていた。
三十年間、宰相として王国を動かしてきた。政敵を葬り、反乱を鎮め、経済を成長させ、外敵を退けた。全ては計算の上に。
計算に入れていなかったのは、娘の裏切り。
「イザベラ」
名前を呼んだ。誰もいない書斎で。
扉が叩かれた。
「閣下。イザベラ様がお荷物をまとめていらっしゃいます」
使用人の声。
ヴィクトールは立ち上がった。
◇
イザベラの部屋。
旅行鞄が一つ。衣服は最小限。本が数冊。母の形見の銀の鏡。それだけ。
イザベラは鞄の口を閉じようとしていた。手が震えていた。
扉が開いた。
「イザベラ」
父の声。
振り返った。
ヴィクトール・ド・ガルニエが扉の前に立っていた。
蝋燭を持っていない。廊下の灯りを背に、影だけが部屋に伸びている。
「お父様」
「荷物をまとめているそうだな。どこへ行く」
「王都別邸に。セレスティアが部屋を用意してくれました」
沈黙。
父の顔が見えない。廊下の逆光で、表情が影に隠れている。
「お前は私を裏切ったのか」
「裏切ったのではありません。正しいことをしただけです」
イザベラの声は震えていた。議場では震えなかったのに。父の前では——震える。
「正しいこと、か」
ヴィクトールが一歩踏み込んだ。蝋燭の灯りが顔を照らした。
表情があった。怒りではなかった。
悲しみに近い何か。だが、すぐに消えた。氷の表情に戻った。
「お前に正しさを教えたのは私ではなかったか」
「はい。お父様が教えてくれました。でも、お父様が教えてくれた正しさと、お父様がしていることは違っていました」
「違う、と」
「お父様は『国のためにあれ』と教えました。でもお父様は自分の支配のために動いていた。国のためではなく」
ヴィクトールの目が細くなった。
長い沈黙。
「……お前は。あの公爵令嬢に似てきたな」
「セレスティアに?」
「ああ。十三歳の小娘の真似をして父親に反旗を翻す。セレスティア嬢の影響力は、たいしたものだ」
「真似じゃありません。わたし自身の判断です」
「自身の判断、か。お前にそんなものがあったとは知らなかったな」
冷たい言葉。
イザベラの手が鞄の取っ手を強く握った。
「ありました。ずっと」
「ずっと?」
「お父様。わたしは四年前から、考えていました。お父様のしていることが正しいのかどうか。正しくないと気づいたのはセレスティアに出会ったからです。でも決断したのは、わたし自身です」
ヴィクトールは黙った。
しばらく。
「……出て行くのなら、出て行け。だが」
「だが?」
「お前はもう——私の娘ではない。ガルニエの名を名乗ることは許さない」
空気が凍った。
イザベラの唇が震えた。
娘ではない。
その言葉の重さを、十四歳の少女が受け止めた。
「……分かりました」
声は小さかった。でも折れてはいなかった。
イザベラは鞄を持ち上げた。片手で。軽い鞄。十四年間の生活がこの一つの鞄に収まっている。
父の脇を通り過ぎた。
「イザベラ」
足が止まった。
振り返らなかった。
「寒くなる。上着を持って行け」
イザベラの目から——涙が落ちた。
振り返らないまま。
「……いりません」
廊下を歩いた。一歩一歩。足音が遠ざかる。
ヴィクトールは娘の部屋の扉の前に、立ち尽くしていた。
蝋燭のない手を握っていた。
◇
王都別邸。深夜。
馬車が着いた。
セレスティアが玄関で待っていた。ナターシャと一緒に。
イザベラが降りてきた。鞄一つ。目が赤い。
「イザベラ」
「来たわ。お言葉に甘えて」
「甘えてなんかない。当然」
セレスティアがイザベラの手を取った。冷たい。外套を着ていない。
「上着、持ってきてない」
「いらないって言ったから」
「馬鹿。風邪ひくよ」
セレスティアが自分のショールを脱いでイザベラの肩にかけた。ラベンダーの香り。
「あ、いい匂い」
