リディアの故郷
学園の中庭。石段。いつもの場所。
リディアが——泣いていた。
セレスティアが石段に着いた時、リディアはフリーデリケの肩に顔を埋めていた。フリーデリケが黙って背中をさすっている。アネリーゼが隣で手を握っている。
「リディアさま」
セレスティアの声に、リディアが顔を上げた。目が赤い。鼻も赤い。いつもの凛とした表情が崩れていた。
「セレスティア、ごめんなさい。みっともないところを」
「みっともなくない。何があったの」
リディアが手に持った紙を差し出した。薄い紙。海を越えてきた紙。塩の匂いがする。
「故郷から密使が来たの。昨夜」
南方。リディアの故国。エルディアに滅ぼされ、今はアルマンド将軍に踏みにじられている小国。
「密使」
「故国の残存勢力がレジスタンスを組織した。山中に潜伏して、アルマンドの軍と戦っている。でも物資が足りない。武器も食料も。このままでは」
声が震えた。
「このままでは全滅する」
セレスティアは紙を読んだ。古い文字。リディアの母国語で書かれている。
「リディアさま。これを翻訳してくれる?」
リディアが頷いた。涙を拭いて、紙を読み上げた。
「『リディア姫。我々は山中にて抵抗を続けている。兵力三百。だが補給線は断たれ、二ヶ月以内に弾薬が尽きる。レグナシオン王国に支援を求められないか。姫の人脈を頼みにしている。トマス・モレッティ、レジスタンス指揮官』」
三百人。二ヶ月。
リディアの故国で人が死にかけている。
「リディアさま。帰りたい?」
リディアの体が震えた。
「帰りたい——」
声が絞り出された。
「帰りたい。故郷に。みんなのところに。でも」
「でも?」
「帰っても、わたし一人では何もできない。姫といっても、十二歳の女の子一人。兵を率いることもできない。武器もない。金もない」
「……」
「でもここにいれば。レグナシオン王国にいれば、外交の道がある。支援を取り付ける可能性がある。セレスティア、あなたの傍にいれば」
リディアがセレスティアを見た。赤い目で。
「あなたの傍にいれば、この国を変えられる。この国が変われば、南方の情勢も変わる。宰相がアルマンドを利用するのを止められれば、故郷の人たちも」
「リディアさま。わたしはあなたを引き止めない」
リディアの目が見開かれた。
「引き止めない?」
「リディアさまの国も大切。帰りたいなら帰っていい。わたしはあなたの選択を尊重する」
「でもあなたの戦いは」
「わたしの戦いのために、リディアさまの故郷を犠牲にはできない」
沈黙。
フリーデリケがリディアの背中をさすりながら、小さな声で言った。
「リディアさま。どっちでもいいと思います」
「フリーデリケ」
「帰っても、残っても。リディアさまが決めたことなら、わたしたちは応援する。ね?」
フリーデリケがセレスティアを見た。アネリーゼを見た。二人が頷いた。
リディアの涙がまた流れた。
しばらく泣いた。石段の上で。春の風の中で。
泣き終わった後、リディアが顔を上げた。
「決めた」
「うん」
「残る。——今は、ここで戦う」
「……いいの?」
「帰ってもわたし一人では何もできない。でもここにいれば、外交で、情報で、この国の力を使って、故郷を救える可能性がある」
リディアが立ち上がった。涙を拭いた。凛とした顔が戻った。
「帰るのは、この国を変えた後。セレスティア。あなたが宰相を倒して、アルマンドへの裏支援を止めて、南方に正義の同盟を作った、その後で」
「大きな注文だね」
「あなたならできる。わたしの国の諺にね。『海を渡る船は、一人では漕げない。でも友がいれば、嵐も越えられる』」
セレスティアは微笑んだ。
「リディアさま。それ、今考えた?」
「……ばれた?」
「ばれた。リディアさまの諺は、いつも即興だから」
リディアが——ぷっと笑った。涙の跡が残ったまま。
「即興じゃないわよ。半分くらいは本当の諺。残り半分がわたしのアレンジ」
「どこからがアレンジ?」
「『友がいれば』のところから」
「一番大事なところじゃない」
四人で笑った。石段の上で。春の風の中で。
◇
その日の午後。セレスティアはリディアと二人で、密使との連絡路について話し合った。
「密使はどの経路で来た?」
「商船に紛れて。南方の交易船。ガルニエ商会の監視網をかいくぐって」
「ガルニエ商会の監視網」
「ええ。南方の海路はガルニエ商会が支配している。通常の船では情報が筒抜けになる」
「ニコラスの闇商人ギルドに別の航路がないか聞いてみる」
「闇商人」
「信用できる相手よ。情報のプロ。リディアさまの密使と連絡を維持する方法を探す」
リディアがセレスティアの手を握った。
「ありがとう。あなたは自分の戦いだけでも大変なのに」
「リディアさまの戦いも、わたしの戦い。南方の問題を解決することは、宰相の力を削ぐことに直結する。利害が一致してるの」
「利害ね。あなたは本当に、政治家の言い方をする」
「違うよ。本音はリディアさまの故郷を助けたい。それだけ」
リディアの目が潤んだ。でも泣かなかった。今度は。
「セレスティア。わたし、あなたに出会えてよかった」
「わたしも。リディアさまの外交知識がなかったら、南方の裏事情は分からなかった」
「外交知識ね。滅んだ国の姫の、唯一の武器」
「唯一じゃない。リディアさまの武器は勇気。海を渡って、知らない国で、一人で立った勇気」
リディアが微笑んだ。
「勇気じゃないわ。必死だっただけ」
「必死と勇気は同じだと思う」
「あなたの諺?」
「わたしの即興」
「じゃあ、半分本当で半分アレンジね」
二人で笑った。
石段に戻った。フリーデリケが丸いパンを四つに割って配っていた。
「はい。リディアさまの分」
「ありがとう、フリーデリケ」
リディアがパンを受け取った。かじった。
「美味しい」
「でしょう? 今日は少しだけ塩を多めにしたの。泣いた後は塩気が欲しくなるかなって」
リディアの目が丸くなった。
「フリーデリケ。あなた、気が利きすぎない?」
「えへへ」
フリーデリケが笑った。無邪気に。
石段。春の風。丸いパン。四人の少女。




