12歳の舞踏会
十二歳の誕生日は、ドレスの海に溺れることから始まった。
「こちらのサーモンピンクも素敵ですが、お嬢様のお肌にはこちらの淡い藤色が」
「いえ、王太子の婚約者なのですから、王家の色に寄せた白金がよろしいかと」
「白金は地味すぎます。十二歳の社交デビューですよ? もう少し華やかに」
仕立て屋が三人。布地の見本帳が五冊。リボンの山が机を埋めている。
セレスティアは鏡の前に立たされて、次々と布地を当てられていた。
「ナターシャ、助けて」
「お嬢様。これは我慢してください。社交デビューのドレスは一生ものです」
「一生着るの、これ?」
「比喩です」
ナターシャまで楽しそうだった。いつもは冷静な侍女の目がきらきらしている。布地を見る目が違う。情報分析の時とは別種の真剣さで、色味の違いを検討している。
「ナターシャ、あなたこういうの好きなの?」
「嫌いではありません」
「目がきらきらしてるけど」
「気のせいです」
絶対気のせいではなかった。
結局、淡い藤色のドレスに決まった。リリアーナの助言だ。「あの子の銀髪には藤色が映えるわ」と。母の目は正しかった。
鏡に映った自分を見た。
銀色の髪が肩まで伸びている。淡い藤色のドレス。レースの袖。胸元に小さな銀の飾り、クローバーの形をしている。父からの誕生日の贈り物だった。
「……誰、これ」
「お嬢様ですよ」
「わたし、こんな顔だったっけ」
鏡の中の少女は綺麗だった。自分で言うのは変だけれど。銀髪と藤色の組み合わせが、碧い瞳を引き立てている。
「お嬢様。綺麗ですよ」
ナターシャが珍しく、率直に言った。
「……ありがとう」
頬が熱くなった。褒められ慣れていない。戦略や分析を褒められることはあっても、外見を褒められることはほとんどなかった。
◇
舞踏会場。王宮の大広間。
水晶のシャンデリアが天井から何十本も下がっている。蝋燭の光が水晶を通って、虹色の粒になって降り注ぐ。大理石の床は磨き上げられ、ドレスの裾が映る。
百人以上の貴族が集まっていた。社交デビューの舞踏会は、王国の一大行事だ。
セレスティアは広間の入口に立った。
「アルヴェイン公爵家息女、セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢」
名前が呼ばれた。広間の視線が一斉にこちらを向いた。
百の視線。
政治家の目。分析する目。品定めする目。好奇の目。嫉妬の目。そして、
広間の中央に立っている少年の目。
アレクシスがセレスティアを見ていた。
白い礼服。金の肩章。ブロンドの髪が整えられている。いつもの無造作な髪形ではなく、きちんと。
目が合った。
アレクシスの表情が——変わった。一瞬。ほんの一瞬だけ。驚いたような、見惚れたような。すぐに取り繕ったけれど。
セレスティアはその一瞬を、見逃さなかった。
心臓が、一拍、余計に打った。
違う。これは政治の場。集中しなければ。
大広間を歩いた。百の視線の中を。背筋を伸ばして。藤色のドレスの裾が大理石の上を滑る。
アレクシスの前に立った。
「殿下。お招きありがとうございます」
「ああ。よく来た」
アレクシスの声が、語尾で上擦った。
「殿下? お顔が赤いですよ」
「赤くない。広間が暑いだけだ」
嘘だ。広間は涼しい。窓が全て開いている。
だがセレスティアは追及しなかった。自分の頬も熱かったから。
◇
舞踏会が始まった。
最初のダンスは婚約者同士で。
楽団がワルツを奏でた。弦楽器の旋律が広間に満ちる。
アレクシスが手を差し出した。白い手袋。
セレスティアがその手を取った。
触れた瞬間——アレクシスの手が、指先から震えた。
「殿下。緊張してる?」
「していない」
「手が震えてる」
「震えていない。お前こそ、手が冷たいぞ」
「緊張してるから」
「お前が緊張するのか」
「するよ。百人に見られてるもの」
二人で小さく笑った。
ワルツが始まった。一歩、二歩、三歩。回転。
ダンスの練習はナターシャに付き合ってもらった。ナターシャは踊りも上手だった。「侍女の基本教養です」と言っていたが、あの動きは基本教養の域を超えていた。
アレクシスのリードは悪くなかった。少しぎこちないけれど、拍子を外さない。
「殿下、練習した?」
「した。コンラートに付き合わせた」
「コンラートに?」
「あいつの足を何度も踏んだ。怒っていた」
セレスティアは笑いを堪えた。コンラートとダンスの練習をするアレクシス。想像するだけで面白い。
