エドヴァルトの婚約
朝食の席で兄が言った。
「セレス。報告がある」
エドヴァルト・フォン・アルヴェイン。長兄。二十八歳。公爵家の嫡男。広い肩。まっすぐな背筋。銀色の髪は短く整えられ、軍人のようだ。実際、騎士団の訓練を受けている。
「報告?」
「婚約が決まった」
セレスティアのフォークが止まった。
「婚約。おにいさまが?」
「ああ。辺境伯の姪、ベアトリクス・フォン・ヴァイスハウプトと」
食卓が静かになった。
父ライナルトが穏やかに頷いた。知っていた顔。
母リリアーナが微笑んだ。目に光が滲んでいる。
フェリクスは眼鏡の位置を直しながら何も言わなかった。次兄は政略結婚には興味がないらしい。
「ベアトリクス。辺境伯の」
「ギュンター辺境伯の兄の娘だ。年は二十七。俺より一つ下」
エドヴァルトの声はいつもの硬い声だった。軍人のような声。だが、どこか柔らかさがある。
「政略ですか」
セレスティアは聞いた。直接的に。
「政略だ。公爵家と辺境伯家の同盟強化。ギュンター辺境伯が味方についた以上、婚姻で関係を固める。お父様とギュンター辺境伯の間で話が進んでいた」
「おにいさまは知ってたの?」
「三ヶ月前から。ベアトリクスとは手紙を交わしていた」
三ヶ月。セレスティアは知らなかった。
「なぜ言ってくれなかったの」
「決まるまで言いたくなかった。もし破談になったら、お前が心配するだろう」
「心配する。当たり前でしょう。おにいさまの婚約だよ」
エドヴァルトの口元が緩んだ。鉄のような兄の、稀な笑顔。
「ベアトリクスはいい人だ」
「いい人って」
「強い。馬術が得意で、剣も振れる。辺境で育ったから、雪の中で鹿を追ったこともあるらしい」
「おにいさまの好みがよく分からない」
「好みの話じゃない。政略だ」
「政略と言いながら、手紙を三ヶ月交わしてるのは何故ですか」
エドヴァルトの耳が赤くなった。
「……相手を知るためだ。政略であっても、知らない相手と婚約はできない」
「ふうん」
セレスティアの声にからかいの色がある。兄の耳の赤さを見逃さない。
「セレス。妹よ。兄をからかうのはやめろ」
「からかってないよ。嬉しいの」
「嬉しい」
「おにいさまが幸せそうだから」
エドヴァルトが黙った。
母リリアーナが笑った。
「エドヴァルト。あなたは幸せそうよ。隠しても分かります」
「お母様まで」
「ベアトリクスさんとの手紙。最初は一週間に一通だったのに、先月から三日に一通に増えたでしょう。わたしは数えていましたよ」
「……母上、監視ですか」
「監視じゃありません。母の愛です」
食卓が笑いに包まれた。
フェリクスだけが淡々とパンを齧っている。
「おにいさま。フェリクスおにいさまは何か言わないの」
フェリクスが顔を上げた。
「何を言えばいい。婚約おめでとう、でいいのか」
「それでいいよ」
「婚約おめでとう。で、ベアトリクスという人は聖魔力の知識はあるのか」
「……フェリクス。婚約の挨拶に学術的質問をするな」
「重要だろう。家族になるなら、セレスの聖魔力を理解している人が望ましい」
フェリクスの配慮はいつも斜め上だった。だが、確かに重要な視点ではある。
「ベアトリクスには話してある。聖魔力のことも。セレスのことも」
エドヴァルトの声が静かに変わった。
「ベアトリクスは言った。『妹さんを守るなら、わたしも守ります。家族になるのだから』と」
セレスティアの胸が温かくなった。
まだ会ったこともない人が、守ると言ってくれている。
「おにいさま。ベアトリクスさんに会いたい」
「祭典の後に紹介する。今は時期が悪い」
「祭典の後。うん。約束ね」
「約束。お前は約束が好きだな」
「好きだよ。約束は未来の予約だから」
エドヴァルトが穏やかな目でセレスティアを見た。
「セレス。兄も、幸せになれそうだ」
その言葉がセレスティアの心に深く刺さった。
「おにいさま。幸せになってね」
