マティアスの正体
宰相は動いた。速かった。
セレスティアが情報を渡した翌日。ナターシャの報告。
「宰相がマティアスの執務室に入りました。四十分間。出てきた時、マティアスの顔は蒼白だったそうです」
「四十分。詰問したんだ」
「はい。そしてその夜、ディートリヒが姿を消しました」
「消えた?」
「マティアスが処分した可能性が高いです。証拠隠滅」
足が速い。だが遅い。ニコラスの情報はすでに別経路でも保存されている。ディートリヒが消えても、証拠は残っている。
「宰相とマティアスの関係は」
「表向きは変わっていません。ですが、宰相がマティアスの権限を一部制限したという情報があります。王宮の警備配置の管轄を取り上げた、と」
亀裂が入った。
まだ表面的な亀裂だが、一度入った亀裂は、広がる。
「マティアスの反応は」
「不明です。ですが、ルシアン殿下との接触頻度が増えています」
「ルシアンに逃げ道を作っている」
「はい。宰相に切られた場合の保険として、ルシアン殿下を取り込む算段かと」
だが、マティアスは危険だ。追い詰められた人間は、何をするか分からない。
「マティアスについて、もっと深く知る必要がある。ヘルマンに聞く」
◇
公爵邸。ヘルマンの書斎。
ヘルマン・フォン・オーバーシュタイン男爵。父の腹心。元官僚。宰相を若い頃から知る男。
「ヘルマン。マティアスについて教えてほしい」
ヘルマンは椅子に深く座っていた。痩せた体。鋭い目。書類の山に囲まれた男。
「マティアスか。あの男の話は、あまり愉快ではない」
「愉快でなくていい。正確なら」
「正確に話そう。公にはマティアス・ベルンハルト。だが血筋を正確に言えば、マティアス・ド・ガルニエ。現在三十四歳。宰相の長男。『ド・ガルニエ』の姓を名乗ることを、幼少期は許されていなかった」
「許されていなかった?」
「マティアスの母は——ガルニエ家の使用人だった。正妻ではない。妾の子だ。宰相は長年、マティアスを正式な後継者として認めなかった」
セレスティアは眉をひそめた。
「宰相の私生児」
「正確には庶子だ。宰相が三十五歳の頃の子。母親は身分が低く、ガルニエ家の体面のために隠された。マティアスは貧民街で育った」
「貧民街」
「母が追い出されたからだ。ガルニエ家から。マティアスは五歳まで貧民街にいた。その後、宰相が才能を認め、引き取った。だが正式な嫡子ではなく、あくまで『養子』として」
ヘルマンの声に、苦いものが混じっていた。
「マティアスは——地獄から這い上がった男だ。五歳まで飢えを知っていた。殴られることを知っていた。そこから宰相の教育を受け、官僚になり、副宰相にまで上り詰めた」
「才能はある」
「ある。宰相に匹敵する知性がある。だが決定的に違う部分がある」
「何が」
「宰相は冷徹だが、理性がある。計算の範囲内で動く。だがマティアスには飢えがある。五歳までの飢えが、まだ消えていない。どれだけ地位を得ても、どれだけ権力を握っても、まだ足りない。もっと欲しい。もっと上に。その飢えが理性を超える瞬間がある」
「国王暗殺未遂は、その瞬間だった」
「おそらく。宰相の慎重な計画では遅すぎる、と。自分で動いた方が早い、と。飢えた人間の判断だ」
ヘルマンが書類の山から一枚の紙を引き出した。
「これは二十年前の官僚名簿だ。マティアスが最初に官僚として登録された時の記録」
「二十年前。マティアスは十四歳」
「ああ。十四歳で官僚試験に合格した。史上最年少だ。天才だよ、あの男は。だが天才であることが救いにならなかった」
ヘルマンがセレスティアを見た。
「お嬢様。マティアスは哀れな男だ。だが哀れだからといって、許していい相手ではない。あの男の飢えは——他人を食い殺す類のものだ」
「分かっている。マティアスは、宰相以上に危険」
「ああ。宰相は壊すにしても計画的に壊す。だがマティアスは衝動的に壊す。その衝動が向く先は予測できない」
