300年前の真実
神殿の書庫は地下にあった。
石段を降りる。冷たい空気。蝋燭の揺れる光。壁に沿って無数の書架が並んでいる。革装丁の古書。巻物。羊皮紙の束。何百年もの歴史がここに眠っている。
セレスティアの隣にフェリクスがいた。
「おにいさま。来てくれてありがとう」
「神殿の秘蔵書庫だぞ。研究者として来ない理由がない」
フェリクスの目が輝いていた。学者の目。知識への飢え。セレスティアの銀髪と同じ色の髪が、蝋燭の光に揺れている。
案内役はアネリーゼ。白い法衣。金色の短い髪。手に提灯を持っている。
「こちらです。三百年前の記録は、書庫の最奥に保管されています」
「最奥か」
「封印されていました。大神官猊下の許可がなければ、開けられない扉の向こうに」
封印。三百年間。
何が隠されている。
最奥の扉。鉄の扉。古い錠前。アネリーゼが大神官から預かった鍵で開けた。
軋む音。埃の匂い。三百年分の沈黙の匂い。
小さな部屋だった。石壁。石の机。その上に一冊の書物と、数枚の羊皮紙。
フェリクスが慎重に書物を手に取った。
「『聖魔力の記録、真実の写本』。著者はオレリアン神官。三百年前の大神官だ」
「読んで。おにいさま、読んで」
フェリクスがページを開いた。古い文字。だがフェリクスには読める。古語の解読は彼の専門だ。
声に出して読み始めた。
◇
『三百年前。王国暦一八二年。
聖魔力の保有者が現れた。名をエステルという。農民の娘。十六歳。
エステルの魔力は光と闇の融合、聖魔力と呼ばれた。神殿は彼女を「神の使い」として迎えた。
エステルは善良な娘だった。病人を癒し、枯れた畑に恵みをもたらし、民に慕われた。
だが、王家の側近は恐れた。
当時の宰相ガウスは、エステルの力を脅威と見た。「一人の娘が持つ聖魔力は、やがて王家を揺るがす」と。
国王はエステルに出頭を命じた。エステルは従った。善良な娘だったから。
エステルは王宮付属礼拝堂に配属された。民を癒す聖女として。だが実際は、監視のためだったと、今は思う。
エステルは三ヶ月、礼拝堂で働いた。毎日。誠実に。来る者を診て、手を当て、痛みを取り除いた。
そして、ある夜。
礼拝堂で魔力の暴走が起きた。
石壁が崩れた。屋根の一部が落ちた。礼拝堂の中にいた者が逃げた。
なぜ暴走したのか。私には分からなかった。後から聞いた話では、暴走の数日前に礼拝堂の「補強工事」が行われていたという。しかし工事の詳細は知らされず、礼拝堂は事後すぐに封鎖された。壁の中を調べる機会は、最後まで与えられなかった。
ガウス宰相がその夜のうちに現れた。「反乱だ」と宣言した。
「聖魔力者が暴走した。王家に弓を引いた。民を傷つけた」
民は恐れた。さっきまで慕っていたエステルを恐れた。
裁判は翌朝だった。弁護人なし。証人はエステルに不利な者のみ。
神殿はエステルの側に立とうとしたが、王家の圧力に屈した。当時の私には、逆らえなかった。
エステルは——処刑された。
断頭台で。
十六歳。善良な娘。何も悪いことをしていない娘。
王家が恐れ、宰相が仕組み、王家が殺した。
そして王家は歴史を書き換えた。
「聖魔力者は反乱を起こした。王家が鎮圧した。聖魔力は危険である」
真実は違うはずだ。
エステルは反乱を起こしていない。礼拝堂の壁に何かが仕込まれていたのではないかと、今も疑っている。だが証拠はない。調べようとした時には、すでに遅かった。
歴史は権力者が書いた。だが、私は真実を記す。
この記録は真実を残すために、私オレリアンが密かに記す。
いつか。聖魔力の保有者が再び現れた時。
同じ過ちを繰り返さぬように。
エステルの無念を晴らすために。
——大神官オレリアン記す。王国暦一八三年。』
◇
フェリクスが読み終えた。
沈黙。
蝋燭の炎が揺れている。書庫の最奥。三百年の沈黙の中で。
セレスティアは震えていた。
怒りではない。恐怖でもない。悲しみだ。
エステル。十六歳。農民の娘。善良な娘。病人を癒し、畑に恵みをもたらした。
それなのに殺された。恐れられて。追い詰められて。断頭台で。
「同じだ——」
声が震えた。
「わたしと——同じ。聖魔力を持っているだけで。何も悪いことをしていないのに。——殺された」
フェリクスがセレスティアの肩に手を置いた。
