閑話 宰相の娘はそれでも歩く イザベラ視点
お父様に「もう私の娘ではない」と言われた。
覚悟はしていた。あの法案に反対票を投じた瞬間から。貴族院の議場で立ち上がった瞬間から。お父様の目が——凍りついたのを、見た。
でも実際に言われると、こんなにも——痛い。
胸の真ん中に——氷の杭を打ち込まれたような痛み。
◇
私はずっと「宰相の娘」だった。
名前より先に肩書きが来る人生。イザベラ・ド・ガルニエ。——ガルニエの名前が、いつも先にあった。
服はお父様が選んだ。言葉遣いはお父様が決めた。成績は常に首席でなければならなかった。友人は——お父様が許可した者だけ。
私の意思なんて——どこにもなかった。
いや。——あった。
あったけど、殺していた。自分で。
お父様に嫌われたくなかったから。お父様に認められたかったから。宰相の娘として完璧でいれば、いつかお父様が——「よくやった」と言ってくれると、信じていたから。
でもお父様は一度も言わなかった。
「合格だ」とは言った。「及第点だ」とは言った。——でも「よくやった」とは、一度も。
◇
四年前。
私は十歳だった。お父様に連れられて、公爵家の夜会に出席した。
そこで——セレスティア・フォン・アルヴェインに出会った。
九歳。小さかった。銀色の髪。碧い瞳。——でもあの目だけが、小さくなかった。
大人のような目。全てを見通すような、全てを背負っているような目。
私は——怖かった。
この子は何を知っているんだろう、と。
「イザベラさん」
声をかけられた。
「蜂蜜入りの紅茶、飲む?」
それが——最初の言葉だった。
蜂蜜入りの紅茶。お父様は紅茶に蜂蜜を入れることを「品がない」と言った。宰相家では砂糖すら入れない。ストレート。それが「正しい」紅茶の飲み方だと——教えられた。
「飲む」
気づいたら答えていた。
甘かった。温かかった。——おいしかった。
「おいしいでしょう? ナターシャが淹れたの。ナターシャの紅茶は世界一なの」
セレスティアが笑った。九歳の笑顔。
私は——泣きそうになった。なぜか。
甘いものが——こんなに美味しいと思ったのは、初めてだったから。
◇
二回目は——十一歳。学園で。
「あなたは宰相の娘である前に、あなた自身よ」
セレスティアに言われた。
腹が立った。——何も知らないくせに。お父様の期待を裏切る恐怖を、あなたに何が分かるの、と。
宰相の娘をやめるということは——お父様を裏切るということ。お父様の三十年を否定するということ。
そんなこと——できるわけがない。
そう思った。
でも——あの言葉が、胸の奥に刺さったまま、抜けなかった。
そして今日——議場で法案審議が進んでいた。聖魔力脅威法案。お父様が——セレスティアを排除するために作った法案。
私は知っていた。あの法案の本当の目的を。お父様の書斎で——書類を、見てしまったから。
「聖魔力は脅威ではありません。——力は使い方で変わります」
セレスティアの声が——議場に響いていた。
十三歳の声。震えていない。まっすぐな声。
私は——立ち上がった。
なぜか分からない。体が勝手に動いた。
「反対します」
自分の声が——遠くから聞こえた。
お父様の目が——凍りついた。議場が——騒然とした。
でも——私の声は、止まらなかった。
「この法案は——公爵令嬢の排除を目的としています。法案の体裁を借りた——個人攻撃です」
言ってしまった。
言ってしまった後で——手が震えた。
お父様の目が、議場の向こうから——刺すように、こちらを見ていた。
◇
勘当された後。
宰相邸の門を出た。
冬だった。コートを着ていなかった。お父様の書斎から出る時、何も持たずに出た。
——いや。
お父様が言った。「上着を持っていけ」と。
それだけ。「もう私の娘ではない」と言った後に——「上着を持っていけ」と。
外套を一枚。玄関に置いてあった。——私の外套。お父様が昨年の誕生日に買った、紺色の外套。
——矛盾している。
娘ではないと言いながら、上着を持っていけと言う。
お父様は——いつもこうだ。矛盾している。
◇
王都別邸に着いた。
門を叩く手が——震えていた。
門が開いた。マルガレーテが立っていた。白髪交じりの侍女長。
「イザベラ嬢。——お入りください。お嬢様がお待ちです」
待っていた。——セレスティアが。
通されたのは——セレスティアの部屋だった。
「イザベラ。——来てくれたのね」
セレスティアが立っていた。銀色の髪。碧い瞳。——四年前と同じ目。でも——四年分、強くなった目。
「ここ使って。着替えも用意するわ」
当たり前のように言った。
当たり前のように——受け入れてくれた。
勘当された宰相の娘を。昨日まで敵陣にいた女を。
「なぜ?」
聞いた。声が——かすれていた。
「なぜ——私を受け入れるの。私はお父様の——」
「あなたが正しいことをしたから」
セレスティアが——微笑んだ。
その微笑みが——四年前の蜂蜜入り紅茶と同じ温度だった。
泣いた。
生まれて初めて——声を上げて泣いた。
お父様の前では泣けなかった。宰相の娘は——完璧でなければならなかったから。泣くのは「弱さ」で、弱さは「不合格」で、不合格は——お父様に見捨てられるということだったから。
