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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN


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205/220

宰相の怒り

 宰相邸。深夜。


 ヴィクトール・ド・ガルニエは書斎にいた。


 蝋燭の灯り。揺れる影。机の上には白紙の書類。ペンは置いたまま。一文字も書いていない。


 大議会から六時間。


 法案は否決された。二十八対二十一。七票差。


 七票のうち五票を動かしたのは、イザベラの発言だった。


 娘の。


 ヴィクトールの指が机の上で止まっていた。


 三十年間、宰相として王国を動かしてきた。政敵を葬り、反乱を鎮め、経済を成長させ、外敵を退けた。全ては計算の上に。


 計算に入れていなかったのは、娘の裏切り。


 「イザベラ」


 名前を呼んだ。誰もいない書斎で。


 扉が叩かれた。


 「閣下。イザベラ様がお荷物をまとめていらっしゃいます」


 使用人の声。


 ヴィクトールは立ち上がった。


 ◇


 イザベラの部屋。


 旅行鞄が一つ。衣服は最小限。本が数冊。母の形見の銀の鏡。それだけ。


 イザベラは鞄の口を閉じようとしていた。手が震えていた。


 扉が開いた。


 「イザベラ」


 父の声。


 振り返った。


 ヴィクトール・ド・ガルニエが扉の前に立っていた。


 蝋燭を持っていない。廊下の灯りを背に、影だけが部屋に伸びている。


 「お父様」


 「荷物をまとめているそうだな。どこへ行く」


 「王都別邸に。セレスティアが部屋を用意してくれました」


 沈黙。


 父の顔が見えない。廊下の逆光で、表情が影に隠れている。


 「お前は私を裏切ったのか」


 「裏切ったのではありません。正しいことをしただけです」


 イザベラの声は震えていた。議場では震えなかったのに。父の前では——震える。


 「正しいこと、か」


 ヴィクトールが一歩踏み込んだ。蝋燭の灯りが顔を照らした。


 表情があった。怒りではなかった。


 悲しみに近い何か。だが、すぐに消えた。氷の表情に戻った。


 「お前に正しさを教えたのは私ではなかったか」


 「はい。お父様が教えてくれました。でも、お父様が教えてくれた正しさと、お父様がしていることは違っていました」


 「違う、と」


 「お父様は『国のためにあれ』と教えました。でもお父様は自分の支配のために動いていた。国のためではなく」


 ヴィクトールの目が細くなった。


 長い沈黙。


 「……お前は。あの公爵令嬢に似てきたな」


 「セレスティアに?」


 「ああ。十三歳の小娘の真似をして父親に反旗を翻す。セレスティア嬢の影響力は、たいしたものだ」


 「真似じゃありません。わたし自身の判断です」


 「自身の判断、か。お前にそんなものがあったとは知らなかったな」


 冷たい言葉。


 イザベラの手が鞄の取っ手を強く握った。


 「ありました。ずっと」


 「ずっと?」


 「お父様。わたしは四年前から、考えていました。お父様のしていることが正しいのかどうか。正しくないと気づいたのはセレスティアに出会ったからです。でも決断したのは、わたし自身です」