「ナターシャが手入れしてくれてるの。ラベンダーのポプリを入れて」
「贅沢ね」
「贅沢じゃない。日常」
イザベラが少しだけ笑った。泣いた後の笑顔。腫れた目で。
「部屋を用意してあります」
ナターシャが案内した。二階の客間。窓からは庭のラベンダー畑が見える。
「ここ、広い」
「王都別邸ですから。タオルと着替えは用意してあります。お風呂も沸いています」
「至れり尽くせりね」
イザベラが鞄をベッドに置いた。小さな鞄。
「イザベラ。明日、お母様が挨拶に来ると思う。父も。兄も」
「公爵様がわたしを受け入れてくれるの?」
「もちろん。父は昨日のうちに了承してくれてる」
イザベラの目がまた潤んだ。
「なぜ。わたしは宰相の娘よ。敵の娘。受け入れる理由がない」
「敵の娘じゃない。友達。理由はそれで十分」
セレスティアの声はまっすぐだった。
イザベラが座り込んだ。ベッドの端に。
「セレスティア。わたし、お父様に言われたの。『もうわたしの娘ではない』って」
「……」
「分かってた。覚悟してた。でも、言われると」
声が途切れた。
セレスティアは隣に座った。何も言わず。
しばらく沈黙。
「お父様は最後に、上着を持っていけと言ったの」
「上着を?」
「娘じゃないと言った後で。出て行けと言った後で。上着を持っていけ、って」
イザベラが両手で顔を覆った。
「お父様は——悪い人。でもお父様なの。わたしの。矛盾してるって分かってる。でも」
「矛盾していい」
セレスティアが言った。
「嫌いでいい。好きでもいい。両方でいい。人間は矛盾していいの」
イザベラが顔を上げた。涙で濡れた顔。
「あなたは本当に。不思議な人ね」
「不思議じゃない。わたしも矛盾してるから。宰相が怖い。でも宰相を倒したい。怖いのに戦いたい。矛盾だらけ」
「矛盾だらけ。同じね」
「同じ。だから友達」
イザベラが泣き笑いの顔をした。
ナターシャが紅茶を持ってきた。二つのカップ。
「蜂蜜入りです。イザベラ様も、甘いものはお好きですか?」
「……嫌いじゃないわ」
「では蜂蜜多めで」
紅茶を飲んだ。温かかった。甘かった。
「おいしい」
イザベラが呟いた。
「ナターシャの紅茶は世界で一番おいしいの」
「お嬢様。言い過ぎです」
「言い過ぎじゃない。イザベラも分かったでしょう」
「……分かったかも」
三人で紅茶を飲んだ。深夜の紅茶。蜂蜜入り。
「イザベラ。今日はゆっくり休んで」
「うん。ありがとう。セレスティア」
「おやすみ」
「おやすみ。明日からは、わたしも戦うから」
「戦う?」
イザベラの目に——決意の光が灯った。涙の跡が残る目に。
「お父様の弱点をわたしは知ってるの。宰相家の内部情報。金庫の場所。記録の在処。全部」
セレスティアの息が止まった。
「イザベラ。それは」
「明日。全部話すわ。今夜はもう少しだけ、泣かせて」
「うん。好きなだけ」
イザベラが枕に顔を埋めた。
セレスティアは部屋を出た。
廊下でナターシャが待っていた。
「お嬢様。明日が楽しみですね」
「楽しみじゃない。イザベラが泣いてるのに」
「はい。でも泣ける場所があるということは、強いということです」
「……ナターシャ」
「はい」
「宰相は最後に上着を持っていけと言ったって」
「聞きました」
「あれは」
「父親です。宰相ではなく」
セレスティアは黙って頷いた。
「明日、イザベラの情報を聞く。そして宰相を追い詰める」
「はい」
「宰相が人間であっても、やることは変わらない」
「はい。お嬢様は正しいです」
自室に戻った。ベッドに入った。枕元のラベンダーの小袋。
目を閉じた。
イザベラの泣き顔が瞼の裏に残っている。
祭典まであと二日。
宰相邸。深夜。
ヴィクトール・ド・ガルニエは書斎にいた。
蝋燭の灯り。揺れる影。机の上には白紙の書類。ペンは置いたまま。一文字も書いていない。
大議会から六時間。