でもここでは——泣いていいらしい。
セレスティアは何も言わなかった。ハンカチを差し出しただけだった。
白いハンカチ。ラベンダーの匂いがする。
泣き終わるまで——隣にいてくれた。
ナターシャが紅茶を持ってきた。蜂蜜入り。
一杯目。——温かかった。
二杯目。——甘かった。
三杯目で——やっと泣き止んだ。
「三杯で泣き止んだ。——ナターシャの紅茶は、やっぱり世界一」
セレスティアが笑った。
私も——笑った。涙の跡が残ったまま。
◇
その夜。
与えられた部屋のベッドに横になって——天井を見つめていた。
宰相の娘ではなくなった。
肩書きが——消えた。
「イザベラ・ド・ガルニエ」から「ガルニエ」を取ったら——何が残るんだろう。
何も残らないと思った。
でも——セレスティアの言葉が蘇った。
「あなたは宰相の娘である前に、あなた自身よ」
あなた自身。
イザベラ。——ただのイザベラ。
宰相の情報網を知っている。行政機構を知っている。お父様が三十年かけて作った仕組みの——全ての歯車の位置を知っている。
それは——宰相の娘だったからこそ持っている知識。
でもそれを——どう使うかは、私が決める。
お父様は——「国のため」と言って人を殺そうとした。
私は——「国のため」と言って、人を生かす仕組みを作る。
同じ知識。同じ能力。——でも、使い方が違う。
セレスティアが——法廷で宰相に言った言葉を思い出す。
「方法が間違っていました」
そうだ。——お父様の「目的」は間違っていなかった。国を守ること。安定させること。
でも「方法」が間違っていた。
私は——正しい方法で、お父様の遺したものを作り変える。
それが——イザベラ・ド・ガルニエの、新しい道。
もう誰かの娘ではなく。
私自身として。
◇
翌朝。
公爵家の朝食の席に——呼ばれた。
テーブルには——公爵一家が座っていた。父ライナルト。母リリアーナ。長男エドヴァルト。次男フェリクス。そしてセレスティア。
「おはよう。イザベラ」
公爵夫人リリアーナが——微笑んだ。
「おはよう——ございます」
声が震えた。
「座りなさい。——ここがあなたの席よ」
席が用意されていた。セレスティアの隣に。
「お嬢様。——パンケーキです。蜂蜜の」
ナターシャが皿を運んできた。
パンケーキ。蜂蜜がかかっている。宰相家では朝食にパンケーキなど出なかった。「甘いものは朝にふさわしくない」と——お父様が言っていたから。
「食べて。——泣いた翌日は、甘いもの。アルヴェイン家の伝統」
セレスティアが言った。
フォークを持った。手が——まだ少し震えている。
切った。口に入れた。
——おいしかった。
甘かった。蜂蜜の香り。バターの風味。ふわふわの生地。
「おいしい——」
「でしょう? マルガレーテの焼くパンケーキは世界一なの」
「世界一が多いわね——この家」
「世界一だらけなの。——それがアルヴェイン家」
笑った。
テーブルの全員が——笑っていた。エドヴァルトも。フェリクスも。公爵も。公爵夫人も。
温かい朝食。——生まれて初めての。
宰相家の朝食は——沈黙だった。お父様は書類を読みながら食べた。会話はなかった。食事は「栄養摂取」であって、「団欒」ではなかった。
でもここでは——笑いながら食べている。
「エドヴァルト。チーズを取って」
「自分で取れ」
「遠いの」
「甘えるな。——ほら」
エドヴァルトが——チーズを渡しながら、文句を言っている。
「フェリクス。また本を持ち込んでいますね」
「母上。食事中に読書するのが最も効率的——」
「テーブルの上に本を置かないの」
「はい、母上」
リリアーナが——穏やかに叱っている。フェリクスが——渋々本を閉じている。
日常。——当たり前の日常。
この家の「当たり前」が——私には眩しかった。
◇
朝食の後。
セレスティアと二人で、庭を歩いた。
冬の庭。ラベンダーは枯れている。でも——根は生きている。
「イザベラ」
「何」
「これからのこと——考えてる?」
「考えてる。——お父様の遺したものを、正しく作り変える。それが私の道」
セレスティアが——足を止めた。
「正しく——作り変える」
「お父様は方法が間違っていた。あなたがそう言った。——だったら、正しい方法でやり直す。行政機構も。情報網も。外交の枠組みも。——私は全部知ってる。お父様の娘だったから」
「イザベラ——」
「お父様の娘だったことが——武器になる。皮肉だけど」
セレスティアが——微笑んだ。
「皮肉じゃない。——あなたの強さよ」
「強さ——」
「お父様を愛していて、お父様に反対できた。——それは、誰にもできないことよ」
目が——熱くなった。
また泣きそうになった。——でも今度は、涙を堪えた。
泣くのは昨日で終わり。今日からは——歩く。
「セレスティア」
「何」
「蜂蜜入りの紅茶——また飲んでいい?」
「毎日飲んでいいよ。——ナターシャの紅茶は、減らないから」
「減るでしょう普通——」
「減らないの。——不思議でしょう?」
笑った。二人で。
冬の庭で。ラベンダーの枯れた花壇の前で。
根は——生きている。
春になれば——また咲く。
私も——また咲く。
宰相の娘ではなく。イザベラとして。
歩く。——それでも、歩く。




