国王の遺言
第185話「国王の遺言」
国王レオナルド三世が公爵を呼んだ。
病床からの召喚。王宮の奥、国王の私室。
セレスティアは同行を許されなかった。国王と公爵、二人きりの会見。だが、リリアーナから、後で全てを聞いた。
◇
国王の寝室。
白い寝台。白い壁。白い天井。全てが白い。まるでもう死者の部屋のように。
レオナルド三世は寝台に横たわっていた。四十代の半ばだが、病がその年齢から十年以上を奪っていた。痩せた体。陥没した頬。枯れ枝のような手。
だが目だけは、生きていた。
「ライナルト——」
声はかすれていた。だが名前を呼ぶ声には温もりがあった。
公爵が寝台の傍に膝をついた。
「陛下。お呼びに応じ、参上いたしました」
「固いな。昔のように話してくれ。学友の頃のように」
「……レオナルド」
国王が微笑んだ。弱々しい、だが確かな笑み。
「そうだ。久しぶりだな、その呼び方」
「二十年ぶりだ」
「二十年。お前が公爵を継いで、私が王太子になった時から。立場が変わって名前で呼べなくなった」
「陛下、いや、レオナルド。何があった」
「見ての通りだ。もう長くない」
公爵の拳が膝の上で握られた。
「毒の後遺症か」
「毒だけではない。その前から体が限界だった。生まれつき弱かったからな、私は」
国王が天井を見上げた。
「ライナルト。古い友よ。頼みがある」
「何でも」
「アレクシスを——頼む」
公爵が息を呑んだ。
「あの子を正しい王にしてくれ。私は正しい王ではなかった。弱くて、臆病で、宰相を止められなかった。全てをエレオノーラに任せて、自分は病床で寝ているだけだった」
「レオナルド」
「でもアレクシスは違う。あの子には可能性がある。まだ幼い。未熟だ。だが目が真っ直ぐだ。あの目は私にはなかった」
国王の枯れた手が公爵の手を探した。公爵が握った。骨と皮だけの手を。
「そして、宰相を止めてくれ」
「……」
「ヴィクトールは有能だ。王国のためになることもした。だがあの男は、いつしか王国ではなく自分のために動くようになった。私には止める力がなかった」
国王の目から涙が流れた。
「無力な王だった——。二十年間。民の上に座りながら何もできなかった。宰相が暴走するのを見ながら止められなかった。妻に全てを背負わせた。息子に重荷を残した。何もできない王だった」
公爵が国王の手を強く握った。
「レオナルドよ。お前は無力ではなかった」
「何を」
「エレオノーラを選んだのはお前だ。あの強い女性を。そしてアレクシスを育てたのもお前だ。病弱でも会うたびに『大きくなったな』と言い続けた。あの言葉がアレクシスを支えている」
「……」
「王の仕事は全てを自分ですることではない。正しい人を選び、信頼し、任せること。お前はエレオノーラを選び、公爵家を信頼し、アレクシスに未来を任せようとしている。それは立派な王の仕事だ」
国王の涙が止まらなかった。
「ライナルト。お前は昔から、私が泣くと、必ず何か言ってくれた」
「学友だからな」
「ただの学友ではない。最後の友だ」
公爵が膝をついたまま頭を下げた。
「陛下の御意に従います。アレクシスを必ず、正しい王にいたします。宰相は止めます」
「頼む。そしてもう一つ」
「何でしょう」
「お前の娘、セレスティアを。あの子を、守ってくれ」
公爵が顔を上げた。
「セレスティアを。陛下がご存知で」
「エレオノーラから聞いている。銀髪の少女。聖魔力の持ち主。王太子の婚約者。そして、暗殺未遂を見抜いた子」
「はい」
「あの子は脅かされる。聖魔力のせいで。聡明さのせいで。宰相に狙われる。私と同じ目に遭う前に、守ってほしい」
「私と同じ」
「私も若い頃は志があった。だが宰相に追い詰められ、気力を奪われた。あの子が同じ目に遭えば、王国は本当の光を失う」
国王が力を振り絞って、公爵の手を握り返した。
「あの子は——光だ。この国の。消してはならない」
◇
公爵が退室した後。
病室の扉の外で王妃エレオノーラが壁に背を預けていた。
泣いていた。
声を殺して。摂政の顔ではなく。妻の顔で。
「エレオノーラ」
「聞こえていました。全部」
「……」
「あの人はいつもそう。自分を無力だと言う。何もできなかったと言う。でも」
涙が溢れた。
「毎朝——『綺麗だね』と言ってくれた。二十年間。一日も欠かさず。それがどれだけ、わたしを支えたか」
公爵は何も言わなかった。ただ立っていた。
「ライナルト殿。お願いします。レオナルドの最後の望みを」
「必ず」
王妃が涙を拭いた。一度だけ。そして摂政の顔に戻った。
◇
夜。公爵邸。
父がセレスティアを呼んだ。書斎に。
セレスティアは父の顔を見て全てを察した。
父の目が赤かった。泣いた後。でも声は平静だった。
「国王陛下からお言葉をいただいた」
「お父様」
「アレクシスを正しい王に。宰相を止めよ。そして」
父がセレスティアを見た。
「お前を守れ、と」
胸が詰まった。
会ったこともない国王が。病床から。自分のことを気にかけてくれていた。
「陛下はわたしを『光だ』と言ったそうだ。この国の光だと」
「光」
「そして『消してはならない』と」
セレスティアの目から涙が落ちた。
「お父様。陛下を、守れないの?」
「医術では限界がある。だが」
「だが?」
「陛下の御心は守る。最後の望みは必ず叶える」
父がセレスティアの頭を撫でた。
「お前は光だ。私もそう思う」
「わたしは、ただの十二歳だよ」
「ただの十二歳が、一番眩しい光だ」
セレスティアは父の胸に額を預けた。久しぶりに。子供のように。
父の胸は広かった。温かかった。
父の胸の温もりが、その夜はいつまでも残っていた。