「つまり、宰相、ルシアン、マティアス。三つの脅威が、それぞれ別の方向を向いている」
「混沌だね」
「だが混沌は、機会でもある」
ヘルマンが微笑んだ。策士の笑み。
「三つの敵が一枚岩なら手が出せない。だがバラバラなら個別に対処できる。宰相はマティアスを警戒する。マティアスはルシアンを利用する。ルシアンはマティアスを利用する。互いに利用し合い、互いに疑い合う」
「その隙間に、わたしたちが入る」
「そうだ。お嬢様、あなたの判断は正しかった。宰相に直接マティアスの情報を渡したこと。あれで敵の結束は永久に戻らない」
「永久には言い過ぎでは」
「いいや。裏切りの疑念は、一度芽生えたら消えない。水に落ちた墨のようなものだ。薄まっても消えることはない」
水に落ちた墨。
セレスティアはその比喩を心に刻んだ。
◇
夜。自室。
ナターシャと二人。日課の報告と分析。
「お嬢様。マティアスの監視体制を強化します。ニコラスにも追加依頼を出しました」
「うん。あと、イザベラのことが気になる」
「イザベラ嬢」
「マティアスはイザベラの兄、いや、異母兄。マティアスが暴走すれば、イザベラにも影響が出る」
「イザベラ嬢は、マティアスの独走を知っているでしょうか」
「分からない。でも知らないとしても、巻き込まれる可能性がある。宰相がマティアスを切る時、ガルニエ家全体に波及する」
「イザベラ嬢を守る必要がある、と」
「うん。でも近づけない。イザベラ自身が『近づくな』と言った。宰相に監視されているから」
イザベラの警告。あの日の。「わたしの傍にいると危険になる」。
「遠くから守る方法を」
「ヴィオレッタに頼みます。ヴィオレッタはイザベラと同じ学年。自然に接触できます」
「お願い。ヴィオレッタには、イザベラを見守るだけでいいと。接触はしなくていい。ただ、異変があれば教えて、と」
「承知いたしました」
ナターシャが報告を終え、退室しようとした。
「ナターシャ」
「はい」
「マティアスは、五歳まで貧民街にいた」
「はい」
「わたしは三歳から記憶がある。マティアスは五歳から、地獄を抜けた」
「……」
「境遇が違えば、マティアスも、違う人間になっていたのかもしれない」
「お嬢様。同情は」
「同情じゃない。理解。——敵を理解することは、敵を倒すために必要だから」
ナターシャは少し黙って、それから頷いた。
「お嬢様は、優しすぎます」
「優しくない。冷たいよ。理解した上で、倒すつもりだから」
「それは冷たいのではなく、強いのです」
ナターシャが微笑んで、退室した。
セレスティアは一人、関係図を見つめた。
ペンを取った。日記帳に。暗号で。
『第三の敵、マティアス。飢えた男。予測困難。
だが、飢えた人間には、弱点がある。
飢えは、満たされることを求める。
何を求めているか分かれば、導ける。
マティアスが本当に欲しいものは何か。
権力か。承認か。復讐か。
——調べる。』
ペンを置いた。
夜が深くなっていく。窓の外、王宮の灯りが一つずつ消えていく。
マティアスは今夜、何を考えているのだろう。
宰相に詰問された翌日の夜。失った権限。逃げ場を探す目。
答えは出ない。だが問い続ける限り、いつか見えてくる。
ろうそくが揺れた。風もないのに。
セレスティアは関係図を折り畳み、日記帳と一緒に引き出しに仕舞った。
※お知らせ※
これまでの本文について、物語の整合性を高めるために、人物名・年齢・時系列・一部設定の表記を修正しました。
基本的な物語の流れや結末へ向かう方向性は変わっていませんが、変更箇所が多いため、読者の皆さまが現在の流れを確認しやすいよう、第179話までのあらすじをまとめました。
「どこまで進んでいたか確認したい」
「修正後の設定で読み直したい」
という方は、こちらをご覧ください。
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王太子暗殺未遂の罪を着せられ、十八歳で処刑された公爵令嬢セレスティア・フォン・アルヴェイン。
