閑話 亡国の姫は海を越えた リディア視点
国が滅んだ。
父は処刑された。母は行方不明。城は焼かれた。
エルディアの軍隊が国境を越えてきた日——わたしは十歳だった。
侍女のマリアが手を引いてくれた。城の裏口から。燃える街を走り抜けて。港まで。
「姫様。この船に。船底に隠れて。——レグナシオン王国に行けます」
「マリア——一緒に来て」
「わたしは——残ります。他の子供たちを逃がさなければ」
マリアの目は——泣いていなかった。泣く暇がなかったのだ。
「姫様。生き延びてください。——それが、一番大事です」
船底は暗くて、臭くて、冷たかった。
三日間。何も食べずに。水だけ飲んで。船の揺れに耐えて。
着いた国は——知らない国だった。
◇
レグナシオン王国。魔力貴族の国。
「亡国の姫」。それがわたしに与えられた呼び名だった。
哀れみの目。好奇の目。見下す目。
「可哀想に」「でも魔力がないのでしょう?」「亡国の姫に何ができるの」
誰もわたしを「リディア」とは呼ばなかった。
学園に入れられた。王国の貴族の子供たちと一緒に。特例措置。亡国の姫への「慈悲」として。
慈悲。——その言葉が嫌いだった。
学園では孤立した。当たり前だ。魔力貴族の国で、魔力のない外国の姫。共通の話題がない。言葉の訛りを笑われた。服装が違うと指差された。
食堂で一人、石の壁に背を預けて、冷たいパンを齧っていた。
故郷のパンは温かかった。母が焼いてくれたパンは、香辛料の匂いがした。——もう二度と食べられない。
泣きたかった。でも泣かなかった。亡国の姫は——泣いてはいけない。泣けば「可哀想」が増える。可哀想は——要らない。
ある日。
「リディア様。一緒にお昼を食べませんか?」
声がした。聞いたことのない声。
顔を上げると——銀髪の少女が立っていた。
小さい。わたしより二つ年下。白い肌。薄紫の目。手にパンの包みを持っている。
アルヴェイン公爵家の令嬢。聖魔力の噂がある子。
警戒した。貴族の子が——亡国の姫に理由なく近づくはずがない。何か企んでいる。利用しようとしている。
「あなたは——わたしに何か企んでいるの?」
刺のある声で聞いた。わざと。
少女は——首を傾げた。
「いいえ。ただ——一人でご飯を食べるのは寂しいと思っただけです」
嘘だと思った。
でも——少女は隣に座った。何も言わずに。パンの包みを広げて、半分に割って、片方をわたしに差し出した。
「どうぞ」
「……いらない」
「そうですか。じゃあ——隣にいるだけでいいですか」
断れなかった。断る理由がなかった。
少女は——パンを食べながら、黙って隣にいた。何も聞かなかった。故郷のことも。家族のことも。
ただ——隣にいた。
次の日も来た。
その次の日も。
毎日。欠かさず。
三日目に——わたしから話しかけた。
「あなた——毎日来るのね」
「はい」
「暇なの?」
「暇——ではないですけど。でもリディア様と一緒にお昼を食べるのが好きです」
「好き——。わたしのこと、何も知らないのに」
「知らないから——知りたいです。リディア様のこと」
その日——故郷の話をした。
海の向こうの小さな国。温かい風。香辛料の市場。港の匂い。母が焼いてくれたパン。
セレスティアは——全部聞いてくれた。相槌を打って。時々質問をして。目を輝かせて。
「素敵なところですね。——いつか行ってみたい」
「もう——ないわ。国は」
声が震えた。泣くまいと思ったのに。
セレスティアが——黙ってハンカチを差し出した。白いハンカチ。ラベンダーの刺繍がある。
「泣いていいですよ。——わたしは見てないから」
嘘だ。隣に座って見てないわけがない。
でも——その嘘が、優しかった。
泣いた。声を殺して。冷たいパンを握りしめて。故郷を思って。
セレスティアは——ハンカチを差し出したまま、隣に座って、パンを食べていた。本当に見ていないみたいに。
◇
ある日、セレスティアが言った。
「リディア様。あなたの知識は——この国の宝です」
「宝? ——亡国の姫の知識が?」
「はい。南方の外交関係。交易路。言語。文化。——この国にはない知識をお持ちです。あなたを必要としている場所があります」
「必要としている——」
「わたしの知識が——役に立つの?」
「立ちます。とても。——リディア様、わたしと一緒に、この国を変えませんか」
この国を——変える。
九歳の少女がそう言った。冗談ではない。目が本気だった。
「あなた——何者なの」
「ただの公爵家の娘です。——でも、やりたいことがあるんです」
「やりたいこと——」
「みんなが安心して暮らせる国を作ること。——リディア様の故国みたいに、温かくて、パンが美味しくて、人が笑っている国を」
泣きそうになった。また。
「分かったわ。——一緒にやる」
その日から——わたしはセレスティアの仲間になった。
◇
あれから三年。
わたしは十二歳になった。
故国のレジスタンスから密使が来た。仲間が戦っている。物資が足りない。助けてほしい、と。
帰りたかった。海を越えて。仲間のところに。
でも——残った。
セレスティアの傍に。この国で。
帰るのは——この国を変えた後。
セレスティアが宰相を倒して。アルマンドへの裏支援を止めて。南方に正義の外交が生まれた——その後で。
それまでは——ここで戦う。
外交と情報で。南方の諺と——即興の諺で。
この子のためなら——海の向こうの知識も、外交の駆け引きも、全て差し出す。
だってこの子は。
石壁の前で一人で泣いていたわたしに、パンを分けてくれた最初の人だから。
「見てないから」と嘘をついて、隣で座っていてくれた人だから。
わたしの故国を——「温かい国」と呼んでくれた人だから。