 ヴィクトールは黙った。


 しばらく。


 「……出て行くのなら、出て行け。だが」


 「だが?」


 「お前はもう——私の娘ではない。ガルニエの名を名乗ることは許さない」


 空気が凍った。


 イザベラの唇が震えた。


 娘ではない。


 その言葉の重さを、十四歳の少女が受け止めた。


 「……分かりました」


 声は小さかった。でも折れてはいなかった。


 イザベラは鞄を持ち上げた。片手で。軽い鞄。十四年間の生活がこの一つの鞄に収まっている。


 父の脇を通り過ぎた。


 「イザベラ」


 足が止まった。


 振り返らなかった。


 「寒くなる。上着を持って行け」


 イザベラの目から——涙が落ちた。


 振り返らないまま。


 「……いりません」


 廊下を歩いた。一歩一歩。足音が遠ざかる。


 ヴィクトールは娘の部屋の扉の前に、立ち尽くしていた。


 蝋燭のない手を握っていた。


 ◇


 王都別邸。深夜。


 馬車が着いた。


 セレスティアが玄関で待っていた。ナターシャと一緒に。


 イザベラが降りてきた。鞄一つ。目が赤い。


 「イザベラ」


 「来たわ。お言葉に甘えて」


 「甘えてなんかない。当然」


 セレスティアがイザベラの手を取った。冷たい。外套を着ていない。


 「上着、持ってきてない」


 「いらないって言ったから」


 「馬鹿。風邪ひくよ」


 セレスティアが自分のショールを脱いでイザベラの肩にかけた。ラベンダーの香り。


 「あ、いい匂い」


 「ナターシャが手入れしてくれてるの。ラベンダーのポプリを入れて」


 「贅沢ね」


 「贅沢じゃない。日常」


 イザベラが少しだけ笑った。泣いた後の笑顔。腫れた目で。


 「部屋を用意してあります」


 ナターシャが案内した。二階の客間。窓からは庭のラベンダー畑が見える。


 「ここ、広い」


 「王都別邸ですから。タオルと着替えは用意してあります。お風呂も沸いています」


 「至れり尽くせりね」


 イザベラが鞄をベッドに置いた。小さな鞄。


 「イザベラ。明日、お母様が挨拶に来ると思う。父も。兄も」


 「公爵様がわたしを受け入れてくれるの?」


 「もちろん。父は昨日のうちに了承してくれてる」


 イザベラの目がまた潤んだ。


 「なぜ。わたしは宰相の娘よ。敵の娘。受け入れる理由がない」


 「敵の娘じゃない。友達。理由はそれで十分」


 セレスティアの声はまっすぐだった。


 イザベラが座り込んだ。ベッドの端に。


 「セレスティア。わたし、お父様に言われたの。『もうわたしの娘ではない』って」


 「……」


 「分かってた。覚悟してた。でも、言われると」


 声が途切れた。


 セレスティアは隣に座った。何も言わず。


 しばらく沈黙。


 「お父様は最後に、上着を持っていけと言ったの」


 「上着を?」


 「娘じゃないと言った後で。出て行けと言った後で。上着を持っていけ、って」


 イザベラが両手で顔を覆った。


 「お父様は——悪い人。でもお父様なの。わたしの。矛盾してるって分かってる。でも」


 「矛盾していい」


 セレスティアが言った。


 「嫌いでいい。好きでもいい。両方でいい。人間は矛盾していいの」


 イザベラが顔を上げた。涙で濡れた顔。


 「あなたは本当に。不思議な人ね」


 「不思議じゃない。わたしも矛盾してるから。宰相が怖い。でも宰相を倒したい。怖いのに戦いたい。矛盾だらけ」


 「矛盾だらけ。同じね」


 「同じ。だから友達」


 イザベラが泣き笑いの顔をした。


 ナターシャが紅茶を持ってきた。二つのカップ。


 「蜂蜜入りです。イザベラ様も、甘いものはお好きですか?」


 「……嫌いじゃないわ」


 「では蜂蜜多めで」


 紅茶を飲んだ。温かかった。甘かった。


 「おいしい」


 イザベラが呟いた。


 「ナターシャの紅茶は世界で一番おいしいの」


 「お嬢様。言い過ぎです」


 「言い過ぎじゃない。イザベラも分かったでしょう」


 「……分かったかも」


 三人で紅茶を飲んだ。深夜の紅茶。蜂蜜入り。


 「イザベラ。今日はゆっくり休んで」


 「うん。ありがとう。セレスティア」


 「おやすみ」