断頭台の刃が落ちた瞬間、彼女は三歳の自分に戻っていた。
前世で母は毒殺され、兄たちは離れ、父とは分かり合えず、王太子アレクシスとは敵同士のような関係になった。
そして聖魔力を持つセレスティアは、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエの陰謀によって「危険な存在」として追い詰められていく。
二度目の人生で、セレスティアはまず母リリアーナを救うことを選ぶ。
三歳の身体と舌足らずな言葉に苦しみながらも、母の薬に毒が混ぜられていることを次兄フェリクスへ気づかせ、父ライナルトと筆頭家臣ヘルマンを動かし、内通者ディートリヒを捕らえる。
この最初の戦いで、セレスティアは「運命は変えられる」と知った。
同時に、彼女の周囲には前世になかった味方が増えていく。
無条件に抱きしめてくれる乳母マルガレーテ。
自ら志願して仕え、やがて情報網の要となる侍女ナターシャ。
問い詰めずに守る父ライナルト。
真実に近づきながらも妹の味方であり続けるフェリクス。
そして寡黙な護衛騎士ヴォルフ。
前世で孤独だったセレスティアの世界は、少しずつ書き換わっていく。
王都に出たセレスティアは、前世で自分を追い詰めた人々とも出会う。
王太子アレクシス、宰相の娘イザベラ、侯爵令嬢ヴィオレッタ、第二王子ルシアン。
けれど今世の彼らは、まだ完全な敵ではなかった。
セレスティアは彼らの孤独や痛みに触れ、拒絶ではなく、対話と選択によって未来を変えようとする。
やがて七歳で王立クレセンティア学園に入学したセレスティアは、前世とは違い、友人と仲間を得る。
フリーデリケのパンとラベンダー、コンラートのまっすぐな正義、アネリーゼの祈り、リディアの南方の知恵。
一方で、宰相派の監視、王太子の侍従カスパル、暗躍する副宰相マティアス、そして聖魔力を狙う罠も近づいていた。
魔力測定や学年末の実技試験を経て、セレスティアの聖魔力は少しずつ隠しきれないものになっていく。
フェリクス、オスヴァルト、ヨハン、グレーテルたちの知識と訓練によって制御の道は見え始めるが、聖魔力は恐怖や怒りに強く反応する危険な力でもあった。
処刑の記憶を抱えたセレスティアにとって、自分自身の心を保つこともまた、大きな戦いだった。
十歳を迎える頃、王宮では国王レオナルドの病状が悪化し、摂政をめぐる政争が始まる。
王妃エレオノーラは、かつて宰相に封じられてきた自分の声を取り戻し、息子アレクシスを守るため摂政に立候補する。
セレスティアたちは票を集め、ヴィオレッタもまた父ロベルト侯爵を動かすために立ち上がる。
結果、王妃は摂政となり、宰相の支配に初めて大きな亀裂が入った。
しかし、戦いは終わらない。
宰相ヴィクトール、副宰相マティアス、そして兄への劣等感を抱えるルシアン。
三つの敵意は絡み合いながらも、少しずつ別々の思惑で動き始める。
セレスティアはアレクシスとの婚約を受け入れ、前世と同じ罠の道を、今度は自分の意志で歩くことを決める。
王太子暗殺未遂事件では、セレスティアが毒を見抜き、カスパルと王宮使用人の動きを追うことで真相に迫る。
その後、母リリアーナが過労で倒れ、フリーデリケの手紙に救われ、ヴォルフからは「秘密を知らなくても守る」と告げられる。
セレスティアは、前世では得られなかった帰る場所と、支えてくれる人々の存在を改めて知る。
十二歳の舞踏会で、前世の灰色の記憶を今世の藤色の夜へと塗り替えた直後、国王への第二の暗殺未遂が起きる。
犯人として浮かび上がったのは、宰相ではなく、副宰相マティアスだった。
セレスティアは恐怖を抱えたまま宰相ヴィクトールと対面し、マティアスの独走を伝える。
これにより、宰相、マティアス、ルシアンの間に亀裂が生まれ、敵陣は一枚岩ではなくなっていく。
そして第180話。
ヴィオレッタの父、ロベルト・モンテヴェルデ侯爵が公爵邸を訪れる。