法案は否決された。二十八対二十一。七票差。
七票のうち五票を動かしたのは、イザベラの発言だった。
娘の。
ヴィクトールの指が机の上で止まっていた。
三十年間、宰相として王国を動かしてきた。政敵を葬り、反乱を鎮め、経済を成長させ、外敵を退けた。全ては計算の上に。
計算に入れていなかったのは、娘の裏切り。
「イザベラ」
名前を呼んだ。誰もいない書斎で。
扉が叩かれた。
「閣下。イザベラ様がお荷物をまとめていらっしゃいます」
使用人の声。
ヴィクトールは立ち上がった。
◇
イザベラの部屋。
旅行鞄が一つ。衣服は最小限。本が数冊。母の形見の銀の鏡。それだけ。
イザベラは鞄の口を閉じようとしていた。手が震えていた。
扉が開いた。
「イザベラ」
父の声。
振り返った。
ヴィクトール・ド・ガルニエが扉の前に立っていた。
蝋燭を持っていない。廊下の灯りを背に、影だけが部屋に伸びている。
「お父様」
「荷物をまとめているそうだな。どこへ行く」
「王都別邸に。セレスティアが部屋を用意してくれました」
沈黙。
父の顔が見えない。廊下の逆光で、表情が影に隠れている。
「お前は私を裏切ったのか」
「裏切ったのではありません。正しいことをしただけです」
イザベラの声は震えていた。議場では震えなかったのに。父の前では——震える。
「正しいこと、か」
ヴィクトールが一歩踏み込んだ。蝋燭の灯りが顔を照らした。
表情があった。怒りではなかった。
悲しみに近い何か。だが、すぐに消えた。氷の表情に戻った。
「お前に正しさを教えたのは私ではなかったか」
「はい。お父様が教えてくれました。でも、お父様が教えてくれた正しさと、お父様がしていることは違っていました」
「違う、と」
「お父様は『国のためにあれ』と教えました。でもお父様は自分の支配のために動いていた。国のためではなく」
ヴィクトールの目が細くなった。
長い沈黙。
「……お前は。あの公爵令嬢に似てきたな」
「セレスティアに?」
「ああ。十三歳の小娘の真似をして父親に反旗を翻す。セレスティア嬢の影響力は、たいしたものだ」
「真似じゃありません。わたし自身の判断です」
「自身の判断、か。お前にそんなものがあったとは知らなかったな」
冷たい言葉。
イザベラの手が鞄の取っ手を強く握った。
「ありました。ずっと」
「ずっと?」
「お父様。わたしは四年前から、考えていました。お父様のしていることが正しいのかどうか。正しくないと気づいたのはセレスティアに出会ったからです。でも決断したのは、わたし自身です」
ヴィクトールは黙った。
しばらく。
「……出て行くのなら、出て行け。だが」
「だが?」
「お前はもう——私の娘ではない。ガルニエの名を名乗ることは許さない」
空気が凍った。
イザベラの唇が震えた。
娘ではない。
その言葉の重さを、十四歳の少女が受け止めた。
「……分かりました」
声は小さかった。でも折れてはいなかった。
イザベラは鞄を持ち上げた。片手で。軽い鞄。十四年間の生活がこの一つの鞄に収まっている。
父の脇を通り過ぎた。
「イザベラ」
足が止まった。
振り返らなかった。
「寒くなる。上着を持って行け」
イザベラの目から——涙が落ちた。
振り返らないまま。
「……いりません」
廊下を歩いた。一歩一歩。足音が遠ざかる。
ヴィクトールは娘の部屋の扉の前に、立ち尽くしていた。
蝋燭のない手を握っていた。
◇
王都別邸。深夜。
馬車が着いた。
セレスティアが玄関で待っていた。ナターシャと一緒に。
イザベラが降りてきた。鞄一つ。目が赤い。
「イザベラ」
「来たわ。お言葉に甘えて」
「甘えてなんかない。当然」
セレスティアがイザベラの手を取った。冷たい。外套を着ていない。
「上着、持ってきてない」
「いらないって言ったから」