「コンラートは許してくれた?」
「『もう二度とやらない』と言われた」
回転。ドレスの裾が広がった。藤色の布地がシャンデリアの光を受けて、淡く光った。
「セレスティア」
「なに」
「似合っている」
「え?」
「ドレス。似合っている。その色」
アレクシスの目が逸れた。視線を合わせられないように。
「……ありがとう」
頬が熱い。ダンスのせいではない。
「殿下も似合ってるよ。白い礼服」
「そうか」
「うん」
「……そうか」
アレクシスの耳が赤かった。
ワルツの旋律が流れる中で、セレスティアは広間を分析していた。踊りながら。
宰相が壁際で微笑んでいる。ワインのグラスを傾けながら。その目は計算の目。この舞踏会で何を読み取ろうとしているのか。
副宰相マティアスが宰相に何か囁いている。宰相の微笑みがほんの一瞬、消えた。何か不愉快なことを伝えられたのだろう。
ルシアンがイザベラとダンスをしている。イザベラの表情は硬い。笑顔を作っているが、目が笑っていない。ルシアンの手を拒めないでいる。
ヴィオレッタが視線を送ってきた。「異常なし」の目配せ。会場の監視を引き受けてくれている。
コンラートが壁際で腕を組んでいる。近衛騎士の礼服が似合っていない。本人も居心地悪そうだ。
そして遠く、広間の入口近くに。
フリーデリケがいた。
貴族の娘として招待されているのだ。水色のドレス。少し大きい。おそらく姉のお下がり。蜂蜜色の髪にリボンを結んでいる。
フリーデリケがセレスティアに気づいた。満面の笑みで手を振った。遠慮なく。舞踏会の作法も何もない、全力の手振り。
セレスティアは踊りながら、少しだけ手を振り返した。小さく。
アレクシスが気づいた。
「誰に手を振っている」
「フリーデリケ。あそこにいるの」
「ああ、ブリュンヒルデの。あの小さい子か」
「小さくないよ。わたしと同い年」
「お前も小さいだろう」
「殿下も大して変わらないでしょう」
「僕は来月伸びる予定だ」
「予定で伸びるなら苦労しないよ」
アレクシスが笑った。本当に楽しそうに。
「お前と踊るのは悪くない」
「殿下は踏むのが上手ですね」
「それ、褒めてないだろう」
「褒めてない」
「正直だな」
「正直なのがわたしの取り柄」
ワルツが終わった。最後の音が広間に余韻を残した。
アレクシスがセレスティアの手を離した。一瞬、指先が迷うように。
「次の曲は別の相手と踊らなければならない。社交の作法だ」
「うん。分かってる」
「でも最後の曲は、また」
「最後の曲」
「婚約者と踊る。最後は」
「……うん。約束」
アレクシスが離れていった。次のダンスの相手、どこかの伯爵令嬢の元へ。
セレスティアは広間の端に寄った。
フリーデリケが駆け寄ってきた。ドレスの裾を踏みそうになりながら。
「セレスティアさま! すっごく綺麗! ドレス! 髪! 全部!」
「フリーデリケ、声が大きい」
「だって! 綺麗なんだもん! わたし見惚れちゃった!」
遠慮がない。周囲の貴族が振り返っている。でもフリーデリケの笑顔に悪意を見出す人はいない。あまりにも純粋すぎて。
「フリーデリケも可愛いよ。その水色のドレス」
「これ、お姉ちゃんの。ちょっと大きいの。でもお母様が裾を直してくれたの」
「裾、ちょっと糸が出てるけど」
「あっ。ほつれてる。どうしよう」
セレスティアはしゃがんで、フリーデリケのドレスの裾の糸を指で押し込んだ。
「これで大丈夫。目立たないよ」
「ありがとう」
フリーデリケの目が——潤んだ。
「セレスティアさま。ここにいると、わたし場違いだなって」
「場違い?」
「みんな綺麗で、ドレスも新しくて、作法も完璧で。わたしだけ、お下がりの、ほつれたドレスで」
「フリーデリケ」
セレスティアがフリーデリケの手を取った。
「ドレスは関係ない。新しくても古くても。大事なのは、着ている人」
「……」
「フリーデリケが着てる水色のドレスは、フリーデリケが着てるから、一番可愛い」
フリーデリケの目から——涙がこぼれた。すぐに拭いた。
「泣かない、泣かないもん。ありがとう。セレスティアさま」
「うん。パンは持ってきた?」
「舞踏会にパンは持ってこないよ!」
「残念。お腹空いた」
フリーデリケがぷっと吹き出した。涙と笑顔が同時に。
平穏な夜。華やかな夜。
でも今夜は踊ろう。笑おう。
最後の曲をアレクシスと。
それまではフリーデリケと、お菓子を食べよう。