 「おやすみ。明日からは、わたしも戦うから」


 「戦う?」


 イザベラの目に——決意の光が灯った。涙の跡が残る目に。


 「お父様の弱点をわたしは知ってるの。宰相家の内部情報。金庫の場所。記録の在処。全部」


 セレスティアの息が止まった。


 「イザベラ。それは」


 「明日。全部話すわ。今夜はもう少しだけ、泣かせて」


 「うん。好きなだけ」


 イザベラが枕に顔を埋めた。


 セレスティアは部屋を出た。


 廊下でナターシャが待っていた。


 「お嬢様。明日が楽しみですね」


 「楽しみじゃない。イザベラが泣いてるのに」


 「はい。でも泣ける場所があるということは、強いということです」


 「……ナターシャ」


 「はい」


 「宰相は最後に上着を持っていけと言ったって」


 「聞きました」


 「あれは」


 「父親です。宰相ではなく」


 セレスティアは黙って頷いた。


 「明日、イザベラの情報を聞く。そして宰相を追い詰める」


 「はい」


 「宰相が人間であっても、やることは変わらない」


 「はい。お嬢様は正しいです」


 自室に戻った。ベッドに入った。枕元のラベンダーの小袋。


 目を閉じた。


 イザベラの泣き顔が瞼の裏に残っている。


 祭典まであと二日。

 宰相邸。深夜。


 ヴィクトール・ド・ガルニエは書斎にいた。


 蝋燭の灯り。揺れる影。机の上には白紙の書類。ペンは置いたまま。一文字も書いていない。


 大議会から六時間。


 法案は否決された。二十八対二十一。七票差。


 七票のうち五票を動かしたのは、イザベラの発言だった。


 娘の。


 ヴィクトールの指が机の上で止まっていた。


 三十年間、宰相として王国を動かしてきた。政敵を葬り、反乱を鎮め、経済を成長させ、外敵を退けた。全ては計算の上に。


 計算に入れていなかったのは、娘の裏切り。


 「イザベラ」


 名前を呼んだ。誰もいない書斎で。


 扉が叩かれた。


 「閣下。イザベラ様がお荷物をまとめていらっしゃいます」


 使用人の声。


 ヴィクトールは立ち上がった。


 ◇


 イザベラの部屋。


 旅行鞄が一つ。衣服は最小限。本が数冊。母の形見の銀の鏡。それだけ。


 イザベラは鞄の口を閉じようとしていた。手が震えていた。


 扉が開いた。


 「イザベラ」


 父の声。


 振り返った。


 ヴィクトール・ド・ガルニエが扉の前に立っていた。


 蝋燭を持っていない。廊下の灯りを背に、影だけが部屋に伸びている。


 「お父様」


 「荷物をまとめているそうだな。どこへ行く」


 「王都別邸に。セレスティアが部屋を用意してくれました」


 沈黙。


 父の顔が見えない。廊下の逆光で、表情が影に隠れている。


 「お前は私を裏切ったのか」


 「裏切ったのではありません。正しいことをしただけです」


 イザベラの声は震えていた。議場では震えなかったのに。父の前では——震える。


 「正しいこと、か」


 ヴィクトールが一歩踏み込んだ。蝋燭の灯りが顔を照らした。


 表情があった。怒りではなかった。


 悲しみに近い何か。だが、すぐに消えた。氷の表情に戻った。


 「お前に正しさを教えたのは私ではなかったか」


 「はい。お父様が教えてくれました。でも、お父様が教えてくれた正しさと、お父様がしていることは違っていました」


 「違う、と」


 「お父様は『国のためにあれ』と教えました。でもお父様は自分の支配のために動いていた。国のためではなく」


 ヴィクトールの目が細くなった。


 長い沈黙。


 「……お前は。あの公爵令嬢に似てきたな」


 「セレスティアに?」


 「ああ。十三歳の小娘の真似をして父親に反旗を翻す。セレスティア嬢の影響力は、たいしたものだ」


 「真似じゃありません。わたし自身の判断です」


 「自身の判断、か。お前にそんなものがあったとは知らなかったな」


 冷たい言葉。


 イザベラの手が鞄の取っ手を強く握った。


 「ありました。ずっと」


 「ずっと?」


 「お父様。わたしは四年前から、考えていました。お父様のしていることが正しいのかどうか。正しくないと気づいたのはセレスティアに出会ったからです。でも決断したのは、わたし自身です」


