神殿との取引
神殿からの使者が来たのは、花の季節だった。
白い法衣の神官が、一通の書簡を携えて公爵邸を訪ねた。蝋封に刻まれた紋章は太陽と月が交差する意匠。大神官シルヴェストルの直筆の印。
書簡の内容は簡潔だった。
『アルヴェイン公爵家息女セレスティア嬢に。聖魔力の保有者として、直接の対話を求める。場所は中央神殿。大神官の間にて。シルヴェストル』
セレスティアは書簡を読み、ナターシャに渡した。
「来たね」
「はい。予想通り」
大神官シルヴェストルの介入。あれ以来、神殿はセレスティアへの接触を模索していた。アネリーゼを通じた間接的な繋がりはあったが、大神官自身との直接対話は、初めてだ。
「行く。一人で」
「お嬢様」
「ナターシャは外で待っていて。大神官との対話に侍女を同席させたら、対等の立場で話せなくなる。わたしは公爵家の代理ではなく、聖魔力の保有者として行く」
「……承知いたしました。ですが、ヴォルフは」
「ヴォルフも外。神殿の聖域に武装した護衛は入れない」
ナターシャは不安そうだったが、頷いた。
◇
中央神殿。
王都の中心に聳える白い建物。石造りの壁。高い天井。ステンドグラスの窓から色とりどりの光が差し込んでいる。
セレスティアは回廊を歩いた。白い大理石の床に、自分の足音だけが響く。
大神官の間。
扉が開かれた。
広い部屋。中央に石の祭壇。壁一面に古い書物が並んでいる。神殿の書庫の一部だ。
大神官シルヴェストルが待っていた。
七十代。白髪。長い白髭。深い皺の中に鋭い目がある。老いているが、枯れてはいない。内側に炎を持った老人。
「よく来た。セレスティア・フォン・アルヴェイン」
声は低く、重い。神殿の石壁に反響した。
「大神官猊下。お招きありがとうございます」
「座りなさい」
祭壇の前に二つの椅子が向かい合わせに置かれていた。大神官が一つに座り、セレスティアがもう一つに座った。
距離は近い。手を伸ばせば届くほど。
大神官の目がセレスティアを射抜いた。
「見せてもらおうか」
「何をでしょう」
「聖魔力を」
セレスティアは手のひらを開いた。
意識を集中する。心臓の鼓動に同期させる。とくん、とくん。
手のひらに光が灯った。淡い、白金の光。光と闇が融合した、聖魔力の光。
大神官の目が見開かれた。
「……これは」
老人の声が震えた。
「三百年ぶりだ。——この光を見るのは」
「三百年。大神官猊下は、三百年前を知っているのですか」
「知らぬよ。だが記録で読んだ。何度も。何十回も。聖魔力の光。白金の光。光と闇の交わり。お前の手にあるものは、間違いなく聖魔力だ」
大神官が目を閉じた。何かを祈るように。
そして目を開けた。今度は交渉者の目。
「セレスティア嬢。神殿はお前に要求がある」
「お聞きします」
「年に一度の『祝福の儀』への参加。神殿で行う公開の儀式だ。聖魔力の保有者が祝福の祈りを捧げ、民にその光を見せる」
「見世物ですか」
「見せ物ではない。信仰の儀だ。民は聖魔力を『神の祝福』と見る。その光を目にすることで信仰が深まり、民の心が安定する」
「祝福の儀。年一回。それが神殿の要求」
「そうだ」
「わたしからも要求があります」
大神官の眉が上がった。
「十二歳の娘が大神官に要求とは、面白い」
「神殿の書庫へのアクセスを求めます」
「書庫」
「特に三百年前の聖魔力者に関する記録。公式の歴史とは異なる、神殿独自の記録があるはずです」
大神官の目が鋭くなった。
「なぜそれを知っている」
「知りません。推測です。神殿は王国より古い組織。王家が書き換えた歴史でも、神殿には元の記録が残っているはず」
「……推測にしては正確だな」
「当たっていますか」
大神官は長い間沈黙した。
それから微笑んだ。深い皺の中で。
「ある。確かに、ある。三百年前の記録。公式の歴史とは異なるもの」
セレスティアの心臓が速くなった。
「それを読みたい」
「なぜだ。三百年前の記録が、お前に何の関係がある」
「わたしは聖魔力の保有者です。三百年前の聖魔力者に何が起きたかを知ることは、自分の身を守るために必要です」
大神官がセレスティアを見つめた。長い視線。
「お前は三百年前と同じ道を辿ることを恐れているのか」
「恐れています」
「賢いな。恐れるべきだ。三百年前の聖魔力者は——王家に殺された」
心臓が止まりそうだった。
「殺された。反乱を起こしたのではなく?」
「公式にはそうなっている。だが真実は異なる。その真実を知りたいか」
「知りたい」
「書庫のアクセスを許可しよう。条件は、祝福の儀への参加。年一回」
「承知しました」
セレスティアは大神官と向かい合ったまま、手を差し出した。
大神官が皺だらけの手で、小さな手を握った。
「セレスティア嬢。一つ言っておく」
「はい」
「三百年前の記録を読めば、お前は怒るだろう。王家に対して。歴史に対して。そして——自分の運命に対して」
「怒っても暴走しません」
大神官が目を丸くした。
「暴走?」
「聖魔力は感情に反応します。怒れば暴走する。——でもわたしは、怒ったまま立てます。先生に教わりました」
「先生。グレーテル・シュタインか」
「猊下はグレーテル先生を」
「知っておるよ。あの女は若い頃、神殿で修行していたのだ。優秀だった。口うるさかったがな」
セレスティアは笑った。グレーテルの厳格な顔を思い浮かべて。
「猊下。一つお聞きしてもいいですか」
「何だ」
「猊下は、わたしの味方ですか。それとも」
「神殿は誰の味方でもない。神の味方だ」
「神の味方は、わたしの味方ですか」
大神官がはっと笑った。声を上げて。
「面白い子だ。神がお前の味方かどうかは、お前の行い次第だ。正しく在れ。さすれば神は、お前と共にある」
「正しく在ります」
「よかろう。書庫への案内は、アネリーゼに頼もう。あの子はお前を信頼している」
「アネリーゼが猊下のことも信頼しています」
「ふん。あの子は信頼しすぎるのだ。神官としては優秀だが、人を疑うことを知らん」
口調は厳しいが、目が優しかった。孫を語る祖父のような。
「猊下。ありがとうございました」
「礼を言うのは書庫を読んだ後にしろ。後悔するかもしれんぞ」
「後悔はしません。真実を知ることに後悔はないから」
大神官がもう一度、笑った。
神殿を出た時、ナターシャとヴォルフが待っていた。
ナターシャの目が「どうでした」と問うていた。
「取引成立。書庫に入れる」
「おめでとうございます」
「おめでとうはまだ早い。三百年前の真実を読んでから」
「三百年前の記録を読めるのですか」
「うん。大神官が言った。三百年前の聖魔力者は——王家に殺された。公式の歴史とは違う真実が、書庫にある」
ナターシャが息を呑んだ。
「それは」
「今は言えない。読んでから考える。ただ——」
セレスティアは神殿の白い壁を振り返った。
「読む前よりも、読んだ後の方が、怖くなるかもしれない。それでも読む」
ナターシャが頷いた。
「お供します。書庫にも」
「うん。一緒に来て」
春の風が吹いた。神殿の白い壁に、花びらが舞っていた。アネリーゼは今日、ここにいるのだろうか。いつかここでも話したい。その日が来るまで、もう少し歩く。