「馬鹿。風邪ひくよ」
セレスティアが自分のショールを脱いでイザベラの肩にかけた。ラベンダーの香り。
「あ、いい匂い」
「ナターシャが手入れしてくれてるの。ラベンダーのポプリを入れて」
「贅沢ね」
「贅沢じゃない。日常」
イザベラが少しだけ笑った。泣いた後の笑顔。腫れた目で。
「部屋を用意してあります」
ナターシャが案内した。二階の客間。窓からは庭のラベンダー畑が見える。
「ここ、広い」
「王都別邸ですから。タオルと着替えは用意してあります。お風呂も沸いています」
「至れり尽くせりね」
イザベラが鞄をベッドに置いた。小さな鞄。
「イザベラ。明日、お母様が挨拶に来ると思う。父も。兄も」
「公爵様がわたしを受け入れてくれるの?」
「もちろん。父は昨日のうちに了承してくれてる」
イザベラの目がまた潤んだ。
「なぜ。わたしは宰相の娘よ。敵の娘。受け入れる理由がない」
「敵の娘じゃない。友達。理由はそれで十分」
セレスティアの声はまっすぐだった。
イザベラが座り込んだ。ベッドの端に。
「セレスティア。わたし、お父様に言われたの。『もうわたしの娘ではない』って」
「……」
「分かってた。覚悟してた。でも、言われると」
声が途切れた。
セレスティアは隣に座った。何も言わず。
しばらく沈黙。
「お父様は最後に、上着を持っていけと言ったの」
「上着を?」
「娘じゃないと言った後で。出て行けと言った後で。上着を持っていけ、って」
イザベラが両手で顔を覆った。
「お父様は——悪い人。でもお父様なの。わたしの。矛盾してるって分かってる。でも」
「矛盾していい」
セレスティアが言った。
「嫌いでいい。好きでもいい。両方でいい。人間は矛盾していいの」
イザベラが顔を上げた。涙で濡れた顔。
「あなたは本当に。不思議な人ね」
「不思議じゃない。わたしも矛盾してるから。宰相が怖い。でも宰相を倒したい。怖いのに戦いたい。矛盾だらけ」
「矛盾だらけ。同じね」
「同じ。だから友達」
イザベラが泣き笑いの顔をした。
ナターシャが紅茶を持ってきた。二つのカップ。
「蜂蜜入りです。イザベラ様も、甘いものはお好きですか?」
「……嫌いじゃないわ」
「では蜂蜜多めで」
紅茶を飲んだ。温かかった。甘かった。
「おいしい」
イザベラが呟いた。
「ナターシャの紅茶は世界で一番おいしいの」
「お嬢様。言い過ぎです」
「言い過ぎじゃない。イザベラも分かったでしょう」
「……分かったかも」
三人で紅茶を飲んだ。深夜の紅茶。蜂蜜入り。
「イザベラ。今日はゆっくり休んで」
「うん。ありがとう。セレスティア」
「おやすみ」
「おやすみ。明日からは、わたしも戦うから」
「戦う?」
イザベラの目に——決意の光が灯った。涙の跡が残る目に。
「お父様の弱点をわたしは知ってるの。宰相家の内部情報。金庫の場所。記録の在処。全部」
セレスティアの息が止まった。
「イザベラ。それは」
「明日。全部話すわ。今夜はもう少しだけ、泣かせて」
「うん。好きなだけ」
イザベラが枕に顔を埋めた。
セレスティアは部屋を出た。
廊下でナターシャが待っていた。
「お嬢様。明日が楽しみですね」
「楽しみじゃない。イザベラが泣いてるのに」
「はい。でも泣ける場所があるということは、強いということです」
「……ナターシャ」
「はい」
「宰相は最後に上着を持っていけと言ったって」
「聞きました」
「あれは」
「父親です。宰相ではなく」
セレスティアは黙って頷いた。
「明日、イザベラの情報を聞く。そして宰相を追い詰める」
「はい」
「宰相が人間であっても、やることは変わらない」
「はい。お嬢様は正しいです」
自室に戻った。ベッドに入った。枕元のラベンダーの小袋。
目を閉じた。
イザベラの泣き顔が瞼の裏に残っている。
祭典まであと二日。




