イザベラの転機
夜。王宮の客室。
セレスティアが報告書を読んでいると、扉が叩かれた。控えめな音。
ナターシャが扉を開けた。
立っていたのはイザベラだった。
黒髪。黒い目。夜着の上に薄い上着を羽織っている。化粧はしていない。いつもの完璧な令嬢の姿ではなく、素のイザベラ。
目が赤かった。
「イザベラ」
「入っていい?」
「もちろん」
イザベラが部屋に入った。ナターシャが扉を閉め、廊下に出た。「お呼びがあれば」と一言残して。
二人きり。
イザベラは椅子に座らなかった。窓辺に立って、夜の庭を見ていた。月明かりが横顔を照らしている。
「今日の貴族院、聞いた」
「うん」
「あなたの味方が反論した。ヴィオレッタ。コンラート。アネリーゼ。三人も」
「うん」
「わたしは何もしなかった」
イザベラの声が小さかった。
「宰相の娘だから。父の側にいなければいけないから。あなたを攻撃する議員たちの横で、黙って座っていた」
「イザベラ」
「黙って座っていた。何も言わずに。何もできずに。あなたが攻撃されているのを見ながら」
イザベラの手が窓枠を握っていた。白くなるほど。
「悔しい」
声が震えた。
「悔しいの。わたしはあなたの味方になりたい。でもなれない。父がいるから。ガルニエ家がいるから。わたしが味方になった瞬間——父がわたしを切る。家を追い出される。全てを失う」
「イザベラ。あなたは」
「でも」
イザベラが振り返った。月明かりの中で。涙が光っていた。
「でも、黙って座っていることも、もう耐えられない」
セレスティアは立ち上がった。イザベラの前に歩み寄った。
「イザベラ。一つ聞いていい?」
「何」
「もしあなたがお父様に逆らったら、わたしは味方してくれる?」
イザベラの目が見開かれた。
それは——イザベラ自身が問おうとしていた言葉だった。セレスティアが先に言った。
「え」
「逆に聞くの。わたしから」
「何を」
「わたしは、イザベラに味方してほしい。でもそれはイザベラが失うものを知った上で頼まなきゃいけない。だから先に聞く。もしあなたが全てを失ったら——わたしが味方になる。家も地位もなくなっても。わたしがあなたの居場所になる」
イザベラの涙がこぼれた。
「あなたはいつもそう」
「え?」
「いつもわたしが言おうとしていることを、先に言う。わたしが欲しい言葉を、わたしより先に」
「だって、イザベラの顔を見れば分かるから。何を言いたいか」
「分かるの?」
「分かるよ。ずっと見てたから」
「イザベラ。わたしはずっとあなたを待っていた」
「待って」
「うん。あなたが自分で決めるのを。お父様でもなく、マティアスでもなく、ルシアンでもなく、イザベラ自身が」
イザベラの唇が震えた。
「わたしは」
長い沈黙。
夜風が窓から入ってきた。冷たい風。二人の髪を揺らした。
「わたしはお父様が怖い」
「うん」
「お父様に逆らったことがない。一度も。十二年間、一度も」
「うん」
「でも」
イザベラが——セレスティアの手を取った。自分から。初めて。
「ねえ、セレスティア。もしわたしが父に逆らったら、あなたは、味方してくれる?」
セレスティアは即答した。
「もちろん」
迷いはなかった。
「もちろん。何があっても。何を失っても。わたしは、イザベラの味方」
イザベラの涙が——止まらなくなった。
「まだ、まだ踏み切れない。ごめんなさい。まだ少し時間がほしい」
「待ってる」
「いつまで」
「いつまでも。何年でも。イザベラが決めるまで」
イザベラがセレスティアの手を握ったまま、声を殺して泣いた。
しばらく。長い時間。
セレスティアは手を離さなかった。握り返したまま。温かい手で。
泣き終わった後、イザベラが顔を上げた。目が赤い。鼻も赤い。いつもの完璧な令嬢の面影はない。
でも綺麗だった。仮面のない顔は綺麗だった。
「セレスティア」
「なに」
「あなたの手、温かい」
「イザベラの手も温かいよ」
「嘘。わたしの手は冷たい。いつも」
「今は温かい。泣いたから」
イザベラがぷっと吹き出した。涙の跡が残ったまま。
「泣くと手が温かくなるの?」
「知らない。でもそうみたい」
「変な理論ね」
「フェリクスおにいさまに聞いてみようか。論文にしてくれるかも」
「やめてよ。『涙と体温の相関関係について』なんて論文」
二人で笑った。夜の客室で。月明かりの中で。
笑い声は小さかった。でも温かかった。
「イザベラ。一つだけ約束して」
「何」
「危ない時は逃げてきて。わたしのところに。いつでも」
「逃げる」
「逃げることは恥じゃない。わたしも逃げる。必要な時は」
イザベラは少し考えて、頷いた。
「約束する。でも、できれば逃げなくて済むように頑張る」
「うん。それがいい」
イザベラが扉に向かった。振り返った。
「セレスティア」
「なに」
「ありがとう。待っていてくれて」
「いつでも」
イザベラが出ていった。
セレスティアは一人残った部屋で息を吐いた。長い息。
ナターシャが戻ってきた。
「お嬢様。大丈夫でしたか」
「うん。イザベラが来た」
「存じております。何か、進展が?」
「進展というか。イザベラが泣いた。たくさん」
「泣いた」
「うん。でもいい涙だった。自分で決めようとしている涙」
ナターシャが微笑んだ。
「お嬢様は本当に、人を泣かせるのが上手ですね」
「褒めてないでしょ、それ」
「最大限に褒めています」
セレスティアは笑った。
月が窓から見えた。明るい月。
イザベラの手の温もりがまだ残っていた。