 ヴィクトールは黙った。


 しばらく。


 「……出て行くのなら、出て行け。だが」


 「だが?」


 「お前はもう——私の娘ではない。ガルニエの名を名乗ることは許さない」


 空気が凍った。


 イザベラの唇が震えた。


 娘ではない。


 その言葉の重さを、十四歳の少女が受け止めた。


 「……分かりました」


 声は小さかった。でも折れてはいなかった。


 イザベラは鞄を持ち上げた。片手で。軽い鞄。十四年間の生活がこの一つの鞄に収まっている。


 父の脇を通り過ぎた。


 「イザベラ」


 足が止まった。


 振り返らなかった。


 「寒くなる。上着を持って行け」


 イザベラの目から——涙が落ちた。


 振り返らないまま。


 「……いりません」


 廊下を歩いた。一歩一歩。足音が遠ざかる。


 ヴィクトールは娘の部屋の扉の前に、立ち尽くしていた。


 蝋燭のない手を握っていた。


 ◇


 王都別邸。深夜。


 馬車が着いた。


 セレスティアが玄関で待っていた。ナターシャと一緒に。


 イザベラが降りてきた。鞄一つ。目が赤い。


 「イザベラ」


 「来たわ。お言葉に甘えて」


 「甘えてなんかない。当然」


 セレスティアがイザベラの手を取った。冷たい。外套を着ていない。


 「上着、持ってきてない」


 「いらないって言ったから」


 「馬鹿。風邪ひくよ」


 セレスティアが自分のショールを脱いでイザベラの肩にかけた。ラベンダーの香り。


 「あ、いい匂い」


 「ナターシャが手入れしてくれてるの。ラベンダーのポプリを入れて」


 「贅沢ね」


 「贅沢じゃない。日常」


 イザベラが少しだけ笑った。泣いた後の笑顔。腫れた目で。


 「部屋を用意してあります」


 ナターシャが案内した。二階の客間。窓からは庭のラベンダー畑が見える。


 「ここ、広い」


 「王都別邸ですから。タオルと着替えは用意してあります。お風呂も沸いています」


 「至れり尽くせりね」


 イザベラが鞄をベッドに置いた。小さな鞄。


 「イザベラ。明日、お母様が挨拶に来ると思う。父も。兄も」


 「公爵様がわたしを受け入れてくれるの?」


 「もちろん。父は昨日のうちに了承してくれてる」


 イザベラの目がまた潤んだ。


 「なぜ。わたしは宰相の娘よ。敵の娘。受け入れる理由がない」


 「敵の娘じゃない。友達。理由はそれで十分」


 セレスティアの声はまっすぐだった。


 イザベラが座り込んだ。ベッドの端に。


 「セレスティア。わたし、お父様に言われたの。『もうわたしの娘ではない』って」


 「……」


 「分かってた。覚悟してた。でも、言われると」


 声が途切れた。


 セレスティアは隣に座った。何も言わず。


 しばらく沈黙。


 「お父様は最後に、上着を持っていけと言ったの」


 「上着を?」


 「娘じゃないと言った後で。出て行けと言った後で。上着を持っていけ、って」


 イザベラが両手で顔を覆った。


 「お父様は——悪い人。でもお父様なの。わたしの。矛盾してるって分かってる。でも」


 「矛盾していい」


 セレスティアが言った。


 「嫌いでいい。好きでもいい。両方でいい。人間は矛盾していいの」


 イザベラが顔を上げた。涙で濡れた顔。


 「あなたは本当に。不思議な人ね」


 「不思議じゃない。わたしも矛盾してるから。宰相が怖い。でも宰相を倒したい。怖いのに戦いたい。矛盾だらけ」


 「矛盾だらけ。同じね」


 「同じ。だから友達」


 イザベラが泣き笑いの顔をした。


 ナターシャが紅茶を持ってきた。二つのカップ。


 「蜂蜜入りです。イザベラ様も、甘いものはお好きですか?」


 「……嫌いじゃないわ」


 「では蜂蜜多めで」


 紅茶を飲んだ。温かかった。甘かった。


 「おいしい」


 イザベラが呟いた。


 「ナターシャの紅茶は世界で一番おいしいの」


 「お嬢様。言い過ぎです」


 「言い過ぎじゃない。イザベラも分かったでしょう」


 「……分かったかも」


 三人で紅茶を飲んだ。深夜の紅茶。蜂蜜入り。


 「イザベラ。今日はゆっくり休んで」


 「うん。ありがとう。セレスティア」


 「おやすみ」


 「おやすみ。明日からは、わたしも戦うから」


 「戦う?」


 イザベラの目に——決意の光が灯った。涙の跡が残る目に。


 「お父様の弱点をわたしは知ってるの。宰相家の内部情報。金庫の場所。記録の在処。全部」


 セレスティアの息が止まった。


 「イザベラ。それは」


 「明日。全部話すわ。今夜はもう少しだけ、泣かせて」


 「うん。好きなだけ」


 イザベラが枕に顔を埋めた。


 セレスティアは部屋を出た。


 廊下でナターシャが待っていた。


 「お嬢様。明日が楽しみですね」


 「楽しみじゃない。イザベラが泣いてるのに」


 「はい。でも泣ける場所があるということは、強いということです」


 「……ナターシャ」


 「はい」


 「宰相は最後に上着を持っていけと言ったって」


 「聞きました」


 「あれは」


 「父親です。宰相ではなく」


 セレスティアは黙って頷いた。


 「明日、イザベラの情報を聞く。そして宰相を追い詰める」


 「はい」


 「宰相が人間であっても、やることは変わらない」


 「はい。お嬢様は正しいです」


 自室に戻った。ベッドに入った。枕元のラベンダーの小袋。


 目を閉じた。


 イザベラの泣き顔が瞼の裏に残っている。


 祭典まであと二日。


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