前世の記憶
舞踏会の翌日。
セレスティアは自室のベッドの中にいた。起き上がれなかった。
体が重いのではない。心が重い。
昨夜、夢を見た。
前世の夢。
夢の中のセレスティアは十二歳だった。今と同じ年齢。でも全てが違った。
◇
前世の十二歳。
社交デビューの舞踏会は灰色だった。
灰色のドレス。母がいないから、誰も色を選んでくれなかった。侍女が「これでよろしいですか」と持ってきた一着を、そのまま着た。似合うとか似合わないとか、考える余裕もなかった。
広間に入った時、誰も振り返らなかった。
アルヴェイン公爵家の息女。名前だけは知られていた。でも顔は知られていない。公爵家の娘は表に出ないから。
父は来なかった。「忙しい」と。
母はもういない。病で亡くなった。セレスティアが七歳の時に。
婚約者のアレクシスは別の令嬢と笑っていた。セレスティアのことは視界に入っていないようだった。
壁際に立っていた。一人で。灰色のドレスが壁の色に溶けて、本当に、見えなくなっていた。
誰も話しかけてこなかった。
誰も名前を呼ばなかった。
護衛の騎士もいなかった。父が手配しなかったから。
侍女もいなかった。公爵家の侍女は冷たかった。最低限の仕事をこなすだけで、寄り添ってはくれなかった。ナターシャのような人はいなかった。
広間の隅で泣いた。声を殺して。涙が灰色のドレスに落ちた。
「泣いているのか」
声をかけてくれたのは一人だけ。
小さな女の子。金髪の。名前は覚えていない。
「泣かないで。お菓子、食べる?」
手のひらに小さなクッキーが載っていた。丸い形の。
受け取れなかった。「ありがとう」も言えなかった。
女の子はしばらく傍にいて、それから去っていった。
あの子は誰だったのだろう。
前世の記憶の中で、唯一温かい光。
◇
夢から覚めた。
枕が濡れていた。泣いていたのだ。寝ながら。
セレスティアはベッドの上で膝を抱えた。
今世には母がいる。藤色のドレスを選んでくれた。「あの子の銀髪には藤色が映えるわ」と。
今世には父がいる。銀のクローバーの飾りを贈ってくれた。
今世にはナターシャがいる。目をきらきらさせて布地を選んでくれた。
今世にはアレクシスがいる。「似合っている」と、耳を赤くしながら言ってくれた。
今世にはフリーデリケがいる。「すっごく綺麗!」と全力で叫んでくれた。
今世にはコンラートがいる。壁際で不器用に見守ってくれた。
今世にはヴィオレッタがいる。目配せで「異常なし」と伝えてくれた。
今世にはヴォルフがいる。三歩後ろで、九年間。
涙が止まらなかった。
「お嬢様。朝食の用意が」
ナターシャが部屋に入ってきた。セレスティアの顔を見て、足が止まった。
「お嬢様? 泣いて……」
「大丈夫。夢を見ただけ」
「夢……」
「悲しい夢。でも、もう大丈夫。大丈夫だから」
ナターシャは何も聞かなかった。ただベッドの端に座って、セレスティアの背中をさすった。
温かい手。
「ナターシャ」
「はい」
「わたし、恵まれてる」
「はい。お嬢様は、恵まれています」
「でも……前の……」
言いかけて、止まった。「前世」とは言えない。
「前の、わたしは、恵まれていなかった。すごく。一人で、ずっと」
ナターシャは背中をさすり続けた。何も聞かなかった。
「だから——今が怖い。こんなに幸せで。こんなにみんながいて。いつか全部なくなるんじゃないかって」
「なくなりません」
「でも、前は……」
「お嬢様」
ナターシャの手が止まった。そしてセレスティアの肩を、両手で包んだ。
「わたしはここにいます。なくなりません。どこにも行きません」
「ナターシャ……」
