翌朝の定位置
翌朝。
扉を開けた。
ヴォルフが立っていた。
いつもの場所。扉の左、壁際。直立。腕は体の側面。視線は廊下の先。何もなかったかのような顔。昨夜のことは、どこにも残っていない。
一瞬、立ち止まった。
昨夜を思い出した。中庭。傾いた夕日。片膝をついた姿。あの場所にいた人と、今この扉の前に立っている人が、同じ人だとは思えないくらい、今朝のヴォルフはいつも通りだった。
九年間、いつもここにいた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ヴォルフ」
声が出た。普通の声だった。ヴォルフも普通の声だった。
「本日の日程は、午前中は学術の自習、昼食後に魔力制御の訓練、夕方にアレクシス殿下との予定です」
「うん。ありがとう」
いつも通りの報告。いつも通りの声。何も変わっていない。変わっていないことが、今朝はありがたかった。
昨夜の中庭を持ち込まない。今朝の廊下を、いつも通りの廊下にする。ヴォルフが、そうした。それがありがたかった。
◇
セレスティアは廊下に出た。ヴォルフが三歩後ろについてくる。いつも通りの距離。いつも通りの足音。石畳に、二人分の足音が重なる。昨夜は中庭で立ち止まっていた足が、今朝は廊下を歩いている。
昨夜のことを思い返した。
中庭。夕日が傾いた頃。紅茶が冷めていく音。クッキーの皿が空になった後。ヴォルフが片膝をついた。あの時の目が、まだ視界に残っている。
九年間、一度も見たことのなかった目だった。
揺れた声で、それでも言葉を選んで、「私はただお嬢様を守る。それだけです」と言った声が、一晩経ってもまだ耳にある。
「ヴォルフ」
「はい」
「昨日のこと」
「はい」
一拍。
「……何でもない。忘れて」
「承知しました」
即答だった。問い直しも、確認も、「昨日のこと、とはどのことでしょうか」という確認も、なかった。聞かれたから答えた。それだけだった。
忘れろと言ったら忘れる人間だとは思っていない。本当に忘れるわけがない。でも、「忘れて」という言葉が即座に「承知しました」に変わることが、今朝にはちょうどよかった。
余計な言葉がない。それが、ありがたかった。
◇
朝食の廊下を歩きながら、一晩かけて消化しきれなかったことを整理しようとした。思考が整理できているようで、まだぐらついている。
「ヴォルフがいなかったら、とっくに壊れていた」と言った。
言った後で、後悔した。そんなことを言う必要はなかった。ヴォルフに言われなくても分かっていて、言われなくても動いている人に、今更感謝の言葉を渡してどうする。
でも、出てしまった言葉だった。出てしまったのだから、後悔しても仕方がない。
前世のことを思い出すと、時々そういうことが起きる。前世では言えなかったことが、今世では口から出る。前世では誰にも「ありがとう」と言えなかった。感謝を言葉にする前に、相手がいなくなった。
ヴォルフは「それは光栄です」と言った。「光栄」という言葉を使った。いつものヴォルフなら「承知しました」か「存じておりました」で終わるところを。
九年間で初めて聞いた言葉だった、かもしれない。
◇
「ヴォルフ」
「はい」
「今日の訓練、見てくれる? カタリナじゃなくて、ヴォルフに」
一拍、間があった。二拍、待った。
「承知しました」
またいつも通りの返事。でも、後ろの足音が、ほんの少しだけ変わった気がした。音の間隔ではない。足の置き方の、何か。重心の置き場所が変わった気がした。
一歩、近づいた気がした。
気のせいかもしれない。
◇
食堂の前でナターシャが待っていた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ナターシャ」
「今日の朝食は蜂蜜のお粥です。昨日、お顔の血の気が引いておりましたので。蜂蜜は多めにしておきました」
「ナターシャ、気づいてたの」
「存じておりました。何かありましたか?」
「……良いことがあったの。それで疲れた」
ナターシャが首を傾げた。「良いことで疲れる」という状況を呑み込みきれていない顔をした。良いことがあれば元気になるはずで、疲れるのはおかしい、という顔だ。
「あとで話す」
「はい。お粥が冷めないうちにどうぞ」
「今日はヴォルフが訓練の見学に来る。ナターシャも来る?」
ナターシャがヴォルフの方をちらりと見た。ヴォルフは廊下に立ったままで表情を変えない。
「……ヴォルフが見学に? 珍しいですね」
「珍しくない。頼んだから来る」
「お嬢様が頼んだのですか。それは——」ナターシャが少し考えた。「喜んで」と言った。
◇
食堂の扉が開いた。朝の光が差し込んでいる。春の光だ。明るい朝だ。昨夜のことが遠くなる光の色。
セレスティアは中に入った。椅子に座った。蜂蜜のお粥が置いてある。
ヴォルフは扉の外に留まった。いつも通り。
椅子に座りながら、扉の向こうを少しだけ振り返った。
扉の影の向こうに、ヴォルフが立っているはずだ。見えない。でも、いる。
九年間、ずっとそこにいた。
昨夜は中庭で片膝をついて、揺れる声で「それだけです」と言っていた人が、今朝はまたあの場所に戻っている。
これからも、そこにいる。
お粥を一口食べた。甘かった。温かかった。ナターシャが多めにした蜂蜜の味がした。
いつも通りの朝。
昨夜と今朝の間に、何も変わっていない。
扉の向こうで、ヴォルフが立っている。
それが今朝は、いつもより少しだけ温かく感じた。
◇
午後の訓練場。
コンラートが剣を握っていた。魔力制御訓練の日は、組み手の相手をするのが慣例になっていた。今日は違う点が一つあった。
ヴォルフが壁際に立っていた。腕を組んで。いつもの無口な顔で。
「ヴォルフさん、来たんですね」コンラートが言った。
「お嬢様に頼まれました」
「へえ」コンラートがセレスティアを見た。「珍しいな」
「珍しくない」
コンラートが少し笑った。「まあいい。歓迎だ」
訓練が始まった。
セレスティアは魔力を手に集めた。心臓の鼓動に同期させる。とくん、とくん。呼吸を合わせる。コンラートが素早く動く。プレッシャーをかける。心拍が乱れかける。踏みとどまる。また同期させる。
三十分後。
ヴォルフが口を開いた。
「……強くなられましたね」
「そう?」
「この訓練を半年前のお嬢様が見たら、信じないと思います」
コンラートが頷いた。「最初は光がこっちまで飛んできた。まあ、今も飛んでくるが」
「コンラート、余計なことは言わなくていい」
「本当のことだ。強くなった、という意味で」
ヴォルフが小さく笑った。笑ったように見えた。確認しなかった。確認しなくていい。見えたことで十分だった。
◇
夕方。アレクシスとの予定を終えて廊下を歩いた。
ヴォルフが三歩後ろについてくる。いつも通りの距離。
「ヴォルフ。今日、訓練を見てくれてありがとう」
「いつでも見ます」
「また頼んでいい?」
「お嬢様が頼まれる必要はありません。言っていただければ」
「それが頼むということでしょう」
「……そうですね」
後ろで、少し間があった。
「では。言っていただければ、参ります」
セレスティアは前を向いたまま頷いた。
三歩後ろの足音が続く。いつも通りの距離。いつも通りの静けさ。
でも今日の三歩は、昨日の三歩とは少し違う。
距離は同じで、温度が違う。それだけだ。それで十分だった。




