宰相との対面
王宮の廊下。午後の陽射し。
セレスティアは偶然を装って、その男と出会った。
偶然ではない。ナターシャが宰相の動線を調べ、この時間にこの廊下を通ることを確認していた。カスパルの行動パターンから逆算した宰相のスケジュール。
足音が聞こえた。重厚な、だが静かな足音。
廊下の角を曲がった先に、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエが立っていた。
七十に近い。白髪交じりの銀灰色の髪。整った顔立ち。深い目。微笑みを絶やさない口元。
その微笑みの下に何があるか、セレスティアは知っている。
「あら。宰相閣下」
驚いた声を作った。十二歳の少女らしく。
「これはこれは、セレスティア嬢。王太子の婚約者殿。こんなところで」
「書庫からの帰りです。少し調べものを」
「調べもの。勤勉ですな。公爵の娘らしい」
宰相が歩み寄った。距離が縮まる。
一度対面している。マティアスの情報を渡した時。あの時は足が震えた。
今は震えていない。
いや。少しだけ震えている。でも、立てている。
「閣下。お久しぶりです。先日は失礼いたしました」
「ああ、副宰相の件ですか。あれは助かりました。確認しましたよ」
宰相の微笑みは変わらなかった。マティアスの裏切りを知った後でも。この男は感情を外に出さない。
「大きくなったな。十二歳か」
「はい。おかげさまで」
「おかげ、私のおかげではないでしょう。公爵家のご教育の賜物です」
「閣下のご指導も、間接的に」
「間接的に?」
「閣下が王国の政治を導いてくださるおかげで、わたしたちは安心して学べます」
嘘だ。でも表面上は感謝の言葉を並べる。
宰相が少し、目を細めた。
「聡明な子だとは聞いている」
「買いかぶりです」
「いいや。暗殺未遂を見抜いた。貴族院で反論の根回しをした。神殿と取引を成立させた。十二歳の少女にしては、随分と」
全部知っている。
セレスティアの背筋に冷たいものが走った。宰相の情報網は健在だ。カスパルだけではない。もっと広い網が張られている。
「閣下はよくご存知ですね。わたしの行動を」
「王国の安全を守るのが宰相の仕事ですから。王太子の婚約者の動向は、当然把握しておかねば」
微笑み。だがその奥に刃がある。「お前を監視している」という明確なメッセージ。
セレスティアは微笑み返した。
「安心しました。閣下がわたしを見守ってくださるなら、危険はありませんね」
「ええ。危険など、あるはずがない」
二人の微笑みがぶつかった。廊下の空気が張り詰めた。
「セレスティア嬢。一つ聞いても?」
「どうぞ」
「何か——望みはないかな。十二歳の少女として。婚約者として。あるいは、公爵家の娘として」
「望みは閣下と同じです」
「同じ?」
「殿下が良い王になること。それだけです」
宰相の微笑みが一瞬だけ、深くなった。
「私と同じか」
「違いますか」
「いいや。同じだよ。少なくとも、表向きは」
「表向きは——」
「表と裏がある。それが政治というものです。お嬢さんは、もう知っているでしょうけれど」
宰相が一歩、近づいた。
声が低くなった。周囲に聞こえないほどの声。
「面白い子だ」
「閣下」
「何かね」
「わたしは閣下を尊敬しています」
宰相の眉がわずかに動いた。予想外の言葉だったのだろう。
「尊敬。珍しいことを言う」
「閣下の政治手腕は本物です。この国を三十年間、安定させてきた。それは誰にでもできることではありません」
「お世辞かね」
「半分は。残り半分は本心です」
セレスティアは真っ直ぐに宰相の目を見た。
「閣下がその手腕を王国のために使い続けてくだされば。わたしは閣下の敵にはなりません」
「敵——」
「でも、もし閣下が王国ではなく、ご自身のために動いておられるなら」
「なら?」
「——わたしは、閣下を止めます」
廊下に沈黙が落ちた。
長い沈黙。
宰相が微笑んだ。今度の笑みは、計算とは別の何かが混じっていた。
「十二歳の少女が私を止めると」
「できるかどうかは分かりません。でも、やります」
「大した度胸だ。お父上譲りか」
「母譲りです」
宰相がふっと笑った。小さく。
「リリアーナ嬢——いや、リリアーナ夫人か。あの方も若い頃は手強かった」
「お母様をご存知で?」
「昔の話だ。では、お嬢さん。これからも精進なさい。良い王太子妃になることを期待していますよ」
「ありがとうございます」
宰相が去っていった。廊下を。静かな足音で。
「ナターシャ」
壁の影から、ナターシャが現れた。
「お嬢様。全て聞いておりました」
「どうだった」
「お嬢様は宰相と対等に渡り合いました。十二歳で」
「対等じゃないよ。まだまだ。あの人は底が見えない」
「ですが、底を見せないことが、お嬢様の武器です。宰相もまた、お嬢様の底が見えない。それが対等ということです」
セレスティアは少し笑った。
「ナターシャ。帰ったらパンケーキ食べたい」
「また甘いものですか」
「宰相と話した後は甘いものが必要なの。毒消しみたいに」
「毒消しですか。ふふ。では特別に、蜂蜜を二倍にしましょう」
二人で廊下を歩いた。
宰相の残り香が、まだ漂っていた。




