ナターシャの危機
それは夕暮れに起きた。
ナターシャは一人で南区にいた。
ニコラスとの定期連絡。場所は「灰色の猫亭」。裏路地の小さな茶店。ニコラスが指定した安全な場所のはずだった。
連絡は済んだ。ニコラスからの最新報告を受け取り、次回の日時を決めた。
茶店を出た。
夕焼け。路地が赤く染まっている。
足音。
後ろに。二人。
ナターシャは歩調を変えなかった。表情も変えなかった。灰色の瞳が路地の構造を読み取る。
左に曲がれば大通り。人がいる。安全。
右に曲がれば袋小路。
まっすぐ行けば橋。橋の向こうは中央区。公爵邸に近い。
左へ。
曲がった瞬間、前に一人。
大柄な男。外套のフードを深く被っている。
三人。後ろ二人。前一人。挟まれた。
ナターシャは足を止めた。
「——何か御用ですか」
声は平静だった。
前の男が笑った。
「副宰相からの伝言だ。公爵家の侍女さん」
「伝言ですか。わたしは侍女ではなく」
「嘘はいい。お前がセレスティアの情報係だということは分かっている」
ナターシャの心拍が上がった。悟られないように、呼吸を整える。
「何をお求めですか」
「お前をしばらく預からせてもらう。情報源について聞きたいことがある」
拉致。尋問。
マティアスの手下。ナターシャの情報網を暴くために直接、要を狙ってきた。
「お断りします」
ナターシャが後退した。壁を背にする。三方向を塞がれている。
前の男が一歩踏み出した。
「抵抗しても無駄だ」
——風。
男の言葉が途切れた。
上から。
影が落ちた。
屋根の上から人が飛び降りた。
黒い髪。長い手足。抜き身の短剣。
ヴォルフ。
着地と同時に前の男の腕を打った。骨は折らない。だが武器を持てなくする。
「ぐっ」
男がよろめいた。
後ろの二人が動いた。短剣を抜く。
ヴォルフが振り返った。
一人目。右手の短剣を蹴り上げる。金属音。短剣が宙を舞う。
二人目。懐に入る。肘打ち。鳩尾。
二人が倒れた。
三秒。
「ナターシャ。怪我は」
「ありません。ですが」
前の男が起き上がった。左手で何かを投げた。
小瓶。
割れた。
白い煙が広がった。煙幕。
「目を閉じて!」
ヴォルフがナターシャの腕を引いた。走る。煙の中を。
路地を抜けた。大通りに出た。夕暮れの人混み。
振り返った。煙が路地の中で渦巻いている。追手は来ない。
だが、ナターシャの右腕に、赤い線が走っていた。
切り傷。浅いが長い。二人目の男の短剣が掠めていた。
「ナターシャ。腕」
「浅いです。大丈夫」
「大丈夫ではない」
ヴォルフの声が珍しく、硬かった。怒りではない。恐怖に近い。
「……なぜ一人で来たんですか」
「連絡の安全確保のために、人数は最小限に」
「一人は最小限ではない。ゼロです」
「……すみません」
ナターシャが珍しく、謝った。
ヴォルフが自分の外套を破いて、ナターシャの腕に巻いた。応急処置。手際が良い。
「帰ります。お嬢様に報告を」
「はい。ヴォルフ、なぜここに」
「お嬢様の命令です。昨日からナターシャが南区に行く時は、必ず後をつけるように、と」
「お嬢様が」
「はい。『マティアスがナターシャを狙う』と。お嬢様の予測通りでした」
ナターシャの目が少しだけ潤んだ。
「帰りましょう。急いで」
◇
公爵邸。夜。
セレスティアはナターシャの腕を見た瞬間、顔色が変わった。
「ナターシャ」
「浅い傷です。もう止血は済んでいます」
「浅い、こんなの浅くない」
セレスティアの手が震えていた。ナターシャの腕に巻かれた布を見ている。赤い染みが滲んでいる。
「ヴォルフ。助けてくれてありがとう」
「お嬢様の命令に従っただけです」
「命令じゃなくてお願い。ヴォルフがいなかったら、ナターシャは」
声が——途切れた。
「わたしのせいだ」
セレスティアが俯いた。
「わたしの戦いにナターシャを巻き込んだ。情報収集を任せた。危険な場所に行かせた。怪我をさせた」
「お嬢様」
ナターシャの声は穏やかだった。
「お嬢様。顔を上げてください」
「……」
「わたしはお嬢様のために生きると決めたんです。三歳の時に。——あの日から一日も、後悔していません」