「お嬢様が走る限り——わたしは傍にいます。お嬢様が泣く時も。笑う時も。怒る時も。——全部」
「約束……」
「約束です。九年前からずっと約束しています」
九年前。セレスティアが三歳の時。ナターシャが公爵家に来た時から。
その約束は一度も破られていない。
「ありがとう」
「お礼はいりません。朝食を持ってきます。今日は蜂蜜のパンケーキにしましょう」
「パンケーキ?」
「はい。お嬢様が泣いた日は甘いものです。決まっています」
「誰が決めたの」
「わたしが。九年前に」
ナターシャが微笑んだ。いたずらっぽく。
セレスティアは笑った。涙を拭いて。
パンケーキ。蜂蜜の。
◇
朝食の後。セレスティアは日記帳を開いた。暗号で書く。
『昨夜の夢のことを書く。
舞踏会の夢。灰色の夢。
でも今日は少しだけ泣いた。
ナターシャにパンケーキをもらった。
甘かった。
追記。夢の中の舞踏会で、小さな金髪の女の子がクッキーをくれようとした。
あの子は誰だったのだろう。
金髪。小さい。クッキー。
もしかして……』
ペンが止まった。
金髪。小さい。クッキー。
フリーデリケ?
いや。前世にフリーデリケがいたかどうか分からない。ブリュンヒルデ男爵家の娘だから、舞踏会に来ていてもおかしくない。でも前世と今世で同じ人物かどうかは確証がない。
でも。
もしあの子がフリーデリケだったなら。
前世でも手を差し伸べてくれていた。
受け取れなかっただけで。
セレスティアの目がまた熱くなった。
ペンを置いた。日記帳を閉じた。
窓の外。春の空。青い。
今世のフリーデリケは手を振ってくれた。舞踏会で。全力で。遠慮なく。
今世は受け取った。あの笑顔を。あのクッキーを。
もう手放さない。
「ナターシャ。フリーデリケにお礼の手紙を書く。昨日の舞踏会の」
「はい。便箋をお持ちします」
「あと、クッキーを焼いて。わたしが。自分で」
「お嬢様が焼くのですか?」
「うん。約束したでしょう。失敗したら笑ってって。だから焼く。フリーデリケに」
ナターシャが目を丸くして、それから笑った。
「台所に案内しましょう。マルタが驚きますよ」
「マルタには内緒。失敗する前提だから」
「失敗する前提なのですか」
「わたし、お菓子作ったことないもの」
「……お嬢様。それは覚悟が必要ですね」
二人で笑いながら、台所に向かった。
結果。
クッキーは黒い塊になった。
形は丸くしたはずなのに、なぜか四角くなった。
焦げを通り越して炭になった部分がある。
でも一枚だけ、なんとか食べられるものができた。歪んだ丸。少し焦げてるけど、甘い。
「これをフリーデリケに送る」
「一枚だけですか」
「一枚だけ。奇跡の一枚」
フリーデリケへの手紙に添えて、奇跡の一枚を送った。
三日後の返事。
『セレスティアさまへ
クッキーおいしかったです! 少し焦げてたけど! おいしかったです!
二回言いました!
また焼いてください! 一緒に焼きましょう!
フリーデリケ
追伸。わたしも四角いクッキーを焼いたら丸くなりました。
クッキーは丸くなりたいみたいです。やっぱり。』
セレスティアは手紙を胸に当てた。
台所が焦げ臭くなって、ナターシャに笑われて、それでも一枚できた。
奇跡の一枚が、フリーデリケの「おいしかったです」になった。
「一緒に焼きましょう!」と手紙は続いていた。
「ナターシャ。フリーデリケの返事に、また焼くって書いて」
「台所をもう一度お借りするのですか」
「うん。今度は焦がさない」
「それが難しいのです」
「挑戦する」
ナターシャが笑いながら便箋を持ってきた。
春の日差しが窓から差し込んでいた。




