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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN


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202/224

ナターシャの危機

 それは夕暮れに起きた。


 ナターシャは一人で南区にいた。


 ニコラスとの定期連絡。場所は「灰色の猫亭」。裏路地の小さな茶店。ニコラスが指定した安全な場所のはずだった。


 連絡は済んだ。ニコラスからの最新報告を受け取り、次回の日時を決めた。


 茶店を出た。


 夕焼け。路地が赤く染まっている。


 足音。


 後ろに。二人。


 ナターシャは歩調を変えなかった。表情も変えなかった。灰色の瞳が路地の構造を読み取る。


 左に曲がれば大通り。人がいる。安全。


 右に曲がれば袋小路。


 まっすぐ行けば橋。橋の向こうは中央区。公爵邸に近い。


 左へ。


 曲がった瞬間、前に一人。


 大柄な男。外套のフードを深く被っている。


 三人。後ろ二人。前一人。挟まれた。


 ナターシャは足を止めた。


 「——何か御用ですか」


 声は平静だった。


 前の男が笑った。


 「副宰相からの伝言だ。公爵家の侍女さん」


 「伝言ですか。わたしは侍女ではなく」


 「嘘はいい。お前がセレスティアの情報係だということは分かっている」


 ナターシャの心拍が上がった。悟られないように、呼吸を整える。


 「何をお求めですか」


 「お前をしばらく預からせてもらう。情報源について聞きたいことがある」


 拉致。尋問。


 マティアスの手下。ナターシャの情報網を暴くために直接、要を狙ってきた。


 「お断りします」


 ナターシャが後退した。壁を背にする。三方向を塞がれている。


 前の男が一歩踏み出した。


 「抵抗しても無駄だ」


 ——風。


 男の言葉が途切れた。


 上から。


 影が落ちた。


 屋根の上から人が飛び降りた。


 黒い髪。長い手足。抜き身の短剣。


 ヴォルフ。


 着地と同時に前の男の腕を打った。骨は折らない。だが武器を持てなくする。


 「ぐっ」


 男がよろめいた。


 後ろの二人が動いた。短剣を抜く。


 ヴォルフが振り返った。


 一人目。右手の短剣を蹴り上げる。金属音。短剣が宙を舞う。


 二人目。懐に入る。肘打ち。鳩尾。


 二人が倒れた。


 三秒。


 「ナターシャ。怪我は」


 「ありません。ですが」


 前の男が起き上がった。左手で何かを投げた。


 小瓶。


 割れた。


 白い煙が広がった。煙幕。


 「目を閉じて!」


 ヴォルフがナターシャの腕を引いた。走る。煙の中を。


 路地を抜けた。大通りに出た。夕暮れの人混み。


 振り返った。煙が路地の中で渦巻いている。追手は来ない。


 だが、ナターシャの右腕に、赤い線が走っていた。


 切り傷。浅いが長い。二人目の男の短剣が掠めていた。


 「ナターシャ。腕」


 「浅いです。大丈夫」


 「大丈夫ではない」


 ヴォルフの声が珍しく、硬かった。怒りではない。恐怖に近い。


 「……なぜ一人で来たんですか」


 「連絡の安全確保のために、人数は最小限に」


 「一人は最小限ではない。ゼロです」


 「……すみません」


 ナターシャが珍しく、謝った。


 ヴォルフが自分の外套を破いて、ナターシャの腕に巻いた。応急処置。手際が良い。


 「帰ります。お嬢様に報告を」


 「はい。ヴォルフ、なぜここに」


 「お嬢様の命令です。昨日からナターシャが南区に行く時は、必ず後をつけるように、と」


 「お嬢様が」


 「はい。『マティアスがナターシャを狙う』と。お嬢様の予測通りでした」


 ナターシャの目が少しだけ潤んだ。


 「帰りましょう。急いで」


 ◇


 公爵邸。夜。


 セレスティアはナターシャの腕を見た瞬間、顔色が変わった。


 「ナターシャ」


 「浅い傷です。もう止血は済んでいます」


 「浅い、こんなの浅くない」


 セレスティアの手が震えていた。ナターシャの腕に巻かれた布を見ている。赤い染みが滲んでいる。


 「ヴォルフ。助けてくれてありがとう」


 「お嬢様の命令に従っただけです」


 「命令じゃなくてお願い。ヴォルフがいなかったら、ナターシャは」


 声が——途切れた。


 「わたしのせいだ」


 セレスティアが俯いた。


 「わたしの戦いにナターシャを巻き込んだ。情報収集を任せた。危険な場所に行かせた。怪我をさせた」


