ヴィオレッタの父の再起
春の終わり。公爵邸の応接室に、珍しい客が来た。
モンテヴェルデ侯爵ロベルト。ヴィオレッタの父。
セレスティアは侯爵に会ったことがなかった。ヴィオレッタから話は聞いていた。宰相派に属し、長年宰相の政策に賛同してきた。だがヴィオレッタがセレスティアの味方になったことで、立場が揺れている。
応接室に入って、最初に目に入ったのは、侯爵の背中だった。
窓の前に立っていた。大柄な男。黒い髪に白いものが混じっている。四十代後半。軍人上がり。だが背中が丸まっていた。疲れた背中。
父、ライナルト公爵が先に来ていた。
「ロベルト。久しいな」
「ライナルト」
侯爵が振り返った。顔を見た瞬間、セレスティアは理解した。この人は、壊れかけている。
目の下に深い隈。頬がこけている。唇が乾いている。リリアーナが倒れた時の母に似ている。心労で削れた人間の顔。
「公爵閣下。私は、長年の過ちを正したい」
侯爵の声は震えていた。だが言葉は明瞭だった。覚悟を決めた人間の声。
「座ってくれ、ロベルト。お茶を」
「いえ。立ったまま申し上げます。座る資格がない」
公爵が少し黙って、頷いた。
侯爵は語り始めた。
「私は二十年、宰相に従ってきました。最初は正しいと思っていた。宰相の政策は合理的で、王国の利益に適っていると。だが」
声が低くなった。
「途中から気づいた。宰相の『合理性』は、王国のためではない。ガルニエ家のためだと。だが気づいた時には、もう抜けられなかった。弱みを握られていた」
「弱み」
「はい。十五年前、私は財政上の不正を犯しました。領地の税収を一部、個人の口座に流した。額は小さい。だが不正は不正です。宰相はそれを掴み、以来、私は宰相に逆らえなくなった」
侯爵の拳が震えていた。
「情けない話です。自分の不正を隠すために、より大きな不正に加担し続けた。宰相の政策に賛成票を投じ、反対派を黙らせ、自分の娘にまで嘘をついた」
「ヴィオレッタに」
「ヴィオレッタには『宰相は正しい人だ』と教えました。嘘だと知りながら。あの子が宰相を信じていたのは、私が信じさせたからです」
「だが、変わりました。ヴィオレッタが。あの子が変わった」
侯爵の目に涙が浮かんだ。
「娘が帰ってくるたびに、顔が変わっていった。高慢で、冷たくて、人を見下していたあの子が、笑うようになった。友人の話をするようになった。セレスティア嬢の話を楽しそうにするようになった」
「……」
「ヴィオレッタが——私に言ったのです。『お父様、セレスティアは正しいことをしている人よ。わたしも正しいことをしたい』と」
侯爵の涙が落ちた。
「あの言葉で目が覚めました。娘が正しいことをしようとしている。なのに父親が不正の側にいる。それが耐えられなかった」
公爵が静かに言った。
「ロベルト。遅くはない」
「遅いですよ。二十年も」
「遅くはないと言っている。ヴィオレッタが変われたなら、お前も変われる。親子だろう」
侯爵が顔を歪めた。泣き笑いのような顔。
「ライナルト。あなたは昔から、そうだ。厳しいのに、最後は優しい」
「優しくはない。お前の情報が必要なだけだ」
「正直ですね。ええ、情報を持ってきました。これが宰相への裏切りの証です」
侯爵が懐から書類の束を取り出した。
「副宰相マティアスの暗躍に関する記録です。マティアスが宰相に隠れて行っていた裏の政治活動。買収した議員のリスト。接触した闇商人の名前。そして」
書類の最後のページを開いた。
「マティアスが独自に作成していた『王位継承計画書』。国王崩御後にルシアン殿下を即位させ、宰相を排除し、自らが摂政となる——という計画の草稿です」
公爵の目が鋭くなった。
「マティアスが宰相を裏切る計画を文書にしていた」
「はい。マティアスは私を同志だと思っていた。同じ宰相派だから。書類の写しを渡してきたのです。『その時が来たら、あなたにも協力してほしい』と」
「なぜ、今これを持ってきた」
侯爵が真っ直ぐに公爵を見た。
「娘のためです。ヴィオレッタが正しいことをしようとしている。それなら父親も、正しいことをする。今更ですが、今更でも」
公爵が立ち上がった。侯爵の前に歩み寄り、手を差し出した。
「ロベルト。ようこそ——こちら側に」
侯爵がその手を取った。震える手で。
セレスティアは二人の握手を見ていた。
◇
侯爵が帰った後。
セレスティアは父と二人きりになった。
「お父様。侯爵の情報は信用できる?」
「できる。ロベルトは嘘をつく男だが、娘の前では嘘をつけない男だ。ヴィオレッタの名前を出した時点で、本気だと分かった」
「マティアスの計画書、すごい手がかり」
「ああ。これでマティアスを正式に告発できる。国王暗殺未遂の状況証拠と合わせれば、貴族院で弾劾案を出せる」
「でも、まだ早い」
「ん?」
「マティアスを今告発すれば、宰相はマティアスを切って、自分は無傷で済む。『知らなかった、部下の暴走だ』と。それでは宰相を追い詰められない」
公爵がセレスティアを見た。
「ならばどうする」
「マティアスの告発は、宰相と同時にやる。二人を一度に。そのために、もう少し証拠が必要。宰相自身の関与を示す証拠が」
「宰相は慎重だ。直接の証拠は」
「出てくる。宰相はマティアスを処分しようとしている。処分する過程で宰相自身が動く。動けば足跡が残る」
公爵が微笑んだ。
「お前は本当に恐ろしい子だな」
「エレオノーラ様にも同じことを言われました」
「王妃と同じ感想を持つとは、光栄だな」
二人で笑った。
◇
翌日。学園。
久しぶりに学園に戻ったセレスティアを、ヴィオレッタが待っていた。
中庭の木陰。人目につかない場所。
ヴィオレッタの目が赤かった。泣いた後。でも笑顔だった。
「セレスティア」
「ヴィオレッタ。お父様が来たよ」
「知ってる。父が昨夜、帰ってきて。『公爵閣下に全てを話した』と。——泣いてたの。父が。わたしの前で。初めて」
「……」
「ありがとう。あなたのおかげで、父が戻ってきた」
「わたしのおかげじゃないよ。ヴィオレッタが変わったから、お父様も変わった。あなたの力」
ヴィオレッタが首を振った。赤い巻き髪が揺れた。
「違うわ。わたしが変われたのは——あなたがいたから。石段で。パンを食べながら。あなたが『本当のヴィオレッタが見たい』と言ってくれたから」
「ヴィオレッタ。お父様のこと、大事にしてね」
「するわ。あのね、セレスティア」
「なに」
「父が『公爵の娘は恐ろしい子だ』って。みんな同じことを言うのね、あなたについて」
「恐ろしくないよ。ただの十二歳」
「ただの十二歳が一番恐ろしいのよ」
ヴィオレッタが笑った。本当の笑顔。仮面のない、ヴィオレッタ自身の笑顔。
セレスティアも笑った。
春の陽射し。中庭の木漏れ日。
セレスティアはヴィオレッタと並んで、少し黙った。
「ヴィオレッタ。これからも見ていてほしいことがある」
「何なの」
「イザベラ。あなたから目を離さないで。何か変わったことがあれば、すぐに教えて」
ヴィオレッタの顔が少し硬くなった。でも頷いた。
「分かった。任せて」
木漏れ日が二人の影を揺らした。春が、もうすぐ終わろうとしていた。夏が来る。