「セレスティア。怒っているか」
「怒ってる。でもそれ以上に、悲しい。エステルは善良だったのに。善良だったから疑わなかった。出頭命令に従い、礼拝堂で働き続けた。善良さが命を奪った」
「……ああ」
「わたしは——エステルにはならない。同じ道は辿らない」
セレスティアが手を握りしめた。
「出頭命令に従わない。善良さで死なない。生き延びる。何があっても」
フェリクスが頷いた。学者の目ではなく、兄の目で。
「記録を複写する。この真実は武器になる」
「武器」
「宰相が『聖魔力は脅威だ。三百年前に反乱を起こした』と言った時、この記録を出す。『反乱ではなかった。王家が殺した』と。公式の歴史が嘘であることを証明する」
「でも、王家を敵に回すことにならない?」
「三百年前の王家と、今の王家は違う。今の王妃は摂政としてお前の味方だ。アレクシスもいる。過去の王家の過ちを認めることは、今の王家の誠実さを示すことになる」
フェリクスが羊皮紙を慎重に取り出し、複写を始めた。古語を正確に写し取る。学者の手つき。
アネリーゼが泣いていた。静かに。
「アネリーゼ?」
「エステル、善良な人だったのですね。病人を癒し、わたしと同じことをしていた人。それなのに」
「アネリーゼ。泣いていいよ」
「泣いています。もう」
セレスティアはアネリーゼの手を握った。
「アネリーゼ。あなたはエステルの無念を知った。知ったということは、同じ過ちを防げるということ」
「わたしに何ができるでしょう」
「神殿の中から声を上げて。エステルは善良だったと。聖魔力は脅威ではないと。大神官猊下はその真実を知っている。だから書庫を開けた」
「猊下は三百年間、この真実を守っていたのですね。代々の大神官が」
「うん。この時のために」
アネリーゼが涙を拭いた。決意の目になった。
「分かりました。わたしは神殿の中で、エステルの真実を伝えます。ベルトラン様と共に」
◇
書庫を出た。石段を上がる。地上の光が目に染みた。
フェリクスが複写した記録を懐にしまった。
「セレスティア。一つ、気になることがある」
「何」
「この記録、エステルの処刑は王国暦一八二年。公式記録では『聖魔力者の反乱は一八二年から一八三年にかけて行われた』となっている」
「一年間か」
「一年間、反乱があったことになっている。だが真実ではエステル一人が仕組まれて殺されただけだ。一年間の反乱は存在しない」
「架空の反乱」
「王家が一年かけて嘘の歴史を作った。戦闘記録。被害報告。鎮圧の功績。全て捏造だ」
フェリクスの目が鋭くなった。
「セレスティア。宰相が使おうとしている『聖魔力脅威論』の根拠は、この捏造された歴史だ。根拠そのものが嘘なら、脅威論は崩壊する」
「でも、公式記録を覆すのは簡単じゃない」
「簡単ではない。だが、神殿の秘蔵記録という証拠がある。大神官の署名入りだ。三百年間封印されていたという事実自体が、信憑性を担保する」
フェリクスがセレスティアの頭をぽんと叩いた。兄の仕草。
「これは決定的な武器だ。使い時を間違えるな」
「間違えない。おにいさまが一緒に考えてくれる?」
「当然だ。研究者として、この記録は人生最大の発見だ。学術的にも発表したい。だが」
「だが?」
「兄としてお前の安全が最優先だ。発表の時期は、お前が決めろ」
「ありがとう、おにいさま」
セレスティアはフェリクスの腕にしがみついた。十二歳の妹の仕草。
フェリクスが少し照れた顔をした。
「おい、外で甘えるな」
「いいでしょう。兄妹なんだから」
「……好きにしろ」
好きにした。腕にしがみついたまま、神殿を出た。
春の光が降り注いでいる。花が咲いている。
「おにいさま。帰りにパン屋さん寄っていい?」
「パン屋か」
「フリーデリケにお土産。丸いパンを」
「……三百年の真実を知った直後に、パンか」
「パンは大事だよ。日常は大事。エステルもきっと、パンを焼いていたと思う。普通の女の子だったんだから」
フェリクスが笑った。
「そうだな。パン屋に寄ろう」
兄妹で、パン屋に寄った。
丸いパンを二つ買った。一つはフリーデリケに。一つは自分に。
かじった。温かかった。
エステル。三百年前の少女。
あなたの分まで、生き延びる。