声が——少しだけ震えた。
エドヴァルトが気づいた。
「セレス?」
「なんでもない。嬉しいだけ」
「泣きそうな顔で『嬉しい』と言うな。心配するだろう」
「泣いてないよ——」
リリアーナが静かにセレスティアの手を握った。テーブルの下で。
母の手は温かかった。
「お母様」
「なあに」
「家族が増えるね」
「ええ。嬉しいことね」
◇
午後。セレスティアの部屋。
ナターシャが報告を持ってきた。
「お嬢様。辺境伯からの書簡です。婚約の正式発表は祭典の後。まずは両家の合意を書面で交わしたとのことです」
「うん。これで辺境伯との同盟が強化される」
政略結婚。冷たい言葉。だが、エドヴァルトの耳が赤かったのを、セレスティアは見逃していない。
「ナターシャ。辺境伯の姪、ベアトリクス・フォン・ヴァイスハウプトについて、何か情報は」
「はい。ヘルマンが調べました。辺境伯の兄、故ヴァルター・フォン・ヴァイスハウプトの一人娘。母親は辺境の地方貴族の出。ベアトリクス本人は武芸に秀で、辺境の防衛任務にも参加した経験があるそうです」
「防衛任務。貴族令嬢が?」
「辺境は人手不足ですから。貴族の子女も戦力に数えられます。ベアトリクスは弓術で辺境一と評判だそうです」
「弓術。おにいさまは剣。ベアトリクスさんは弓。遠近の組み合わせ」
「お嬢様。軍事的に分析するのはやめてください。婚約者同士の話です」
「ごめん。癖で」
セレスティアが小さく笑った。
ナターシャも微笑んだ。
「ベアトリクス様は良い方だと思います。ヘルマンの評価では『誠実で剛胆。嘘がつけないタイプ。政治には向かないが、人の信頼を勝ち取る力がある』とのことです」
「嘘がつけない。うちの家族に足りないタイプだ」
「お嬢様。公爵家は嘘つきの集団ではありません」
「嘘はつかない。でも、隠すのが得意な人が多い」
ナターシャが何か言いかけてやめた。否定できなかったらしい。
「ナターシャ。おにいさまの幸せを守りたい」
「はい」
「おにいさまは婚約した。好きな人がいる。幸せになれる可能性がある。その可能性を、絶対に壊させない」
セレスティアの声は静かだが、揺るぎなかった。
「お嬢様。エドヴァルト様の幸せはお嬢様が全てを背負うものではありません」
「分かってる。でも」
「エドヴァルト様は自分で守れる方です。そしてベアトリクス様は弓で熊を射るような方です。二人なら大丈夫です」
「……熊を射るの?」
「辺境の伝説かもしれませんが」
セレスティアは笑った。少し安心した。
兄の隣に強い人がいる。それだけで、少し楽になる。
「ナターシャ。祭典の準備の続きを。マティアスの監視状況は」
「ルドルフは動いていません。宿に閉じこもっています。ですが、マティアスの部下が新しく動いています。三人ほど」
「三人。何を」
「まだ不明です。ニコラスが追跡中です。ですが、一人は南区で活動しています。ニコラスの活動範囲です」
「南区。ニコラスの拠点に近い」
「はい。偶然かもしれませんが」
「偶然じゃない。マティアスはニコラスの存在に気づきかけている。あるいは、わたしの情報源が南区にあることを」
ナターシャの表情が引き締まった。
「ニコラスに警戒を伝えます。行動パターンを変更するように」
「お願い。ニコラスを失うわけにはいかない」
「承知いたしました」
ナターシャが退室した。
セレスティアは窓際に立った。午後の光。庭のラベンダーが揺れている。
兄の婚約。嬉しいニュース。
マティアスの追跡。怖いニュース。
同じ日に両方がある。いつも通り。
「守りたいものが増えていく」
父。母。兄二人。ナターシャ。ヴォルフ。アレクシス。フリーデリケ。仲間たち。
そして、まだ会っていないベアトリクスという人。
「負けない。誰一人、失わない」
小さく呟いた。
母からもらったラベンダーの髪飾りに触れた。銀の細工が午後の光を反射した。
祭典まであと五日。