セレスティアが顔を上げた。涙が頬を伝っている。
「後悔してない?」
「していません。怪我をしたことも。危険な場所に行ったことも。全てわたしが選んだことです」
「でも」
「お嬢様。わたしにも選ぶ権利があります。お嬢様と共に戦うことをわたしは選びました。お嬢様が決めたのではなく、わたしが決めたんです」
ナターシャの灰色の瞳が静かに光っていた。
「だから謝らないでください。わたしの選択を、お嬢様の罪にしないでください」
セレスティアは——泣いた。
声を殺して。肩を震わせて。
ナターシャが無事な左手で、セレスティアの髪を撫でた。
「お嬢様。泣いていいんですよ。でも泣いた後は立ってください」
「立つ」
「はい。まだ戦いは終わっていません」
セレスティアは涙を拭いた。袖で。子供のように。
「ナターシャ。ありがとう。いつも」
「こちらこそ。いつも、わたしを必要としてくれて」
◇
翌朝。対策会議。
父ライナルトが口を開いた。
「マティアスが直接行動に出た。ナターシャへの襲撃は宣戦布告と同じだ」
ヘルマンが書類を広げた。
「襲撃者は三名。いずれもマティアスの私兵です。闇市場経由で雇った者たち。宰相の管轄外の人員」
「つまり宰相は知らない」
「はい。マティアスの独断です。宰相から切り離された後、独自の行動を始めています」
セレスティアが発言した。
「ナターシャの護衛を強化します。カタリナを追加護衛として付けたい」
「カタリナ。辺境伯家から来た護衛騎士の」
「はい。カタリナは辺境伯家で実戦を積んだ騎士です。ナターシャが外出する時には必ずカタリナを同行させます」
ヘルマンが頷いた。
「それとナターシャ自身の行動パターンを変更する必要があります。南区への連絡は、ニコラス側からの接触に切り替える。ナターシャが出向くのは当面、控えるべきです」
「ニコラスの負担が」
「増えますが、仕方ありません。マティアスの目がナターシャに向いている以上」
父が言った。
「ナターシャ。怪我の具合は」
「軽傷です。三日で塞がります」
「三日。祭典にはほぼ間に合うか」
「はい。わたしの仕事に支障はありません」
ナターシャの声はいつも通り平静だった。腕に巻かれた包帯だけが、昨夜の出来事を物語っている。
セレスティアはナターシャの横顔を見た。
失うわけにはいかない。
「会議はここまで。祭典の最終準備に入ります」
父が頷いた。
「セレスティア。無理はするな」
「無理はしない。でも、必要なことはする」
「……お前は母に似てきたな」
「お母様に?」
「ああ。リリアーナも同じことを言う。必要なことはする、と。そして必ずやり遂げる」
セレスティアは少しだけ笑った。
◇
その夜。
ナターシャがセレスティアの部屋に紅茶を持ってきた。左手で。右腕は包帯に覆われている。
「ナターシャ。片手で淹れたの?」
「はい。少し苦戦しましたが」
「無理しないで」
「紅茶を淹れるくらい、無理のうちに入りません」
蜂蜜入り。いつもの味。
「おいしい」
「片手でも味は同じです」
セレスティアは紅茶を飲みながら考えていた。
マティアスは本気だ。ナターシャを狙った。次はもっと大胆な手を打つかもしれない。
祭典の日。多くの人が集まる場。
魔法陣はフェリクスが無効化する手筈。ルドルフは止まっている。だがマティアスが新たな手を打たないとは限らない。
「ナターシャ。祭典の日、わたしの傍にいて」
「当然です。いつも通り」
「いつも通りが一番心強い」
ナターシャが微笑んだ。
「お嬢様。わたしは大丈夫です。心配しすぎないでください」
「心配する。ナターシャがいなくなったら、わたしは蜂蜜入りの紅茶が飲めなくなる」
「それは大問題ですね。では、紅茶のために生き延びます」
「紅茶のためって。もうちょっとロマンチックな理由はないの」
「お嬢様のためにでは不足ですか」
「……十分です」
二人で少しだけ笑った。
包帯の白さが痛々しかった。でもナターシャの笑顔はいつも通りだった。
祭典まであと四日。