 「お嬢様」


 ナターシャの声は穏やかだった。


 「お嬢様。顔を上げてください」


 「……」


 「わたしはお嬢様のために生きると決めたんです。三歳の時に。——あの日から一日も、後悔していません」


 セレスティアが顔を上げた。涙が頬を伝っている。


 「後悔してない?」


 「していません。怪我をしたことも。危険な場所に行ったことも。全てわたしが選んだことです」


 「でも」


 「お嬢様。わたしにも選ぶ権利があります。お嬢様と共に戦うことをわたしは選びました。お嬢様が決めたのではなく、わたしが決めたんです」


 ナターシャの灰色の瞳が静かに光っていた。


 「だから謝らないでください。わたしの選択を、お嬢様の罪にしないでください」


 セレスティアは——泣いた。


 声を殺して。肩を震わせて。


 ナターシャが無事な左手で、セレスティアの髪を撫でた。


 「お嬢様。泣いていいんですよ。でも泣いた後は立ってください」


 「立つ」


 「はい。まだ戦いは終わっていません」


 セレスティアは涙を拭いた。袖で。子供のように。


 「ナターシャ。ありがとう。いつも」


 「こちらこそ。いつも、わたしを必要としてくれて」


 ◇


 翌朝。対策会議。


 父ライナルトが口を開いた。


 「マティアスが直接行動に出た。ナターシャへの襲撃は宣戦布告と同じだ」


 ヘルマンが書類を広げた。


 「襲撃者は三名。いずれもマティアスの私兵です。闇市場経由で雇った者たち。宰相の管轄外の人員」


 「つまり宰相は知らない」


 「はい。マティアスの独断です。宰相から切り離された後、独自の行動を始めています」


 セレスティアが発言した。


 「ナターシャの護衛を強化します。カタリナを追加護衛として付けたい」


 「カタリナ。辺境伯家から来た護衛騎士の」


 「はい。カタリナは辺境伯家で実戦を積んだ騎士です。ナターシャが外出する時には必ずカタリナを同行させます」


 ヘルマンが頷いた。


 「それとナターシャ自身の行動パターンを変更する必要があります。南区への連絡は、ニコラス側からの接触に切り替える。ナターシャが出向くのは当面、控えるべきです」


 「ニコラスの負担が」


 「増えますが、仕方ありません。マティアスの目がナターシャに向いている以上」


 父が言った。


 「ナターシャ。怪我の具合は」


 「軽傷です。三日で塞がります」


 「三日。祭典にはほぼ間に合うか」


 「はい。わたしの仕事に支障はありません」


 ナターシャの声はいつも通り平静だった。腕に巻かれた包帯だけが、昨夜の出来事を物語っている。


 セレスティアはナターシャの横顔を見た。


 失うわけにはいかない。


 「会議はここまで。祭典の最終準備に入ります」


 父が頷いた。


 「セレスティア。無理はするな」


 「無理はしない。でも、必要なことはする」


 「……お前は母に似てきたな」


 「お母様に?」


 「ああ。リリアーナも同じことを言う。必要なことはする、と。そして必ずやり遂げる」


 セレスティアは少しだけ笑った。


 ◇


 その夜。


 ナターシャがセレスティアの部屋に紅茶を持ってきた。左手で。右腕は包帯に覆われている。


 「ナターシャ。片手で淹れたの?」


 「はい。少し苦戦しましたが」


 「無理しないで」


 「紅茶を淹れるくらい、無理のうちに入りません」


 蜂蜜入り。いつもの味。


 「おいしい」


 「片手でも味は同じです」


 セレスティアは紅茶を飲みながら考えていた。


 マティアスは本気だ。ナターシャを狙った。次はもっと大胆な手を打つかもしれない。


 祭典の日。多くの人が集まる場。


 魔法陣はフェリクスが無効化する手筈。ルドルフは止まっている。だがマティアスが新たな手を打たないとは限らない。


 「ナターシャ。祭典の日、わたしの傍にいて」


 「当然です。いつも通り」


 「いつも通りが一番心強い」


 ナターシャが微笑んだ。


 「お嬢様。わたしは大丈夫です。心配しすぎないでください」


 「心配する。ナターシャがいなくなったら、わたしは蜂蜜入りの紅茶が飲めなくなる」


 「それは大問題ですね。では、紅茶のために生き延びます」


 「紅茶のためって。もうちょっとロマンチックな理由はないの」


 「お嬢様のためにでは不足ですか」


 「……十分です」


 二人で少しだけ笑った。


 包帯の白さが痛々しかった。でもナターシャの笑顔はいつも通りだった。


 祭典まであと四日。


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